創造

創造主とセルフイメージの世界

神化か進化か

2013-05-23 15:57:34 | 神学

自然は神の被造物でありますから、作品が作者を反映するように、創造主の栄光を写しています。

その意味でカルヴァンは一般恩寵(啓示)としての自然を、特殊恩寵としての聖書における啓示と共に重視しています。内村鑑三は学ぶべきは自然、読むべきは聖書と語りました。

問題は今日の人間をも含めた被造物である自然が、本来のオリジナルなものであるかということです。

アダムは神に似せて神のかたちに造られましたが[創世記1の26,27]、アダム以降の人間はアダムに似せてとあります。オリジナルなアダムではなく、アダムのコピ-として、現代的に表現するならアダムの遺伝子に依って人類の歴史が始まったことになります。

この神性(霊性)を失った人間性は動物や自然界にも及んでゆきました。

「被造物自体も滅びのなわめから解放され神の子供たちの栄光に自由の中に入れられます。私たちは被造物全体が今に至るまで、共にうめき共に生みの苦しみをしていることを知っています。」とロ-マ人への手紙8章21,22でパウロが語ったように、自然界は罪によってサタンと死の支配下で呻吟しております。

自然科学は、いわば失われた人間がその限界の中で、同じく失われた自然を対象に営まれています。

その世界の中での法則を見出し、それを新技術として活用する訳です。ただ大きなカッコである大前提に上述した霊的な死とその結末があります。

これに対して、超自然としての聖書の史実があります。ある神学者たちはドイツ語でウワ・ゲシヒテ、すなわちオリジナルな原歴史だと表現します。

イエスキリストの、処女降誕から復活に至る生涯は、アダムのコピ-としての人類史と自然史の枠外にあります。それは創造主と直結した創造霊の内住と活動としての生涯であるために、人類史の範疇を凌駕します。

進化ではなく神化としての人生であります。

バルトとブルンナ-の自然神学論争がありました。自然の中にある残存する恩寵を説こうとするブルンナ-にバルトはバルトはナインを発します。

私なりに解釈すれば、ブルンナ-は主の生涯の中に自然の法則を折り込みました。処女降誕を否定したのです。

ナチスとそれを支持するリベラルな自然神学と対決していたバルトは、ブルンナ-の主張にそれと相通じる傾向を嗅ぎとったのだと思います。

ドイツイタリアと三角同盟を締結した日本の体制を支えたのは、国家神道とその民族主義でした。キリスト教会の側からいえばまさしく、啓示と自然の混淆でありました。恐らく日ユ同祖論を背景にした伊勢イコ-ル、イエス信仰であり、ドイツ的キスト者と共通するものでした。

そこではコピ-されたアダム性が礼讃されました。かの地ではドイツ民族の優秀性をこちらでは大和民族の選民性が謳歌されました。

ドイツにおいては告白教会の抵抗と戦後の悔い改めに依って、ユダヤ人に対する謝罪と表明がなされました。ナチズムの本質についての究明と反省がなされ、現在被害者であったユダヤ人たちの多くは最も尊敬する国家としてドイツをあげています。

我々は日本人として、皇室を敬うものでありますが、戦時中の天皇制のどこに問題があったのか究明しなければなりません。近隣諸国との真の親睦をはかるためにも。

私はオリジナリティに富んだ歩みをしたいと願うものです。まことの人となられたお方から、日々創造霊の油そぎを受け、その恵みが生活の中に神の川となって流れ出て下さるような日々を願います。

それは主イエス御自身が言われたように、神に荷を下ろした、心爽快な人生でありますから。

そこでは世の法則に引きづられるのでなく、解き放たれて創造主の力と活動に依る歩みがあります。地球に近づけば、あらがうことのできない地球の引力の支配に生きます。月に近づけば月の引力の中で生きることになります。

主が地球の引力の法則を超えてガリラヤ湖上を歩まれたのはなぜでしょうか。人類死滅の法則を超えて復活されて生きておられるのは何故でしょうか。

すべてのまさる創造主と結ばれ、いつもみそばを歩まれたからです。

我々も主の血によって、いつも心を洗っていただき、接近してくるサタンの悪い思いを遠ざけていただき、いのちの泉がこころから湧き出て生活の中に流れていくようにしたいと願わされます。

 

 

 

 

 

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