あれだけ風が吹き荒れ、雨が降ったのに、
散らない花も、たくさんあるんですね。
湧き出てくる新芽と
なかよく同居しています。
夕べの『NHK ろうを生きる 難聴を生きる』は、
“必要な人に必要なサービスを
~障がい者制度改革会議~”
というテーマで、
見ようかどうしようか、という感じだったんですが、
手話番組の続きに見てみました。
重大な会議が開かれているのですね。
‘重大な’の中身の一つは、
「障害者にかかわる施策やサービスの主体に、障害者がなること」。
そして、もうひとつは、
「障害の定義を見直し、サービスを必要としているのにサービスを利用できない人をなくすこと」。
私は(そして、多くの難聴者が)、
聴力検査でやるような、
「ピーピー」とか「ポーポー」とかいう
‘音が聞こえるかどうか’、
以上に、
“日常の話が聴き取れるかどうか”、
が重要なのに…と思っています。
例えば、
ある上司は、私の様子を見ていて、
「ホントは聞こえるんでしょ」
と言って薄笑いを浮かべ、
愕然としました。
その時は、
うまく聞こえの状態を説明できない自分が
とても はがゆく、
悔しい思いをしました。
聞こえるように見えるかもしれないけれど、
実際は、
口の動きを読み、状況から察知し、
五感+第六感などなど、
フル回転なのです。
一応ナントカ聴き取れていても、
そばで他の人が話し始めたり、
ちょっとした(耳の良い人にとっては)雑音が始まっても、
ほとんど聴き取れなくなったりするのです。
そして、高い声なら聴き取れても、低い声は、ゼンゼン聴き取れない。
(これは、逆の難聴者もいたり、様々です。)
そんなことで、
「今、どうしても聴き取れないのです。」
と言ったら、
「ああ、そうなんだ。」と、
一旦、受けとめてほしい。
「書いてください」と言ったら、
「いや、だからね、」などと話し続けずに、
書いてほしい。
そんなことで、
人とのミゾを感じてしまう、
そんな自分の姿が、
未熟な人間と思えてきたり。。
そういったことから
心に雲がかかったようになってしまったり、
疲れてしまったり…。
でも、
耳の良い方には、分からないんですよねぇ――。
3ヶ月前に、
顔の傷跡のことで皮膚科に行って、塗り薬をもらい、
少ぅしずつ治ってきて、
やっと最近、
あまり分からない程度になってきたんですよ。
その、1月に皮膚科に行く数日前から考えて
‘耳が、こういう状態なので、こうしてもらえませんか’
というお願いのメモを書いて、
受付で渡したんです。
そうしたら、
その先生は、
全く面倒がったりすることなく
きちんと全部書いて下さって、
「日にちは かかりますが、
治りますから。」
そして、日常の注意点なども書いてくださった。
あの時、どんなにホッと安心したことか――。
あの先生に
「おかげ様で治りました」と、お礼の気持ちと、
これからも、他の難聴者も含め、よろしくと
お願いの手紙を書こうと思っているんです。