デヴィッド・グレーバーの訃報が先日報じられたので、同氏が2014年に刊行した『民主主義の非西洋起源について 「あいだ」の空間の民主主義』を図書館から借りてきました。
まず目次を見てみると、
序論
第一章 「西洋的伝統」という概念の一貫性のなさについて
補足的覚え書き━━西洋的眼差しの欺瞞性について
世界システム論を再構成する
第二章 民主主義はアテネで発明されたのではない
第三章 相互にされる回収
「影響論争」━━アメリカ民主主義とイロコイ諸族
終わりなき再創設の営みとしての伝統
アフリカのフェティシズムと社会契約の理念
中国とヨーロッパ国民国家
結 論 国家の危機
民主主義と国家の不可能な結合
フランス語版のためのまえがき/アラン・カイエ
【付録】惜しみなく与えよ━━新しいモース派の台頭/D・グレーバー
「あいだ」の空間と水平性━━訳者あとがき/片岡大右
書 誌
以上が目次です。大変魅力的な文もあれば、難解そうな文もあり、実際に手にした時は、どうすればいいのか(読まずに済ますのか、ちょこっと読むのか、全力をかけて読むのか)大変迷いましたが、今回はちょこっと読むことにしました。
結論として「国家」は民主主義と相容れないものだとされているので、それをまず信じ、あとは面白そうなところをかじり読みしてみました。
例えば序論のはじめ。
・以下の考察の大部分は、オルタナティブ・グローバリゼーション運動(ウォール街で行なわれた「私たちは冨をはく奪されている99%だ」という運動)に関わってきた私自身の経験から生まれた。この運動のなかで交わされる議論の中心には大抵の場合、民主主義(デモクラシー)の問題があった。
・実践上の問題については、驚くほどの見解の一致が認められるのだ。それもとりわけ、運動の最もラディカルな諸要素をめぐって、人びとは見解の一致を見ている。チアパスのサパティスタ・コミュニティのメンバーと話しても、アルゼンチンのピケテロス運動に参加する失業者と話しても、オランダの家屋占拠者(スクワッター)と話しても、南アの黒人居住区(タウンシップ)の立ち退き反対運動の活動家と話しても、ほとんど誰もが以下の点で同意を示すのだ。垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上位下達をよしとしない発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に、伝統的な参加方式のもとでは普通なら周縁化されるか排除されるような人びとの声が聞き入れられることを保証するために、何らかの仕組みを(中略)確保することの必要性。
・何かが起こっている。問題は、それに呼び名を与えることだ。この動きの主要原理の多く(自己組織化、自発的結社、相互扶助、国家権力の拒絶)は、アナキズムの伝統に由来する。ところが、今日これらの発想を受け入れている人びとの多くは、自分たちを「アナキスト」と呼ぶことに乗り気ではないか、必死で拒絶している。実は民主主義という言葉も、かつてはそうだったのだ。私自身はといえば、これまで基本的に、両方の言葉を大っぴらに受け入れ、そうして実はアナキズムと民主主義はおおむね同じものであると━━あるいはそうあるべきだと━━主張する、というアプローチを採用してきた。
・私の考えでは、ここでの問題は何より戦略的、政治的なものだ。「民主主義」という言葉は、歴史のなかで実に様々な事柄を意味してきた。最初にこの言葉がつくられた時には、それはコミュニティを構成する市民が集団的議会での平等な投票を通して意思決定を行うシステムのことだった。以後の歴史の大部分のあいだ、それは政治的無秩序、暴動、リンチ、党派的暴力について用いられた(中略)。この言葉が、国家に属する市民が自分たちの名において国家権力を行使する代表者たちを選出するシステムとみなされるようになったのは、かなり近年になってからのことだ。当然ながら、上記の歴史のなかに、新たに発見しなければならないような民主主義の真の本質などというものはない。これら様々な指示対象に共通する唯一の要素は、おそらく、それらがいずれも、普通なら少数のエリート層の関心事であるにすぎない政治的諸問題が、民主主義においては全員に開かれたものとなっているという意識だ。
・私の考えでは、「民主主義」という言葉が、どれほど頻繁に圧制者や扇動家に悪用されようとも、今なお断固とした大衆的魅力を保持していることにははっきりした理由がある。
・私が同時に主張したいのは(中略)ここでの問題は学術的なものではなく、道徳的、政治的なものである(中略)ということだ。
(明日へ続きます……)
→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~moto)
→FACEBOOK(https://www.facebook.com/profile.php?id=100005952271135)
まず目次を見てみると、
序論
第一章 「西洋的伝統」という概念の一貫性のなさについて
補足的覚え書き━━西洋的眼差しの欺瞞性について
世界システム論を再構成する
第二章 民主主義はアテネで発明されたのではない
第三章 相互にされる回収
「影響論争」━━アメリカ民主主義とイロコイ諸族
終わりなき再創設の営みとしての伝統
アフリカのフェティシズムと社会契約の理念
中国とヨーロッパ国民国家
結 論 国家の危機
民主主義と国家の不可能な結合
フランス語版のためのまえがき/アラン・カイエ
【付録】惜しみなく与えよ━━新しいモース派の台頭/D・グレーバー
「あいだ」の空間と水平性━━訳者あとがき/片岡大右
書 誌
以上が目次です。大変魅力的な文もあれば、難解そうな文もあり、実際に手にした時は、どうすればいいのか(読まずに済ますのか、ちょこっと読むのか、全力をかけて読むのか)大変迷いましたが、今回はちょこっと読むことにしました。
結論として「国家」は民主主義と相容れないものだとされているので、それをまず信じ、あとは面白そうなところをかじり読みしてみました。
例えば序論のはじめ。
・以下の考察の大部分は、オルタナティブ・グローバリゼーション運動(ウォール街で行なわれた「私たちは冨をはく奪されている99%だ」という運動)に関わってきた私自身の経験から生まれた。この運動のなかで交わされる議論の中心には大抵の場合、民主主義(デモクラシー)の問題があった。
・実践上の問題については、驚くほどの見解の一致が認められるのだ。それもとりわけ、運動の最もラディカルな諸要素をめぐって、人びとは見解の一致を見ている。チアパスのサパティスタ・コミュニティのメンバーと話しても、アルゼンチンのピケテロス運動に参加する失業者と話しても、オランダの家屋占拠者(スクワッター)と話しても、南アの黒人居住区(タウンシップ)の立ち退き反対運動の活動家と話しても、ほとんど誰もが以下の点で同意を示すのだ。垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上位下達をよしとしない発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に、伝統的な参加方式のもとでは普通なら周縁化されるか排除されるような人びとの声が聞き入れられることを保証するために、何らかの仕組みを(中略)確保することの必要性。
・何かが起こっている。問題は、それに呼び名を与えることだ。この動きの主要原理の多く(自己組織化、自発的結社、相互扶助、国家権力の拒絶)は、アナキズムの伝統に由来する。ところが、今日これらの発想を受け入れている人びとの多くは、自分たちを「アナキスト」と呼ぶことに乗り気ではないか、必死で拒絶している。実は民主主義という言葉も、かつてはそうだったのだ。私自身はといえば、これまで基本的に、両方の言葉を大っぴらに受け入れ、そうして実はアナキズムと民主主義はおおむね同じものであると━━あるいはそうあるべきだと━━主張する、というアプローチを採用してきた。
・私の考えでは、ここでの問題は何より戦略的、政治的なものだ。「民主主義」という言葉は、歴史のなかで実に様々な事柄を意味してきた。最初にこの言葉がつくられた時には、それはコミュニティを構成する市民が集団的議会での平等な投票を通して意思決定を行うシステムのことだった。以後の歴史の大部分のあいだ、それは政治的無秩序、暴動、リンチ、党派的暴力について用いられた(中略)。この言葉が、国家に属する市民が自分たちの名において国家権力を行使する代表者たちを選出するシステムとみなされるようになったのは、かなり近年になってからのことだ。当然ながら、上記の歴史のなかに、新たに発見しなければならないような民主主義の真の本質などというものはない。これら様々な指示対象に共通する唯一の要素は、おそらく、それらがいずれも、普通なら少数のエリート層の関心事であるにすぎない政治的諸問題が、民主主義においては全員に開かれたものとなっているという意識だ。
・私の考えでは、「民主主義」という言葉が、どれほど頻繁に圧制者や扇動家に悪用されようとも、今なお断固とした大衆的魅力を保持していることにははっきりした理由がある。
・私が同時に主張したいのは(中略)ここでの問題は学術的なものではなく、道徳的、政治的なものである(中略)ということだ。
(明日へ続きます……)
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