司馬遼太郎の「「坂の上の雲」というタイトルを私なりに解釈しして、明治以来の日本の歴史を光り輝く雲(聖書では雲は神の臨在のシンボルに用いられることがあります)を目指して坂を登る姿を描いたのではないかと考えます。
「脱亜入欧」という言葉の中にキリスト教近代文明への憧憬が感じられます。しかしその方法が「和魂洋才」によったところに問題があったように思われます。
徳川家康が語ったように確かに人生は荷を負って坂を登るようなもので、その荷は年々重くなっているようでもあります。
主イエスはそのような私たちに「私のもとに来て重荷をおろしなさい」と語られました。「私に倣いなさい」」とも。
全人類の罪を負われるという途方もなく重い荷を負われた主がなぜ、私の荷は軽いといわれたのでしょうか。
それは内に住まわれた御霊に依存されてその偉大な御力に依って歩まれたからだと思います。
西欧近代文明の根に、キリスト教があることは否定できません。一言でいえば、人の有限の能力に依らずに
創造主の霊とその永遠の力に支えられた人生が基本にあることです。
主イエスに依って、神がわれわれの内に、人が神の内に生きる道が開かれました。永遠者である創造主が私たちの内側で重荷を担って下さるというライフ・スタイルであります。
永遠のいのち、神のいのちを生きるという夢のような話が現実化したのであります。
そのいのちの中でモーツアルトは作曲し、ドストエフスキーは「カラマゾフの兄弟」を書き下ろし、カルヴァンやルターは全く新たな聖霊文明の道を開きました。ただひたすらに聖書を読んだリンカーンは真の民主政治がなんであるかを示しました。
多くの生物や近代医学、宇宙物理の法則が修道僧によって、聖書に啓発されて光を研究したニュートンやアインシュタインによって発見されました。
産業革命はジョンウエスレ―によるリバイバルと相前後してなされたことはマックス・ウェーバーが指摘しています。
神に向かう人生の、あるいは文明と言うこの坂を登るには、神御自身の力が必要であります。
これをもし、人間が自己の能力のみで成し遂げようとするなら、とてつもない重荷を負うことにならないでしょうか。
十字架を見上げるとき、私たちの自我がそこで砕かれます。日本が廃墟のなかから立ち直ったのは自分の力や美しさを誇った時ではなく、鎖国に依っていかに立ち遅れた自国を謙虚に認識して、他国に学ぶ決意をした若者たちが新たな日本の礎を築きました。
敗戦の荒廃から世界の経済大国に立ち直させたのは、自らの非を認めたその悔い改めではなかったでしょうか。
イザヤは、天使セラヒムが神を礼拝するのを目撃して、その清さのゆえに「私はもう駄目だ」と叫びました。そのことが大予言者イザヤの原点になりました。パウロは自分の罪を知って「自分はなんというみじめな人間か」となげきました。
その砕きのゆえに聖霊はパウロの内側から泉のように湧きあがり、川となって流れ始めました。
十字架と復活は表裏一体であります。レントにおいて主の十字架を見上げ、被造物依存と自我を十字架に共につけていただき、そして日々復活のいのちに活かされ、聖霊ご自身に働いていただきましょう。
自力によって坂を登ろうとして我が国は一度大きな挫折を味わいました。
今は恵みの時代です。神御自身が私たちの荷を負ってくださり、その偉大な働きを見せて下さる時代であります。