せっかく髪を切りに行ったのに
カメラマンさんが×とかで、
24日当日の写真は載らないことに・・・。
まあその分、演奏に集中できるということですね。
今日はOS嬢と、フィガロ序曲とジュピター。
練習の時には譜メクリの人がいないので、
提示部繰り返しのときのパート交代が
まだまだ慣れない感じ。
今日感じたのは、
再現部(A・B・Aダッシュ の中のAダッシュ)を弾くとき
提示部(A)と同じメロディの所でも
何かしら気分が違う、ということ。
あるいは、ゼクエンツでも
その3回なら3回が
カラーが変わるというか、決してパターンではなく
気持ちや様子が変化する、ということ。
そういうことを誘うような音楽が
モーツァルトの譜面に書かれている、ということかな?
形としては、
フィガロの序曲も、ジュピターのどの楽章も
しっかりした定型(ソナタ形式やメヌエットなど)だけど
中身に「詩」がある。
その「詩」というのは、
たぶん、大ホールの大勢のお客さんには気づかれないような微細なことで
ひょっとしたら
弾いている者だけが感じ取るものかもしれないけれど
不思議なことに
その具体的なことはお客さんにはわからなくても
全体の印象として
そのココロが必ず伝わる、と思うのです。
カメラマンさんが×とかで、
24日当日の写真は載らないことに・・・。
まあその分、演奏に集中できるということですね。
今日はOS嬢と、フィガロ序曲とジュピター。
練習の時には譜メクリの人がいないので、
提示部繰り返しのときのパート交代が
まだまだ慣れない感じ。
今日感じたのは、
再現部(A・B・Aダッシュ の中のAダッシュ)を弾くとき
提示部(A)と同じメロディの所でも
何かしら気分が違う、ということ。
あるいは、ゼクエンツでも
その3回なら3回が
カラーが変わるというか、決してパターンではなく
気持ちや様子が変化する、ということ。
そういうことを誘うような音楽が
モーツァルトの譜面に書かれている、ということかな?
形としては、
フィガロの序曲も、ジュピターのどの楽章も
しっかりした定型(ソナタ形式やメヌエットなど)だけど
中身に「詩」がある。
その「詩」というのは、
たぶん、大ホールの大勢のお客さんには気づかれないような微細なことで
ひょっとしたら
弾いている者だけが感じ取るものかもしれないけれど
不思議なことに
その具体的なことはお客さんにはわからなくても
全体の印象として
そのココロが必ず伝わる、と思うのです。
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