読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【読了本メモ的レビュー】『千夜千冊エディション 面影日本』で、日本の「面影」という「あてど」への旅を

2020-04-26 00:10:00 | 「本」についての本


『千夜千冊エディション 面影日本』
松岡正剛著、KADOKAWA(角川ソフィア文庫)、2018年


現在の日本において、掛け値なしに〝知の巨人〟と呼べる存在といっていい松岡正剛さんが、森羅万象の書物を該博な知識で読み解き、書物の世界を自在に遊ぶブックナビゲーションサイト「千夜千冊」。2020年4月現在、1739回にもおよぶ「千夜千冊」から、テーマごとにピックアップして再編集する文庫版シリーズ「千夜千冊エディション」の一冊である本書は、日本と日本文化を深く知り、味わうための書物の数々を取り上げています。
〝面影〟というキーワードのもとにピックアップされたのは27冊。谷川健一『常世論』や山折哲雄『神と翁の民俗学』、丸山眞男『忠誠と反逆』、清少納言『枕草子』、和泉式部『和泉式部日記』、鴨長明『方丈記』、吉田兼好『徒然草』、三浦佑之『浦島太郎の文学史』、石田英一郎『桃太郎の母』、ドナルド・キーン『百代の過客』、渡辺京二『逝きし世の面影』、李御寧『「縮み」志向の日本人』など。

萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』を取り上げた回では、日本におけるコメ文化や正月儀礼のルーツが、中国南部の民族「ミャオ族」(苗族)にあるという興味深い説が紹介されます。また、『枕草子』の回では、一見すると自分の好みを勝手気ままに羅列しているように思える記述でありながら、そこには清少納言による絶妙な「編集」感覚が働いていることが喝破されていて、目からウロコでありました。
驚かされたのは、四、五人から十数人の参加者が集まって、五七五と七七の歌を百句に達するまで交互に挟んでいくという〝連歌〟を取り上げた伊地知鐵男『連歌の世界』の紹介です。それによれば、連歌は一句ずつに主題が移り、どんな趣向にも滞らないというのが基本であるのみならず、中には句の頭に「い・ろ・は・に…」を順に折り込んでいく「冠字連歌」や、連なっていく歌がすべて回文になっているという「賦回文連歌」などという超絶技巧まであるのだとか。連歌というものが、かくも高度な技巧で織り成される知的遊戯だったとは!

松岡さんならではの切れ味がギラリと光る記述は、「千夜千冊」の醍醐味の一つです。
たとえば、伝統文化からポップカルチャーまで、あらゆる日本の文化に通暁するエッセイストで劇作家のロジャー・パルバース『もし、日本という国がなかったら』を取り上げた回。この本の中でパルバースが、「日本人はオリジナリティが乏しい」という批評を当の日本人が受け入れすぎていることに呆れているのを受けて、松岡さんはこう述べます。

「なぜ日本人はオリジナリティが乏しいなどと思いすぎたのか。明治以降、外国の文化を外国人が誇り高く自慢したり強調したりすることに、うっかり跪きすぎたのだ。敗戦後の民主主義日本では、もっとそうなった。
江戸時代まではそんな卑屈なことをしていなかった。各自がみんな「分」(ぶん)をもっていた。身分の違いも本分の違いも、気分の違いも平気だったのだ。それがうっかり卑屈になったのは、海外の列強が日本をコケにしたからなのではない。日本が勝手に卑屈になったのである」

幕末の日本を訪れた外国人の記録をもとに、今では失われた日本の〝面影〟を追っていく、渡辺京二『逝きし世の面影』の回でも、日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは欧米列強ではなく日本人自身であったのだ、と述べています。日本の民族性と文化を一概に「遅れたもの」とみなし、その特性を熟考することもなく否定する一方で、海外の思想や文化を「進歩」したものとして受け入れることで、日本が持っていたはずの良い面すら捨て去っていった、わたしたち日本人のあり方に対する痛烈な批判は、胸に響きました。
その一方で、日本と日本文化を「神聖不可侵」なもののように捉える偏狭さとも、松岡さんは無縁です。先に挙げた『稲と鳥と太陽の道』の回で、一見日本独特なもののように思われている稲作や正月の儀礼、それに信仰をアジアとの関わりから探ろうとする姿勢も、その現れでしょう。また、日韓の比較文化論である李御寧『「縮み」志向の日本人』については、一部の見方に異論を加えつつも、日本文化の特色にしっかりと分け入ったその内容自体は高く評価しておられます。

書物を読むことの愉悦を、卓抜な言い回しで語る文章に触れることができるのも、「千夜千冊」の醍醐味でしょう。
吉田兼好『徒然草』の回では、冒頭で「本を噛む」という話を綴ります。「読み耽るわけでもなく、口に入れたまま読める」のが「本を噛むということ」であり、「その言葉をチューインガムにしたまま、散歩に出たり、車窓の外を眺められるのが『徒然草』なのだ」と。なるほど。カチカチな姿勢で背筋伸ばして読むのではなく、肩の力を抜いてチューインガムを噛むようにしながら読むことで、『徒然草』はより一層味わい深くなるのかもしれませんねえ。
ドナルド・キーン『百代の過客』の回の冒頭の一文も、すごく素敵です。これはそのまま引くことにいたしましょう。

「どんな本との出会いも、自分で行く先を決めて買った切符に従って、どこかの「あてど」へ踏み出していく旅立ちである。言葉と画像でできた車窓の風景が次々に変じ、著者やら登場人物やら見知らぬ多くの人物と乗りあわせ、たいていは章や節の通過駅があって、本から本への乗り換えもあり、こちらも疲れたり気分が変わったりするから途中下車もあり、宿泊や逗留も待っている。読書とは一身百代の過客になることだ」

わたしも、『面影日本』を頼れるガイドブックにしながら、自分が知らなかった、あるいは見失ってしまっていた、日本の「面影」という「あてど」を目指す旅へ出てみようかなあ・・・と思っております。
まずは手始めに『徒然草』と『もし、日本という国がなかったら』、それに長らく積読のまんまになっていた『逝きし世の面影』を読むとするかな。あと、目下のコロナパニックの状況の中で読むとまた違った味わいで読めそうな『方丈記』も、久しぶりに再読してみるといたしましょうかね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿