読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

『汽車旅の酒』 忘れかけた旅の楽しみと意義を思い出させてくれる、吉田健一の極上汽車旅エッセイ集

2021-05-05 07:44:00 | 旅のお噂


『汽車旅の酒』
吉田健一著、中央公論新社(中公文庫)、2015年


旅はやっぱり鉄道が一番だなあ、とつくづく思いますねえ。
そりゃ、行きたい場所へピンポイントで行ける自動車での旅行は便利ですし、遠く離れた場所へ出かけるには飛行機が重宝いたします。船旅なんてのも風情があっていいものです・・・船酔いさえしなければ。ですが、鉄道での旅というのは、旅気分をより一層引き立ててくれて格別なものがあるんですよね。
列車の座席に腰を下ろし、列車が動き始めた頃合いを見計らい、まずはおもむろに缶ビールをプチン。外を流れていく風景と、駅弁に盛られたおかずをツマミに、これから向かう旅先に想いを馳せつつビールを飲むと、旅へと出かけることができるヨロコビが酔いとともにじわじわと、心と体を満たしていくのを感じるのであります。そんなわたしにとって、本書『汽車旅の酒』は、読んでいて大いに共感と愉しさを覚える一冊でした。
元首相・吉田茂の長男でもある英文学者・吉田健一は、美酒と美食、そして汽車旅をこよなく愛した人物でもありました。本書は、そんな吉田が遺した鉄道旅行と、それにまつわる酒と食をテーマにしたエッセイ25篇に、やはり旅をテーマにした短篇小説2篇を加えた上、巻末には吉田との金沢への旅の思い出を綴った能楽師・観世栄夫のエッセイを付した、文庫オリジナルの作品集であります。

本書に収められた中で、とりわけお気に入りの一篇なのが「或る田舎町の魅力」と題された紀行文です。
名所旧跡で知られている場所は旅人を慌ただしい気分にさせるから、何もないけれど落ち着いている場所に出かけよう・・・そう考えた吉田は、かつて講演で来たことがあった埼玉県の児玉という町(現在は本庄市の一部)へ、八高線の列車に乗って出かけます。
昔は秩父街道筋の宿場町として栄えながらも、名所旧跡といえるのは国学書『群書類従』を編纂した塙保己一の生家ぐらいという静かな町。それでいて一向に寂れている感じもなく、戦災を免れた落ち着いたたたずまいの家が並ぶ、土地に根付いた文化が感じられる児玉の町。そこにある唯一の旅館の眺めのいい部屋から「百年は経っただろうと思われる銀杏の大木」や、「どの屋根も上質の瓦で葺いてある」家並みを見ながら、一人ゆっくりと地酒を傾ける・・・。
現在の児玉の町は、この文章が書かれた頃からすれば変わっているのかもしれませんが(本作の初出は1954年=昭和29年のこと)、名所旧跡や観光地らしい場所はなくても、その土地ならではの文化や生活感に浸りながら、時を忘れてゆっくりと過ごす・・・そういう旅もなかなかいい感じだなあ・・・としみじみ思ったことでありました。

「道草」という一文にも大いに共感を覚えましたね。ここで吉田は、駅の食堂でビールを飲んだり、蕎麦屋でかけ蕎麦を食したりするなど、「しなくてもいいことをする機会が幾らでもある」ことが旅の楽しみだという一方で、売店で雑誌を買って読むのでは家にいるのと同じであり、「兎に角、旅行している時に本や雑誌を読むの程、愚の骨頂はない」と言い切ります。まさしくまさしく。旅先に行ってまで書物を読むくらいなら、旅気分を引き立てるような「しなくてもいいこと」を楽しみたいものですよねえ。
このくだりを読んで思い出したのが、吉田とはまた違った意味でのこだわりとダンディズムの持ち主だった伊丹十三のエッセイ「走る男」の一節です(新潮文庫『日本世間噺大系』および岩波書店『伊丹十三選集』第二巻に所収)。いわく、「私は相当の活字中毒であるが、窓際の席にある限り、およそ書物を必要とせぬ。窓外の風景が書物に百倍する楽しみを与えてくれるからである」。これもまたまさしく。移動する車内で本を読むよりも、窓の外に広がる風景を眺めるほうがよほど面白いし、興趣をそそるものがあるのですよ。

「旅と味覚」という一文で、のっけから「旅行するのと食べること、及び飲むことは切っても切れない関係にある」と記す吉田の真骨頂といえるのは、やはり旅先での飲み食いの楽しみについて綴ったエッセイの数々でありましょう。
その名もズバリ「酔旅」と題された一文。ここではまずハシゴ酒について、「やたらに新しい所ばかり探して歩く」よりも、安心できる店を四、五軒、少なくとも二、三軒見つけて、それらの店を「天体の運行」のごとく回ることの良さを説きます。その上で、「旅を少しばかりハシゴ酒の範囲を広くしたもの」とみて、「勝手を知った町から町へと、汽車もなるべく頭を悩まさない為に同じ時間のを選んで渡り歩く」という旅の楽しみを語るのです。これはいいなあ。わたしもこういうハシゴ酒旅、やってみたくなってまいりましたねえ。
そして、この一文中、いや、本書全体の中でも一番シビれたのが、このことば。

「全く、旅先で一晩旨い酒を飲むことほど、我々の寿命を延ばしてくれるものはない。後は寝るだけで、そう考えただけで夜はとてつもなく前方に向って拡る」

そうそうそう!さすがはケン一氏(うじ)、よくわかっていらっしゃる!と手放しで快哉を酒び、もとい、叫びたくなりましたよアタシは。これがいかに幸福なことなのかが理解できないような野暮天とは、お近づきになりたくはないですねえ、ホントに。

駅弁や食堂車、各地の旨いもの、さらには駅前の食堂で食べた親子丼に至るまで、旅で味わう食べものの魅力を語り尽くした「旅と食べもの」もまた、琴線に触れまくりのいいことばがてんこ盛り、どころかメガ盛り。あれもこれも引いてみたいのですがキリがございませんので、この一節を。

「旅に出るのならば、金をなるべく沢山持って行くことである。でなければ、行く先々の土地で食わして貰う覚悟でその土地に馴染むか、どっちかで、宙ぶらりんの予算の旅程つまらないものはない。食事をするのにも、何をするのにも、こうすれば安く上るなどということを考えていたのでは日常生活の延長で、それ位ならばどこか手近な場所で飲んだほうがいい」

これもホント、その通りだと思いましたよ。わたしも、どこかへ旅行に出かける時には宿泊や土産にはそこまでお金を使わなくても、飲食にはたっぷりとお金をかけるクチだったりいたしますので。せっかく日常の生活から解放されるというのに、その土地の美味しいものをたっぷり味わうこともしないのであれば、こんなにつまらないことはないですよ。
「旅に出ると、旨いものは益々旨くなり、そう大してどうということはないものでも、やはり旨い」という吉田は、「安っぽくてそして旨い味」がする駅弁の魅力についても存分に語ります。「駅弁の旨さに就て」という文章では、「駅弁を買うのを旅行する楽みの一つに数えることが出来れば、そういう人間は健康であって」「駅弁などまずくて食えないというような通人の仲間入りを我々はしたくないものである」などと書いていて、これにも快哉を叫びたくなりました。駅弁のおかずをツマミに酒を飲む楽しみなくしてなんのための鉄道旅か、とわたしも思いますよ。

本書の後半に置かれた「帰郷」という小文は、日常を離れて旅に出ることの意義が切々と響いてくる、短いながらも感動的な一篇です。
ここで吉田は、旅先で我々が見るものは「我々の日常の苦労を離れて他所の、他人の生活と結び附き、ただぼんやりとそこにも人間が住んでいるという感じ」を抱かせるといいます。そして、「余り一つのことに追い詰められていると、それが我々の生活であっても、我々は疲れてくる」ともいい、こう続けるのです。

「旅行をしていると、我々が毎日繰り返している生活に対する見方も違ってくる。第一、我々が旅行して帰って来た我々の町や村は、まだそこに帰って来るまでの気持ちで眺めることが出来て、ここにも我々の個人的な生活の立場から見ただけではない人間の生活があることが解る」

もうすでに一年以上にもわたってダラダラと続く、新型コロナをめぐるヒステリックな状況の中で、われわれは旅をすることの楽しさや意義をすっかり、忘れてしまっているのではないかと思えてなりません。それどころか、別の土地へ移動すること自体、「感染拡大防止」という、誰も逆らえない大義名分のもとで「やってはいけない」と罪悪であるかのように言われるという状況は、落ち着いて冷静に考えれば実に異常で、かつ異様なことでありましょう。
でも、時には日常から離れ、ふだん住んでいる場所とは違う場所に身を置いて、そこに住む他者の生活と結びつくことは、異なる場所に住む他者への想像力を育むとともに、自分の生活や生き方を新たな目で見つめ直すことにもつながるということを、「帰郷」という小文は教えてくれました。
だから、われわれはやはり、旅することを忘れてはいけないし、やめてもいけないのだ・・・つくづく、そう思います。

コロナ狂騒の中ですっかり忘れかけていた、旅の楽しみと意義を思い出させてくれる、愉しくも大事な一冊でありました。
今年の秋はなにがあろうと、どこかへ旅に出かけるつもりであります。1年以上にわたって旅することができず、このゴールデンウィークの予定すら奪われてしまった、腹立ちと悔しさを晴らすためにも。・・・もちろん、その時にはこれまで以上に飲み食いにはお金をかけるからな。



【関連おススメ本】

『舌鼓ところどころ/私の食物誌』 吉田健一著、中央公論新社(中公文庫)、2017年

日本各地を訪ね歩いて味わった旨いものを、食欲をそそる語り口で綴った吉田健一の食味随筆集2冊を、再編集の上で合本としたものです。北海道のじゃが芋、広島の牡蠣、長崎のカステラなどのよく知られた名産から、石川県の鰌の蒲焼き、青森の数の子の麹漬けなどの知る人ぞ知る珍味まで。日本にはまだまだ、味わってみる価値のありそうな旨いものがたくさんあるんだなあ、ということを再認識させてくれます。



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