「遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄9」岩倉使節団(萩原訳)315ページより
「 1872年(明治5年)12月20日(陰暦11月20日)早朝に出発。
まもなく頂上に雪をいただく周防と芸州の山々がみえてくる。
午後1時、尾道到着。電信局を視察。電信がここでとまる原因は、この局をあずかる男、ないしその友達が、機械をいぢ繰り回すためであると判明。
・・・・。」「尾道は茣蓙(ござ)の産地として有名で、その生産量は他のどの地域よりも多い。このほかに、小ぶりなむしろも大量に生産されている。図柄は一般にはなやかである。この町の戸数は一万、非常に繁栄している模様である。錨を作る鍛冶屋を多数見かける。」
「山に上り、観音を祀る千光寺を訪ねる。うつくしい三重塔がある。これらの建物の塗装が新しいことと、外観が小ざっぱりしていることと、この二つから判断すると、尾道の住民と、ここを訪ねる参詣者は、私が訪ねた日本のどの地方よりも、仏教の信仰心が篤いといえるかもしれない。御影石の玉砂利をふんで頂上に上がると、前方にすばらしい海の眺めがひろがる。正面に向島が見え、この島と本土のあいだを長く細い水道が走っている。すぐ背後の渓谷の中を抜けて、内陸に向かう立派な道が通っている。右手の三原の方角は、海岸線に連なる高い山並みにさえぎられて眺望が利かない。」
「写真は長崎で1972年12月(陰暦11月)に撮られた写真・大隈重信も同席(慶大高橋信一准教授写真提供)」
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