『Wir Flüchtlinge(亡命者のわたしたち)』はハンナ・アーレントが1943年に英語で書いたエッセイ『We Refugees』(The Menorah Journal, 36-I, p69-77)のドイツ語訳で、最初に翻訳されたのは1986年だそうです。
わたしが手に取ったのはReclam(レクラム)文庫の第6版(2016年発行)で、Thomas Meyer(トーマス・マイヤー)のエッセイ「Es bedeutet den Zusammenbruch unserer privaten Welt(それは私的世界の崩壊を意味する)」が収録されています。手のひらサイズのわずか64ページの小冊子です。
ハンナ・アーレントは自分の体験も踏まえて、ユダヤ人の「亡命者・難民(Refugees)」について考察していますが、トーマス・マイヤーは2015年9月に激化したヨーロッパ、とくにドイツの難民問題を念頭に置いて、ハンナ・アーレントの考察の現在における有効性について書いています。マイヤーのエッセイは、ハンナ・アーレントの短文をどのように解釈し、位置付けられるかについて有用な示唆を与えています。
彼女はまず「Flüchtling(Refugee)」の概念が彼女たちユダヤ人とともに変化したことを指摘します。以前はどちらかというと畏怖の念と共に「政治亡命者」の意味で使われた言葉でしたが、ナチス政権発足と共に大量のユダヤ人が財産を奪われ、国を追われ、あるいは捕まって殺されるなどしたために、その言葉は今日的な「難民」という意味で、いささかうさん臭い不幸なイメージと共に使用されるようになったと。
マイヤーはギリシャ悲劇作家アイスキュロスの『救いを求める女たち(Hikétides)』を持ち出して、「Flüchtling(Refugee)」が古代では自動的に「庇護を必要とするか弱さ」と連想されたことを指摘し、今日の難民問題の解決の糸口を古代の考察に求めることができないと結論付けます。難民の状況、すなわち、アーレント曰く「言葉を失い、それと共に表現力や身振りの自然さも失い、職業や財産、友人や親戚などの人間関係を失い、私的な世界の崩壊をきたし、何も持たない「丸裸の人間」に落とされる」状況は今も昔も大差はありませんが、そうした難民たちがどこかに辿り着いて新しい人生を始められるかどうかに関しては、昔と今では状況が全然違ってきているというわけです。ナショナリズムの台頭により、同じネーションに属さないよそ者である難民はどこに行っても受け入れてもらえない厳しい状況が1940年代では支配的でした。ドイツからフランスへ逃げたユダヤ人たちはフランスに同化しようとしましたが、「敵国人(ドイツ人)」であるという理由で投獄されてしまいました。そしてフランスがドイツに占領され、今度は「ユダヤ人」であるという理由で拘留されたままにされました。多くの協力者のおかげでアーレントを始めとするユダヤ人はアメリカに亡命できましたが、そこで亡命者として庇護されたわけではなく、無国籍者としてさまざまな不便を強いられました。しかし彼らは自分たちが「Flüchtling(Refugee)」であることを潔しとせず、立派なアメリカ市民であろうと努力しました。その努力が元からのアメリカ国民に認められることはなく、迫害されることもあり、このため自殺者が多かったそうです。ユダヤ教では自殺が神への冒涜であるにもかかわらず、です。表面的には新天地への希望を語りつつも、内心の絶望は深かったということですね。
「国家、国民、領土」の三原則では難民問題の解決の糸口はなく、国際的な枠組みですら決定的な解決を持たないのが現状です。国家という枠組みから外れてしまったから難民になるのにもかかわらず、彼らを庇護するための根拠となる守られるべき基本的人権が(法治)国家を前提とするという矛盾がこの短いエッセイで浮き彫りにされます。それゆえに新しい哲学的理論が必要だ、というのがここでのアーレントの主張です。
そして、今日の難民問題に哲学の立場から何か発言されることはないに等しいとマイヤーは指摘しています。
難民問題解決への哲学の貢献など、哲学とはあまり縁のない私にとってはほとんどどうでもいいことなんですが、改めて問題の複雑さが理解できました。戦争などのやむにやまれぬ事情で「難民」となってしまった人たちに対して、ただ感情的に拒否反応を起こし、ひたすら排斥に走るのはもってのほかですが、かわいそうという同情で人道的な難民支援をすることばかり考えるのも十分ではないということです。同情や人道的支援はその人たちの誇りを傷つける行為でもあることをきちんと理解した上で、(「一時避難」である場合を除いて)いかに彼らが自立した新しい人生を歩むことができるようにするかを、真剣に考えなければならないことです。
本当は戦争も格差もない社会を作ることが根本的な解決策なのでしょうが、それはあまりにもユートピア的なので、現実的に可能な範囲で公平・公正に対処していくしかないですね。