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ハワード・ホークス監督『永遠(とわ)の戦場』&『今日限りの命』その2

2019-11-05 00:31:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

「リオ・ブラボー三部作」で、「Professional courtesy」つまりプロとしての忘れてならないところを見せるのである。それだけに、右腕が麻痺して使えなくなったジョン・ウェインの策略にかかって、「割に合わねえぜ」とつぶやき、無念の最期をとげるところは心が痛むシーンだ。だが、敵である以上、どうしても倒さなければならないのだ。プロフェッショナルは友情とともに死を賭けた存在なのである。たしか、ホークス監督のトーキー第一作『暁の偵察』(1930)という第一次大戦の西部戦線における英独の壮烈な空中戦を描いた航空戦争映画だったと思うけれども、敵同士の戦闘機のパイロットが互角の実力を称賛し合い、一方が他方の死を悼み、敬意を表して空中から花束を投下して葬列に加わるというシーンがあったことを思いだす。
『永遠の戦場』では、激戦地でミスを犯した老兵ライオネル・バリモアと視力を失ったワーナー・バクスター大尉の父子が、もはや生きる資格を失ったかのごとく、死を覚悟で、敵前の観測所に電話を架設する任務をひきうける。「お父さん、わたしの眼になってくれますか」「いいとも、息子よ、わしがおまえの眼になってやるぞ」というのがふたりの父と子としての真に心の通じ合った最初にして最後の対話だ。大尉は父に手を引かれて観測所にたどり着く。そして電話架設の任務を終えたとたん敵の爆撃で父子は一瞬にして吹き飛んでしまうのである。
『永遠の戦場』の前に、ハワード・ホークス監督は『今日限りの命』(1933)という第一次大戦を背景にした戦争メロドラマを撮っているが、すでに『永遠の戦場』の父子の特攻的心中につらなる親友同士の捨て身の突撃シーンがある。のちにノーベル賞作家となるウイリアム・フォークナーの原作(「急旋回」)と台詞による、ホークス/フォークナーのコンビの第一回作品で、以後『永遠の戦場』、『脱出』(1944)、『三つ数えろ』(1946)、『ピラミッド』(1955)とフォークナーはホークス映画の脚本に参加することになる。そのほか、『空軍』(1943)のワンシーン(B17機メアリー・アン号のパイロット、ジョン・リジリー大尉の死のシーン)など、クレジットなしで書いたところもあるという。
 ホークスの映画歴のなかでも注目すべきことの一つは小説家のウィリアム・フォークナーとの友情だろう。ウィリアム・フォークナーがまだあまり売れていなかった時代に知り合って、いちはやくシナリオライターとしてフォークナーをハリウッドへ招き入れた。もっとも友情あるコンビなどとはとんでもない、フォークナーが1932年夏、ハリウッドに行くのは「経済上の理由からシナリオライターとして」やむを得なかったのであり、「シナリオの仕事は以後20年間断続的に続けられるが、彼としては常にこれを嫌っていた」(集英社世界文学大事典)と文学の側からはじつに素気ない、評価とも言えない解説である。そのとおりではあったのだろう。トム・ダーディスもその著「ときにはハリウッドの陽を浴びて━━作家たちのハリウッドでの日々」(岩本憲児・宮本峻・森田典正・鈴木順子訳、研究社出版)のなかに、こう書いている。

 彼〔ウィリアム・フォークナー〕は〔ハリウッドでの〕脚本の仕事を、他の仕事と違った特別のものとはとらえていなかった。だから、雇い主がエジプトのファラオについての話を望めば、それを提供した。同様に、セクシーでパンチのきいた会話をハンフリー・ボカートのために書いてやれと言われれば、書いてやっただろう。フォークナーがハリウッドから欲したものは、自分の〔酒代の〕つけを払い、作品を書き続けさせてくれる金を得ることだけだった。そしてフォークナーは━━決して充分でなかったが━━何とか本を書けるだけの金を得たのである。

(また明日へ続きます……)

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