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ハワード・ホークス監督『永遠(とわ)の戦場』&『今日限りの命』その1

2019-11-04 01:01:00 | ノンジャンル
 渋谷のシネマヴェーラで、ハワード・ホークス監督の1933年作品『今日限りの命』と1936年作品『永遠の戦場』を観ました。山田宏一さんの本「ハワード・ホークス映画読本」の「友情と戦場━━『永遠の戦場』『今日限りの命』」の文章を転載させていただくと、

 戦場もまた、ホークス監督にとって、男の友情を描く恰好の場であった。幾多のホークス監督の戦争映画のなかでも『永遠の戦場』(1936)は出色の一作で、戦前の、1930年代の、ハワード・ホークス監督の知られざる傑作と言ってもいいかもしれない。
 第一次大戦のフランス戦線を舞台に、とはいっても、むしろ「むかし、むかし、あるところに……」といった感じで唐突にはじまる男女の出会いからしてホークス・タッチが。空襲のさなかに、防空壕とも思えない半地下の一室で若い将校(フレデリック・マーチ)が、ひとり悠然と、爆音などものともせずにピアノを弾いている。採光窓から女の足が見える。将校は地下室へ女をみちびき入れる。というよりも、ほとんど女が突如、転がりこんでくる感じだ。ハワード・ホークス監督のごく初期のサイレント映画『雲晴れて愛は輝く』(1927)でも、すでに、ヒロイン(ヴァージニア・ヴァリ)がどしゃ降りの雨の夜に崖っぷちの道から転げ落ちて一軒家にとびこむと(「不思議の国のアリス」のように!?)そこには夢の王子さま(ジョージ・オブライエン)が待っているというシーンを思いだしてしまう。
『永遠の戦場』では若い将校と若い従軍看護婦(ジューン・ラング)との出会いになる。若い将校はひと目で彼女に恋をしてしまうのだが、彼女はすでに中隊の指揮官(ワーナー・バクスター)と婚約しており、若い将校(中尉)は自分の上官(大尉)と彼女をめぐって三角関係におちいってしまったことをまだ知らない。『永遠の戦場』はフランス映画『木の十字架』(レイモン・ベルナール監督、1932)のリメークだったが、通常の戦争映画らしく『木の十字架』には女がひとりも出てこないので、そこはリメークをしのぐオリジナルになった。ジューン・ラングをめぐる三角関係と友情がテーマになるのだ。
 と思いきや、それ以上におどろくべきことは、19世紀の、1870━71年の普仏戦争で戦場と戦争の「味をしめた」ラッパ手、戦争好きのかくしゃくたる老兵(ライオネル・バリモア)が年齢を偽って補充部隊に志願兵としてまぎれこんでくることである。そればかりか、中隊長のワーナー・バクスター大尉のおどろきは、その老兵が彼の父親だったことだ。ワーナー・バクスター大尉は「またか」とつぶやく。どうやら老兵には同じような「前科」があるらしい。とんだ迷惑千万な父親なのである。
『永遠の戦場』の戦争好きの老兵、ライオネル・バリモアは、「リオ・ブラボー三部作」の陽気な狂った老人たち、『リオ・ブラボー』(1959)のウォルター・ブレナン、『エル・ドラド』(1967)のアーサー・ハニカット、『リオ・ロボ』(1970)のジャック・イーラムの系列の元祖と言ってもいい存在だろう。
 ライオネル・バリモアとワーナー・バクスターの父子のドラマが、『永遠の戦場』の三角関係をしのいでホークス的な決死の友情のテーマとして浮上してくる。親子の愛情などといった家庭的な、家族的な、ありきたりの“やわ”な結びつきを超えた、はかないけれども閃光のような、その場かぎりの、明日なき一瞬を賭けて鮮烈にかがやく友情、それこそが真の友情なのだ。
 ホークスの映画では、いつだって、男と女が結ばれても、その後の結婚の風景が描かれることはない。イングマール・ベルイマンの結婚喜劇のように「結婚のベッドは恋愛の墓場である」などといったペシミスティックで揶揄的な慨嘆が聞かれることもない。愛という名の友情で結ばれた男と女は夫と妻として真の同志になるのだろう。
 男と女だけではない。敵も味方もまたハワード・ホークスの映画世界では友情を絶対的に重んじるのである。「リオ・ブラボー三部作」では「敵同士もプロとしての仁義がある」ことに快いおどろきを感じたものだ━━まるでわがマキノ雅弘監督の任侠やくざ映画を想わせた。

(明日へ続きます……)

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