想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

虫眼鏡の実験から想う

2010年08月29日 | インポート

 誰でも、小学生の頃にやったことに、虫眼鏡で光を集める実験をやったことがあると思います。現在小学3先生の理科でやることに学習指導要領で決まっています。

 

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 私も理科主任をやっていましたので、これによく関わっていました。どの子もこの授業では目を輝かせてが楽しくやっていました。よく注意をしておかないと、中には前の子の髪の毛をいたずらで焼いてしまうこともあります。教師としては注意が必要です。
 さて、光を集めるととんでもない事実が起こることにどの子もびっくりするわけです。そこで、エネルギーってばらばらになっていても効力はないのに、集めるとすごいなと、気がつけばたいしたものです。そのことに関連して、ふと、浮かんできたことが、学習における転移という言葉です。
 家庭科で5,6年になると、どの子も針を使うことになると思います。その針の先もエネルギーの集中の固まりです。凸レンズによく似た現象が起こります。そこにエネルギーが集束され穴があくのです。刺されるとちくっとします。蜂の針もその原理を応用して毒針を相手に注入します。針はそれを見て先人が考えたのかも知れません。

 

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それは自然を学ぶ対象としてとらえれば何事も学習素材になるということかもしれません。まさに自然は偉大なる教師といわねばなりません。
 学習で大切なのは一つの事象を学んだらそれが、転移という過程をへて、次に応用へと変化することです。勉強ができるかそうでないかの分かれ道がその転移する力です。いわゆる「一を聞いて十を知る。」というものです。この転移する力は、果たして日頃の授業で身に付くのか、教師をやっていて、いつも自問自答していたことです。<o:p></o:p>

その力は、生まれつき先天的なものや環境が大きいということだろうと思います。かけ算九九なら習うより慣れろで覚えられます。公的学習以前の持って生まれたときからの力や環境、もし、教育で転移力を伸ばすとしたなら、それは、学校という環境を根本的に変えることだと思います。単に知識を与えるなら塾の勉強で十分でしょうが、教育は本来もっと、深い意味のあることばでしょう。この転移力を伸ばすとなると、教えると言うより気づきということになるわけですので、孟母三遷の教えではないのですけれど、よい環境を与えることができれば、目的はある程度完成されたのではないかと思います。また、教育の仕組みに問題があるかもしれません。政治でいう税制もしかり、このやり方いかんでは経済の発展にも影響します。
 ところで、何事でも、根底に、何かを解決しようとする意欲みたいなものがないといけません。その意欲の根本の力をどうやって育てるかがまた、難しい問題になります。昔はこの気力という「気」を大切にしました。これが、ないとどうしようもありません。流動食のように一方的に与えるだけです。食べたいという欲求があって食べるのです。学びたい知りたいという欲求がないままに流動食みたいに知識ばかりを詰め込んでいくから、勉強はできたが、どうしようもない人間が増え続けるのです。何の為の学問なのか、学問をしてどうなるのか、幸せと学問との接点は何だろうか、その辺が分からないまま、大学へ行って一体何を勉強するのか、この辺のプロセスが大切な訳ですが、分からないまま流動食のように胃袋に流し込んでいる状態がとても、常識で考えてもおかしいといわざるをえません。どうも、日本の教育はその辺のアプローチに弱いと思います。
 さて、私の育った環境のことからいうと、当時は理工学部全盛時代だったように思います。しかし、後で、考えてみると、私は根本のことを考えることが好きですから、私が興味があったのは、工学部的発想よりより理学部発想です。早く西欧に追いつくには工学部的発想の方が早かったのでしょう。しかし、徐々に効いてくるのは、理学部的発想でしょう。遠回りでも根本の仕組みが分からないと後での伸びが違います。教育は百年の大計といいます。この辺のことを考えて教育もじっくり政府でも取り組んでほしいです。<o:p></o:p>

さて、原理原則の根本が分かると、応用面でもその範囲も広くなります。日本人は誰かが見つけた原理原則を応用する力はすごいと思いますが、その根本である原理原則を発見する力はアメリカの足下にも及びません。ノーベル賞受賞者を見ても圧倒的に差があります。(それにはゆとりや空間が必要です。芸術がそれに似ているのかもしれません。)それは、現在の小1年生からの教科の数値目標設定にあるのではないかと思います。どの学校でも、雨後の竹の子のように競って数値目標的学校目標を掲げています。びっくりしたことに、算数は1年生では80点以上が目標だとかという数値目標があります。人間ピンからキリまであるわけですから、すべて80点以上になるはずがありません。まさに、人間の見方をここから見間違えています。

現役時代からその考え方はおかしいな、と、常々思っておりました。成績の差は個性の差でもあるわけですから、できるできないは、その人が赤色が好きか白色が好きかの部類であると思います。そう、とらえれば、人を広く寛容に見つめることができると想います。その中で一点、大切なことは「生きる意欲があるかないか。」です。<o:p></o:p>

私が教師をし始めた頃はまだ、そんな学校評価はありませんでした。それが、出できた関係で、塾がはやり、勉強ができない子のクラスでの居場所がなくなりました。極論ですが、勉強の点数だけで人の価値まで変わってしまうようなことまで起こってしまったのです。学校の評価はごく一面の評価です。二次元の表面的な評価です。三次元のもっと立体的な評価が必要です。さて、家に帰れば、塾に行く方が自分の部屋の掃除より価値が高いかのようになってしまったのです。草取りなんぞをしようものなら、勉強でもしてろ、何ていう親さえ現れてしまったのです。草取りのような体を通して覚える職人的なことは価値がないかのような錯覚に陥っていまったのではないでしょうか。知識も体を通して覚えることが生きる力につながります。評価の基準も学力指数や知能指数で計られるようになり、私の唱える幸せ指数や情緒指数はどこかへいってしまったのです。ちょっと、算数ができないくらいで、教師も子供も尻をたたかれ、もっと、生きていく上での大切なものがカットされていくのです。算数で言えば単なる5でも、もっと生活の中でとらえれば、誕生日の5月でもあるし、台風で家が壊れた5月でもあるのです。そのときの情緒が大きく関わっているのです。
 生きる力、生活する力、友達との交わる力、色々な能力を持った人が自分の良さを出し合う中で、人は必然的に助け合うようになっているという事実がどこかへ行ってしまっているのです。温かい人との結びつきが大切です。昔は勉強ができなくても、人様に迷惑をかけるようなことをしなければ、まじめに仕事をやれれば生きていけるというしっかりして価値観がありました。その辺が、最近の数値目標が具体目標として学校の中にも取り入れるようになり、また、PDSやPDCAサイクルなるもので評価する方法が広くしられるようになり、学校もますます企業的になり、人の心や温かい学校生活からその方向を変えていったように思います。もう一度、幸せ指数や情緒指数が人が生きていく上で一番大切であるという意識を植え付ける場所が小学校教育であるという観念を、体で植え付けてやらないと、不登校や落ちこぼれの問題は増えこそすれ、減ることはないかと思います。意欲とか転移力とか直感力とか目に見えない学力を伸ばすのが、本当は小学校生活であると思います。それをすべて学校に求めないで、家庭も含め社会全体でとらえていくことが肝要であると思います。論では言えても、なかなか実行できない時代潮流にいる今に大きな問題があるようです。
 さて、近未来的には、今後の日本は、確実に少子化老人大国となり、年金問題でつまずき、貧富の差が益々激しくなり、不動産の価値は下がり(空き家が増えていく。)グローバリゼーションの波の中で、一国だけでは決断できないジレンマに挟まり、個人とは、家族とは地域とは国とはと、問われ続け、また、温暖化という予期せぬできごとのなかで、国際協調の声ばかりが高くなるが、各国の利害がなかなか一致せず、アレルギーや原因不明の病いが増え、自然と益々離れた生活を余儀なくされ、最終的には資源が枯渇し世界人口を大幅に減らし、やがて、資源有限、人間も地球の一員であるという新しい世界観にめざめ、再出発するようになるのではないかと予想する。そのスパンがどれくらいなのか、誰にも分からない。何世代になるか。自分のことだけ考えていては段々だめな時代になりつつある。
 その間、不気味なのは、温暖化の進行である。特に、今年の日本は暑かった。35℃以上の猛暑日や熱帯夜が連続した。地球がおかしいと言う人がいるが、まさに温度が上がるのがおかしいと言うより必然であり自然な状態だっただろう。因があり縁があり果を生じさせていたと言うしかない。このぶんでいくと、日本でも冬がなくなるのも近いうちではなかろうかと危惧する。海水温が1℃上昇しているというその事実、70%を海で覆われている地球のその1℃上昇のエネルギーは膨大なものだと言わざるをえない。その温暖化は一般的には、人間社会のはき出すCOの増加に起因すると言われているが、本当は人為的でなく地球上の気象の変化なのか、誰にも、分かっていないのが、現状ではなかろうか。まさに、神のみぞ知るであろう。
 昔からSF映画で、地球が他の惑星の宇宙人に滅ぼされるという映画を何度も興味を持ってみたが、外部でなく地球本体にその原因があったなどと言うことにならないことを祈る。今後は若い世代に解決の知恵を委ねていくしかない。
 

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待つことの大切さ! 子育て

2010年08月27日 | インポート

 妻が通販で買ったテレビ台を私は組み立てていた。プラモデルを作っているから、できるんじゃないかと思い息子に声をかけたところ、

「作ってもいい。」

と、いう返事が返ってきた。いつもは親が声を掛けようとすると

「うるさい。」

と、いうのが口癖であるが、このときばかりはいい返事だった。

これはいいチャンスだ。そうだ、私がやるよりも子供にやらせてみようということになり、内心途中で投げ出されないかと不安もあったが、すべてを任した所、2時間ぐらいかかったが、どうにか、自力で組み立てることができた。ご褒美として組み立て賃をあげたが、体で覚えることの大切さを少しでも体感したのではないかと思い、親としてうれしくなった。

 

 ※組み立てられたTV台
  通販で7000円で買った品物 随分安い買い物でした。

 

子供が成長過程で、いい芽を伸ばそうとするチャンスは何度もあるはずだ。あるにも関わらず案外その芽をつぶしてしまうことが往々にしてある。その芽が出てくるまで待つことと、それに気づくことのの大切さを感じた。親の干渉を嫌うこの時期の子供であるが、私の心も、このときばかりは日本晴れであった。
 今、何でもめまぐるしく変わり、すべてが効率や経済性で数値化して評価する時代であるが、教育や生物の成長は時間という横軸がなければ、実を結ばない。周りの変化は忙しい時代であるが、生物としての体内時計は悠久の時代から変わらないはずだ。

野菜作りも必ず旬がある。子供の成長にも必ず旬が来る。その時期はみんな違う。画一性がないのだ。

生物を育てる側の人間はその時期が来るのをじっと待つ根気強さが大切だ。伸びようとする時期をそっと、見つけ、その対象が持つ伸びようとするベクトルの先を見つめ、そっと背中を押す。子供のベクトルと親のベクトルが一致する。力が倍になる。そんなに、うまくはいかないだろうが。そのときを見つけ、全力で後押しする。それが理想だが、少しずつその方向で努力して行きたい。
 私の野菜作りもそのスタンスでやっているつもりである。旬の野菜は自然の恵みを一杯受けておいしい。それが、自然である。時期がくれば芽が出て実を結びやがて枯れ、その世代の命は消えていく。しかしだ。その種は永遠に次の世代に繋がっていくのだ。わたしとて、同じ運命にある。
 兄も、今月24日黄泉の国に旅立った。享年70歳だった。後は立派に成長した二人の息子が後を次いでくれている。こうして、季節が変わりゆくように人の世代も時の流れに乗り、変わっていくのだ。芭蕉のいう不易流行のなかで、悠久に時は流れていく。時という全ての人に平等に与えられた中で人類も繋がっている。

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Excel関数

2010年08月24日 | インポート
 PCとは退職してから縁のない生活を送ろうかと思っていたが、仕事柄また、勉強しなければならない羽目になり、硬くなった頭と格闘している昨今である。VLOOKUP関数当たりにねらいを定めている。
 ブログをあげたり、金銭出納帳をつけたり、道具としてインターネットを見るぐらいに使えればいいと、思っていたが、ある関数を使う必要がでてきて、本屋をあさったり、ネットで調べたりしている。目も悪くなり、視力によくないことは分かっているが、現実は厳しい。(最近は、PCめがねも購入した。)どうしても、自力で分からない場合の為に、格安なPC教室も見つけた。入会金3000円、その後、1時間当たり千円だ。申込書を昨日ゲットした。まあ、分からないときには人の力を借りるのもやむをえない。PCがない時代がなつかしいが、まあ、しょうがない。これも時代の流れである。
 その中にあっても忘れてはならないもの、それは、幸せ指数を上げることだ。幸せとは心の充実であり、論理を超えたものだ。そこに山があるから登る感覚と同じで論理を超えた心の営みだ。自分でつかむしかない。
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ハラビロカマキリ

2010年08月18日 | インポート

 仕事を終え家に着いて、ふと、サザンカの方を見ましたら、何やらお尻を上げたカマキリがお出迎えでした。「おかえりなさい。」と、は言ってくれませんでしたら、我が家も、虫たちにとっても住みよいううちになったのかな、と、ちょっぴりうれしくなりました。おしりを上げた仕草もかわいらしいではありませんか。
 カメラを向けたら、こちらの方をじっと見て逃げようとしました。そこをぱちりです。名前を調べたらハラビロカマキリという名前でした。我が家では初めて見ました。赤ちゃんを沢山産んで来年も出てきてね。

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ふるさと夏祭りおがさ

2010年08月18日 | インポート

 

 「ふるさと夏祭りおがさ」が、開催されました。3時からは芸能祭が夜まで続き、最後は圧巻、新居の手筒花火でした。手筒花火は噂は聞いていましたが、直に見るのは初めてでした。全部で80本の花火が打ち上げられました。一般から5千円/本で募集を募りました。
 私は実行委員として仲間に入り、連日の準備や片づけて大変でした。例年8月15日のお盆の時期にやっているようです。今年初めて参加しましたので、前のことは分かりませんが、ふるさとに帰ってくる住民の為にやっているらしいです。この仕事に就いてからは、例年関わりが出来そうです。準備の段階で地域の人たちと交流ができ、知り合いも沢山増えました。
 今思えば、手筒花火の写真ばかりとっていて、花火を楽しめなかったのが、ざんねんでした。来年は写真を撮らずに鑑賞をしてみたいと思いました。
 次は、地区の敬老会、会館祭りと催しが続きます。また、レポートします。

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