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黒沢清+蓮實重彦『東京から現代アメリカ映画談義 イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノ』その1

2018-08-23 05:45:00 | ノンジャンル
 NHKのBSプレミアムで、久しぶりにドン・シーゲル監督・製作の1973年作品『突破口!』を見ました。何度見ても面白い映画なのですが、今回は冒頭のタイトルバックで、美しい夜明け、星条旗を掲げる老人、美しい牧場、逆光の中、馬に鞍を乗せる少年、スプリンクラーに走り寄る水着姿の少女、芝を刈る若い女性らが映る段階で既に映画の虜となり、マイケル・C・バトラーによるシャープな画面に魅せられました。またクレーンを使ったカットが多くあり、ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』への言及(丸いベッドで、ウォルター・マッソーの相手の女性が「まだ南南西では試してないわよ」と言う)もあることに気付きました。

 さて、2010年に刊行された、「黒沢清+蓮實重彦『東京から現代アメリカ映画談義 イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノ』」を読みました。
 巻頭の「黒沢清監督に 蓮實重彦」の部分を引用させていただくと、
「太陽は、明日もまた、いつものように東の空から昇るだろう。ほとんどそう信じるのと変わらぬ故のない楽天性をもって、明日もまた、これまで通り、面白いアメリカ映画が見られるはずだと思いこんでいました。映画を見始めた1940年代の終わりから50年代の始めにかけて、ジョン・フォードやアルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスの新作が、ほぼ毎年、ときには2本も見られたものですから、しかも、こうした映画作家たちがいつか他界するなどとは想像できないほどこちらの年齢も幼かったので、ついそんな気持ちになったのでしょうか。
 もちろん、あらゆるアメリカ映画が魅力的な作品だったわけではありません。しかし、中学から高校、そして大学にかけて、『B級映画』などという概念を知るより遥か以前のことですが、何の期待もなくふらりと入った映画館で、なにがしかの手応えがあり、思っていた以上に面白く、それなりに楽しめる拾いものはといえば、どれもこれもアメリカ映画でした。『ウィンチェスター銃73』(1950)、『拾った女』(1953)、『大砂塵』(1954)、『キッスで殺せ』(1955)、『恐怖の土曜日』(1955)、『七人の無頼漢』(1956)、『殺し屋ネルソン』(1957)などの作品と出会えたのもそのようにしてであり、アンソニー・マン、サミュエル・フラー、ニコラス・レイ、ロバート・オルドリッチ、リチャード・フライシャー、バッド・ベティカー、ドナルド・シーゲルといった名前を憶えたのはそのあとのことにすぎません。
 ことさら活劇やその達人ばかりを意図して選んだわけではありません。にもかかわらず、こうした題名や映画作家の名前がごく自然に思い出されるのは、やはり映画は活劇だという信念があったのかも知れません。中学・高校時代の私は、毎週末、ときには放課後にも、ごく当然のようにハリウッド製の活劇を見にでかけていました。たまたま書類の山からこぼれおちた古い資料によると、1951年というから15歳の年の3月21日に、ウィリアム・A・ウェルマン監督の『総天然色』作品『西部の王者』(1944)を渋谷松竹で見ているのですが、それがその年のその日付までに見た31本目の映画だと記録されているところをみると、高校進学前に、すでに1月に平均10本は見ていたことになります。そのほとんどがアメリカ映画なのは、戦時中にハリウッドで撮られた作品が戦後の日本で一挙に公開されたからで、それが毎週の番組をことのほか華やいだものにしていました。
 ところがなぜかはうまく説明できないのですが、当時の私の頭の中で、アメリカ映画とアメリカ合衆国とが素直に結びつくことはまずありませんでした。とはいえ、それは、誰もが『ヤンキー・ゴー・ホーム』と唱えながら口々に反米的な思想を表明していたとき、アメリカ映画に愛着を覚えてしまう自分を無理にも正当化するための韜晦術ではありません。だから、ゴダールのように、『合衆国政府を憎悪しながらアメリカ映画を擁護する』といった意識的な振る舞いを演じていたわけではなかった。(中略)
 もちろん、その時期に、日本映画はいうまでもなく、フランス映画を初め、ヨーロッパ映画もかなり見てはいましたが、そこには、明日もまた、これまで通りという故のない楽天性を許容する何かが欠けていました。(中略)
 映画など、いつなくなっても一向に不思議ではないといまでは思っていますが、というより、『映画崩壊前夜』に記したように、映画はその生誕の瞬間から崩壊前夜にあるというのがわたくしの思いなのですが、それでも、アメリカ映画がそっくり消滅することは、どこか、地球の運行に支障をきたしかねない超自然的な現象のように思えてなりません。(中略)(明日へ続きます……)

 →サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto

P.S. 今から約30年前、東京都江東区で最寄りの駅が東陽町だった「早友」東陽町教室の教室長、および木場駅が最寄りの駅だった「清新塾」のやはり教室長だった伊藤達夫先生、また、当時かわいかった生徒の皆さん、これを見たら是非下記までお知らせください。黒山さん福長さんと私が、首を長くして待っています。(また伊藤先生の情報をお持ちの方も是非お知らせください。連絡先は「m-goto@ceres.dti.ne.jp」です。よろしくお願いいたします。

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