「日本人サム・パッチ(仙太郎)」カルビン・パーカー著(第2章37ページより)
「別の機会に、日本人は着物を身につけてボルチモアのH・R・マークによって撮られる銀板写真daguerreotypesのためにポーズをとった。これらの写真は、それらに基づく番号付のスケッチとしてのみ保存されて、ニューヨークの「イラストレイテド・ニュース」に掲載されている。 図番7は「シンパチSimpachi(コック)」と書いてある。 どうやら仙太郎は現在のローマ字化したものを使用して自分がSempachiであると認識していた。 前述したように、この名前はたぶん彼のあだ名サム・パッチに由来していると言える。 彼の外観は、仙太郎が名は記されてないが残存する銀板写真の日本人の最初の被写体であることを示唆している。その類似性は際立っている。22
銀板写真方式は鏡像のような写真を製作した。数年後にサンフランシスコでポーズをとった万次郎が説明したように、正しく装ったように見せるために右側を前部の左側の上に重ねなければならなかった(右重ねは埋葬される遺体にのみ着付けされた)、そうすれば写真では左側が右側の上に着付けされたように見られた。23
栄力丸の乗組員のスケッチでは約半分が着物を適切に着合わせたようであるが半分はそうしていない。不釣り合いなことに、安太郎はネクタイをしめ、民蔵は蝶ネクタイを得意げに身につけている。この時、適切な着付けに関して何らかの混乱があったに違いない。」
注22. 「イラストレイテド・ニュース(Illustrated News)」、1853年1月22日、はジョセフ・ヒコ「記念会誌」 No.39(1996年6月28日) 3、に転載された; ベネットとドブソン「仙太郎銀板写真」。驚いたことに、17人の乗組員に対して18名の人数のスケッチがある。 数字10と13はCOMMETHO亀蔵という名前で見出し(caption)をつけられている、それらは、容貌がそっくりである。最初のものは着物を着ており、2番目はアンダーシャツで現れて、鉢巻きをしている。 どうやら、銀板写真からスケッチをしたアーティストは、1人の男性が異なった衣服で二度現れたのに気付かなかったようだ。
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