想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

ウラギンシジミのメスだった。

2007年11月26日 | インポート

 きのう見つけたのは、蝶で、ウラギンシジミだった。

https://www.j-nature.jp/butterfly/zukan/osumesu/uraginsijimi.htmの♀であった。


「飛ぶ宝石」とも言われているそうだ。♂が特にきれいである。わが家にもこんなきれいな蝶が来るようになり、うれしい限りである。

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蝶かな蛾かな?

2007年11月25日 | インポート

 今日、見慣れない蝶のような蛾のようなものが、わが家に庭に飛んでいました。早速デジカメで取ってみましたが、名前が分かりません。蝶にもみえますが、ちょっと調べたところではのっていませんでしたので、多分蛾だろうと思いますが、結構蛾にしてはきれいな感じでした。わが家にはほんとに色々な生き物がやってきます。

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秋深し隣は何をする人ぞ (松尾芭蕉)

2007年11月10日 | インポート

  渋柿もだいぶ赤く熟れ始め、ほっておくと鳥が食べているようです。この柿が熟れてくると、何となく秋も深くなったなと感じます。                         さて、毎年、年末になると、最近は恒例で、森町に行って渋柿を買ってきて干し柿を作ります。風情を出すために、わが家の柿は取りに食べられたり自然に落下したりするまで、そのままにします。やはり秋の色に柿の朱色は欠かせません。

  ツワブキの花です。このころ咲きます。漢字では石蕗と書くようです。以前、浜松の医療センターの前に、この名前の喫茶店があったことを記憶してます。地味ながら結構気品もあり、わが家の庭にもなくてはならない植物になりました。

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縁に気づき縁を生かす

2007年11月03日 | インポート

 私は結構、縁というものについて考える方である。今まで生きてきた人生すべて縁との歴史でもある。人生60年ともなれば色々な縁があった。俗にいう良い縁悪い縁、実際は善悪などという縁は元々はないと思っている。すべてなるようになってきたのかも知れない。自然が自ずと然るべき姿にとどまるのと同じで、自我を捨て、その本質をみつめれば、なるようにしかならないのが人生であって、言葉を換えればなるようにしかなってこなかったはずである。なるような種を自分で気づかずして、まいてきたから、こうなったのであって、ただ、気づかなかったからではないかと思っている。 気づき、気づかせる。よく教育界でも使う言葉である。どの程度気づいたかという問題もあるが、極論すると、これが分かるときは、神に近づいたときであろう。  「小者は縁に会って縁に気づかず、中者は縁に会って縁を活かさず、大者は袖すりあう多少の縁もこれを活かす。」「「袖触れあうも何かの縁」 チャンスを作る。チャンスに気づく 気づきの連続が今の自分を作る。手続きをしっかり踏む。理想を現実にするには具体である手続きをしっかり踏まねばならない。いくら、理想を持っていても、そこまで行く運搬手段である自動車を動かせなければ結果は出せない。想い→具体→実現というプロセス。そこに人の協力 時流が加味すると大きな力になる。Think globally, act locally! 希望は天井にあり、実行は却下にあり! 少年よ大使を抱け!Boys, be ambitious!Boys, be an ambitious young man!   「想い続けることが大切、想いはいつかは成就する。」人は想いを持つと、人と共有したい、人に伝えたいという衝動に駆られるだろう。それが、凡人である。しかし、ここで踏みとどまりるのが、真の大人というものであろう。本当に実現したい想いは人にいってしまったら終わりである。心の中で自然の風雨に当て孤独に耐え、年月を経て、贅肉をそり落とし、また、厳しい風雨に当てウィスキーのごとく熟成し現実化させる。そのプロセスがだいじであろう。それが、できるようになったときに、その願いも成就されるだろうと、確信する。そして、その想いは幸せのために使われる。能率効率の為ではない、幸せを感ずることのできる人間の為に、否人間だけが幸せになっても、幸せにならない時代に私たちは今、いると認識しなくてはいけない。いわゆる自分を取り巻く環境である。山川草木と言っていいかもしれない。ここで浮かんで来る言葉が「山紫水明」である。山も空気が住んでいるときは紫色に見える。昔から紫が高貴な色と日本では言われてきたことにも起因しているのだろう。 山は日に映えて紫色に輝き、川の水は澄んで清らかに流れる。「山紫水明」日本人である限り、忘れてはならないことばであろう。 日本人は古来稲作を中心にして自然の中で生きてきた。 コンピュータ社会となり、何事もアナログよりデジタルが優先される時代であるからこそ、今私たちは遠く過去の日本の良さに目を向け、今この時代に先人の知恵を生かしていきたいものである。

 

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