C.M.ウィリアムズは1829年米国バージニア州リッチモンドに生まれ、アレクサンドリア神学校卒。
安政6年(1859年)6月、30歳で安政条約発効と同時にジャーマンタウン号で長崎に渡来、広徳院にリギンズと同居。同年11月7日、改革派宣教師フルベッキが長崎に渡来、広徳院にリギンズ、ウィリアムズを訪問。フルベッキも29歳で12月5日から広徳院に隣接する広福庵に居住、夫人は12月29日に上海から長崎へ到着。ウィリアムズは聖公会で教派は違ったが、二人の深い交わりは後年、長く続いた。日本聖公会100年史によれば、礼拝は広徳院で始められ、やがて
大徳寺で行われた。
1866年(慶応2年)2月、熊本藩士、荘村助右衛門はウィリアムズによる洗礼を受ける。
(長崎聖公会略史より)
「後藤新平が西郷吉之助にあった話ー荘村と後藤新平」(「ジョセフ・ヒコ」近盛晴嘉著・吉川弘文館)263ページより。
「明治4年ごろであった。自分は竜の口の細川侯藩邸内に起伏していた。それは太政官の少史、荘村省三という人の食客になっていたのである。荘村氏が出勤する時に、いつも供をして行った。ちょうど15歳のことである。
・・・・・・それは暑い7月の晴れた日であった。その辺に差しかかると、むこうから、大きな男が、供をひとりつれて歩いてきた。・・・・・
すると、主人の荘村少史が三歩ばかりこちらで、下駄をぬいで、下駄の上に足を上げて、お辞儀をした。これは土下座の代わりにする敬礼で、自分が子供の時、藩侯にした礼である。
・・・・・すると、むこうから来た大男は、荘村少史の方をむいて、ニッコリ笑って 『お暑うござんすな』といって、すたすた行き過ぎた。自分は、ぼんやり主人の後ろに立ったまま、不思議な男だ、不思議なお辞儀だ、と思っていた。すると荘村少史が『西郷吉之助』と自分の耳にささやいた。自分は、はっと思って、過ぎゆく大男の後姿を見送った。その時西郷さんは、薄色の背割き羽織に、短い袴、下駄ばきという姿で、大小を指し、両手をぶらりとさげていた。大男で、色は九州人としては白い方だという印象をうけた。大きなハッキリした眼に、愛嬌があった。太い眉毛が、今も眼に残っている。お暑うござんすな、といったときに、非常に懐かしい味があったように覚えている。」
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