想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

自然回帰型社会への復帰

2013年06月16日 | インポート

<o:p></o:p>

震災3年6月16日<o:p></o:p>

 <o:p></o:p>

  平成23年3月11日、未曾有の東北大震災が発生し原発の放射能漏れがあってから、はや2年とちょっとたちましたが、未だにどう放射能汚染を自然に戻すのかの答えはありません。そして、今なお、汚染水が漏れたとか話題にならない日もありません。

一番かわいそうなのは現実に人災を被った東北です。東京で暮らしている人たちの中にも東北にふるさとを持つ人々も多々いると思います。しかも、日本は原発をまだ、輸出している現状です。輸出すれば短いスパンでは経済が潤い国益に繋がるかと思います。(国益という言葉を使いますが、私的にはその言葉で語られている間は国と国のエゴがぶつかり合う状態ですから、地球益に迄高まっていきません。)

やがて、そのつけは「天につばする」たとえ通り、私たちの上に降りかかってきます。今が幸せならいいじゃないかの刹那主義、また、自分の国、自分さえよければでは困ります。やがて、そうしていけば、人類破滅への道へと進んでしまいます。1000兆円にも近づいている国の借金も同じです。私たちは今を生きていますが、過去と未来をつなぐ、その今を生きているわけですので時系列でつながっているのです。昔、数学で線を勉強しました。その線も無数の点が繋がってできているのですね。

以前のブログでもいったと思いますが、今こそ、人類は英知を持って、自然循環型社会に戻らなければ私たちの未来はありません。長いスパンで考えれば誰が考えても当たり前のことです。現状がよければ自分さえよければという狭い考えが未来を曇らせているのです。いわゆるエゴです。民主主義や人権主義はそのもの事態は悪くはありませんが、運用を間違えると浅はかな人間のやる足下だけを見ることに陥りやすい危険性があります。私たち団塊の世代が現存している時代はまだ、地球に人工物をためるだけのゆとりは少しは残っているでしょう。しかし、「ちりも積もれば山となる」という昔からの格言は生きています。このままでは由々しき時代へと時計の針は進んでいきます。人類の出したごみで地球は埋まってしまわないだろうかと危惧してます。<o:p></o:p>

私は毎日健康のためにウォーキングを楽しんでいますが、同時に歩きながら自然の外気にふれあい自然と対話をしながら色々考えます。自然は同じ時は一時もありません。時々刻々とその姿を変えています。それは自然がある意志を持って動いているかのようです。(と、いうよりもある意志を持って動いているのでしょう。)そうです、それが大いなる意志であり、私の考えが小なる意志だと私は思っています。それらすべては自然の摂理の掌の中でのできごととでもいいましょうか。
 また、古来、人はそれを神としてあがめてきました。村々には神社があり、それは鎮守の森で守られてきました。その、森が最近は環境の変化で、炭酸ガスやPM2.5に犯されるようになってきています。
 日本は特に自然を神としてあがめてきた国です。その中で短歌や俳句など日本独自の文化もうまれてきました。仏教以前に神道がありました。中国の漢字が入って来る前に大和言葉がありました。英語も国際化や国際理解で必要ですが、日本人としてのアイデンティティも忘れてはなりません。
 最近、心配していることに気象の変化があげられます。四季の変化がなくなりつつあり、夏と冬ばかりで秋や春の中間がなくなりつつあります。<o:p></o:p>

このことは、人間の考えの中に極端な考え方を生み付けていかないかと思います。白か黒かです。アナログかデジタルかです。その中間のおぼろげな部分、灰色の部分、建物でいえば空間の部分、音楽で言えば休符の部分、工作でいえばのりしろ部分、朗読でいえば間の部分等が切り捨てられていくように思います。思いやりや察し合いが、徐々に日本人社会の中から消えつつあるように思います。奥ゆかしさや恥や外聞といったものでしょうか。「はっきり言ってくれないと分からないよ。」とか、言う言葉にも表れています。それが、表現が重視されて「人の気持ちを察する」能力の欠如にもなっているように思います。しゃべる人に目が向き、黙っている子に目が向いてない教室の姿を思い浮かべるとよく分かると思います。しゃべらないと損、表現しないと分からないの弱肉強食社会に向かってお互いの心が索漠として来ているのでしょう。弱い人にそっと手をさしのべる優しい世界、そう言う社会こそが長く続く自然循環型社会を育てていくのではないでしょうか。長い間に育まれてきた日本人の美意識、価値観、文化にもその辺が大きく影響されるものと思います。残念です。<o:p></o:p>

さて、現在ですが、益々ごみが増えています。経済優先の仕組みがその根底にあるからです。原発廃棄物や石油製品等自然界に存在しえない物が増えているのです。これは、ほっておくと、いつかは地球がパンクしてしまいます。水の惑星地球、青い地球が変化する寸前に来ているのではないでしょうか。<o:p></o:p>

人類が英知をかけて軌道を修正していかなくてはなりません。そのためにはもう、科学は自然の摂理を解き明かす為に使い自然界に存在し得ない物を作らないことから始めないといけません。自然の仕組みを理解するためのサイエンスであって、それ以外のものは地球の命を縮めてしまいます。人間も地球の一員ですので、そのサイクルの中で生きていくしか方法はないと思います。欲望はきりがありません。<o:p></o:p>

自然を大切に畏敬の念を持ち、合掌し自然に感謝する本来の考えに立ち未来を見据えていかないと、人間自身や周りの生命体も生き残れません。自然の循環の中に取り込むことのできないごみの増加を抑えることを考えなくてはなりません。<o:p></o:p>

ごみとごみでないものを子供に教えることは環境教育ではもっとも重要なことです。それには、もっと、自然に触れさせて、微生物により分解し、自然に帰る物とそうでないものがであり、自然のサイクルに戻っていかない物がごみである。ということを義務教育のうちにしっかり体で覚えさせていく教育をしていくことが大切です。そう言う意味で自然に帰ることのない化学製品薬品を使うことはよくないことが分かります。<o:p></o:p>

太古の昔にはごみ等という定義はなかったはずです。いつの間にか、人間が余分な物を作り出し、ごみという概念を作り出してしまったようです。<o:p></o:p>

かって、地球上には、ごみはなく自然の生態系の中で循環していたはずです。<o:p></o:p>

世界史で昔、植民地主義の時代があり、七つの海をポルトガルやスペインが闊歩していた時代がありました。コロンブスが新大陸を発見したとかジパングとか言われていた時代。世界は早い者勝ちにアメリカやインドシナ、アフリカ等を植民地にしていました。<o:p></o:p>

また、当時、ゼロサム社会なんて言葉はどこにもありませんでした。世界は広大だったのです。すべて、無尽蔵だった時代でした。新大陸もアフリカ、インドシナ、南北アメリカも、ヨーロッパが世界の中心でした。日本も極東と呼ばれていました。<o:p></o:p>

さて、アメリカも当時は新大陸と呼ばれていました。ヨーロッパから見れば新大陸なんだけども、土着のアメリカインディアンからみれば、自分たちが住んでいた郷土だったわけで、ずいぶん自分勝手な言葉だということが後になって分かりインディアンに対して申し訳ないと思っています。西部劇などもすべて移住者を中心にしてかかれ、インディアンは悪者あつかいでした。当時は物の見方も一方に偏っていた自分が恥ずかしく思います。それと、偏向教育の恐ろしさも感じています。何でも、客観的に物事を俯瞰しないと本質は見えてこないものだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キジの巣

2013年06月13日 | インポート

 今日、仕事が終わってから、卵が温められているか心配だったので、そっと、近づいてのぞいたところ
お母さんキジが卵を温めていたので、ほっとした。雛がかえるといいな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キジの卵

2013年06月12日 | インポート

 震災3年6月12日

 畑で何気なく草を刈るためにその場所に近づいたら、バタバタといって、鳥が飛び立って
いった。雌のキジだった。先日も同じ場所から飛び立って私の方がびっくりしたことを思い出した。
そこを、そっと、のぞいて見たら9個の卵があった。今まで、お母さん鳥として一生懸命子育てに
専念していたのだろう。
 子を思う親のことを思うと悪いことをしたなと思う。安心して子育てができないと
思ったのだろう。前回もそこで私が近づいたら飛びだった。同じことがあったので、今度からは
そこで子育てを続けるだろうか。かわいそうなことをしたと思った。
もし、雛がかえったら、そっと、遠くで見守ってやろうと思う。それにしても、私の畑に
巣を作ってくれてありがとう。私としても自然を大切にというコンセプトで菜園をやっているのでありがたい。
早く雛にかえるのが楽しみだ。今後は、子育てのじゃまをしないようにしたいと思う。
 それにしても、近くで、先日は蛇を見つけたので蛇に襲われなければいいがと心配をしている。

 

 緑の円の付近で卵を抱えていた。もっと、人目につかないところの方がいいと思うのだが、キジの気持ちは
どうなっていたのだろう。近くに、見つかりにくい茂みもあったのに.....。私の畑に来てくれてありがとう。
そういえば、今年も勤め先のコミュニティセンターにツバメが巣を作り子育てをはじめた。これも成長が楽しみだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「奇跡のリンゴ」から

2013年06月09日 | インポート

震災3年6月9日

  私たちは流行の部分で生きていると普段は感じていますが、よくよく考えて見るとその根底に不易な部分があるのに気付きます。
   昨日見た映画 「奇跡のリンゴ」木村秋則さんの生き様はまさにそこに振れたような感じで久しぶりに感動しました。3,4回、あるシーンを見ていて目頭に涙が浮かんで困りました。自分の中にある不易な部分と琴線がふれあったのでしょう。貧乏でしたが昭和のよき時代がよみがえって来る感じで自分の中にある便利な時代での貯まったごみが一層されたような気がしました。そんな映画のBGMの中でベートーベンの第6「田園」のイントロにでてくるメロディーが妙に気になりました。いっそ、」「田園」の曲を全部使った方がよかったと思いました。
 さて、5,6年前に退職して生き方を模索していた時に偶然ある出会いからこの「奇跡のリンゴ」の本を読むことになりました。それは、ある時期無性に野菜を作りたくなったのです。昔から自然という言葉に関心を抱いていた自分でしたが、みずみずしく育っている白菜を見ていて…。もう、これは理屈を超えていました。いわゆるパッションというのかもしれません。 早速、小さくてもいいので畑で野菜を作りたくなったのです。と、いうよりもその基礎をなす土作りやその周りの自然の営みに関心を持っていたのかとも思います。それは、その前から花壇に咲くきれいな花よりも自然の中に咲く山野草の花や雑草の中に美しさを見つけるようになっていたからです。朝露に濡れている雑草の美しいこと、踏まれても踏まれても肥料もなくても自然の恵みをいただきその生を全うするけなげな植物…、谷間に咲くササユリの花のなんと可憐なこと等…。人智を超えたエキスがその中にはあふれているようでした。浅はかな知識を振り回している人間の傲慢さがやりきれません。もっと、人間は天空の星を見て謙虚にならなけれがいけないのにと思わずにはいられませんでした。
 そんな想いを抱きながら私は、ドライブの傍らで農をいそしんでいるおっさんに
「畑を借りたいんですが…。」
と、声をかけて回っていた時期がありました。偶然、OKがでて借りることになりました。そこにいた方が、
「自然農法をやるならこの人が有名ですよ。」
と、いって紹介された本が「奇跡のリンゴ」の本でした。図書館で借りて見ると、私より少し若い気のいいおじさんでした。見るからに欲を離れた大切なものを黙々と求めようとしているおじさんでした。そんな訳から私も畑を持つようになりました。今は、そこで無心に慣れるのが最大の癒しです。

 表現の道具とは


  こうしていても、次から次へと表現したいことが浮かんでは消え消えては浮かぶわけですが、もう、どうしても言葉では書ききれないものが出てきます。ですので、本当の人にものを伝えたいと思うと、もう、言語だけでは限界があるのです。心の動きは言語だけでは満足しないのです。最近はAVで記録する便利なものもたくさんでてきて、助かっています。が、その瞬間、瞬間、いわゆる刹那に起こる事象はどう表現したらいいのでしょう。一瞬にして色々なものを昇華(矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。物事が一段上の状態に高められること。)し再合成して違ったものを生み出す。直感的なもの。一瞬にして本質的なものに達するプロセス、これらは過程よりも結果そのものを受け入れるしかありません。文章では表すことの難しさを感じつつブログをしている日々です。
 わかっているつもりでも、その刹那刹那、微妙に変化しているのが心です。だけど、その根底に流れて入るものが不易な部分なのです。その不易な部分から流行が生まれるのです。スマホはまさにその流行の部分を走っています。そういう意味で私はスマホを使っています。今、スマホも色々な矛盾を内包しつつ新しい到達点に向かっている通過点にあると思います。今後のPC,スマホ、テレビ等がどう融合していくか楽しみです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スマホあれこれ

2013年06月08日 | インポート

 震災3年6月8日

 ヤンボーニンボ-トンボー」といえば団塊の世代にはよく分かると思います。黒柳徹子さんがでていたと思います。それから、中村メイコさんも同じように活躍していたことをおぼろげに覚えています。また、私には5つ上の姉がいましたので、よく姉からも布団の中で昔話をきいたことを思い出します。ほろ苦い思い出とともに時々そのころのことが思い出されます。「紅クジャク」そんな番組もありました。それから、「昼の憩い」こんな番組も今思い起こしても心地いい記憶として残っています。この番組は長寿番組で今でも、お昼どきになりラジオのスイッチをひねるとテーマ曲とともに流れてきます。(当時はスイッチはひねると電源が入るようになっていました。タッチパネルのスマホの時代から隔世の感があります。)当時の切ない想いも、それをきくとどっとあふれ出てきます。これを聞くのも今でも楽しみの一つです。
 そういえば、当時の我が家は夏になると蚊帳をしき寝ていました。たまに、蚊帳の中にムカデが出てきてびっくりしたことがありました。今となってはいい思い出です。父がよく、五右衛門風呂のふたを裏返してその上にうどん粉をのせ、自家製のうどんを作って食べたこともありました。コミュニティでもそば作りをよくやりますが、うどんもこうしてつくるといいですね。
 「はじめちょろちょろ中パッパ、赤子泣いてもふた取るな。」これは釜で薪をくべて、ご飯を作ったときにいわれた言葉です。このようにして工夫してご飯はたいたものです。今の自動炊飯器とえらい違いますね。どうも、今の人間は自然と工夫が足りなくなっているのが分かります。考えることを機械がやってしまっているのですね。人間が進歩しない大きな理由です。今の人間はどうも近視眼的にしかものをみないような気がします。案外この辺に理由があるのではないでしょうか。園芸でいえば作物は種から育てればその一生がよく分かるのに苗を買ってきて育てるから中途からしか分かりません。今の人間の子育ても似てきていますね。もっと、トータルに俯瞰してものを見る目が必要です。今の教育も同じようになっていることを危惧している人間です。こうしていると当時のことが次から次へと浮かんできます。
 ある人がこんないい言葉を残しています。「教育とはすべて忘れ去った後に残るものだ。」なるほど、そうだと思います。このような幼い頃の思い出がこのようなものだと思います。年を重ねると色々な細かいことは忘れるようになります。しかし、このような右脳や前頭葉に刻まれた感覚的な想いはいつまでも残ります。よく認知症患者でも言葉や知識は忘れても感覚的なことは覚えているので邪険な言葉遣いをすると認知症患者にも、すぐ分かるからしないようにといいますが、まさにこのような理由からだと思います。そういう意味でこのことはわたしとしては心に刻んでおかなければと思っています。いつでも人には真心で接するようにするということが一番大切です。人は言葉の裏にある真心を見抜いていますからね。「成長の家」の言葉をかりれば、これが生命の実相かもしれません。皮相的なものが言葉や知識でありその根本にあるものが実相です。
 ラジオにはこのように特別な思い出がたくさんあります。ただ、残念なことに、この地に住んでラジオが家にいてよく聞けないのには困っていましたが、スマホを使うようになり、ラジコやラジラジでラジオが聴けることが分かり、最近はよく聞くようになり便利になったな、と、感心しています。マップもいつでもみれますし、それを使えば日本中どこもすぐに分かってしまいます。世界も俯瞰できます。
 ところで、今回、スマホの料金が過大になっているのがわかりました。通常はWifiで聞いて入るつもりでいたのですが、データをONにしoffに戻すのを忘れてしまい、3G回線につながってしまいびっくり、今月は1.2万円が6月の初めなのに課金されることになってしまい。今月は自分からは電話とメールはしないようにしています。ちょっとしたこと(さわっただけで)で電子的にスイッチが入ってしまう今日のスマホ事情は困りますね。ゲーム会社のコンブガチャ等の過大な課金がDenaなどやスマートホンでも今大きな問題になっていますね。落とし穴には気をつけなければと思います。 早く気がついたので助かりました。ほっとけば10万円以上の請求が来ていたかもと思うとぞっとします。文明の利器を使うのも大変な時代になりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする