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我、再び駆ける。

ADV150・MT-03・4D9マジェスティなどを購入したことから、これらのバイクについて紹介していくブログです。

三式戦闘機「飛燕」です。

2016年10月22日 | ミリタリー
昨日は午後休みを取ってお出かけです。明石駅からJRに乗って、三宮駅からはポートライナーに乗換えです。



到着したのは、ポートターミナル駅。



目的地は、神戸ポートターミナルです。



こんな「川崎重工創立150周年記念展」を見に行きました。



中に入ると、ドン!と三式戦闘機「飛燕」の実機が展示されています。目的はズバリ!こいつです。^^



それでは飛燕の画像をどうぞ。















動画でもどうぞ。






(注)ここから先はマニアックな内容です。興味の無い方は一気にスクロールしてください。^^

先ずは機種に搭載されたホ5・20mm機関砲です。



操縦席です。風防ガラス(アクリル板)はキレイに取り換えられていました。(アクリル板は経年劣化で黄色く変色します)



エンジンの吸気口です。内部には整流板が付いています。



左の丸い筒のようなものは燃料冷却機です。暑い南方では燃料(ガソリン)のペーパーロック(気泡化)が発生するため、その対策として付けられています。
飛燕は日本軍用機としては珍しい液冷(水冷)エンジンを搭載しているため、ラジエターを装着していますが・・・ありゃ?ガランとしています。



別の角度から見てもラジエターがありません。



ラジエターは外され、別に展示されていました。



主翼に搭載されたホ103・12.7mm機銃と着陸灯です。ちなみに零戦など海軍機には着陸灯は見受けられません。これは飛行場の灯火基準が陸海軍で異なることや、陸軍機は広い場所での緊急着陸も考慮されているからでしょう。



赤丸部分の主翼下面のフタは、機銃の薬莢が落ちないためのものでしょう。通常、薬莢は落として行くのですが、地上での機銃の軸調整など点検時にはフタを閉めていたと思われます。



主脚の引き込み部分は、機体内部色である「青竹色」に塗られています。プラモデルマニアの方なら、「タミヤの青竹色よりも白っぽいなあ」と思われるでしょう。



ピトー管は新たに付けられたようです。



垂直・水平尾翼です。方向舵(ラダー)と昇降舵(エレベータ)が新しいのは、この部分はジュラルミン枠に羽毛張ですので、新たにレストアされています。



操縦桿から延びる昇降舵操作ロッドは復元されていましたが、方向舵への操作ロッドは赤丸のように復元されていませんでした。



尾輪です。カバーが無いので固定脚です。



尾輪の左部分の穴は、ここに鉄棒などを入れて尾部を上げるために用いました。



アンテナ柱です。ほとんどの日本機は木製ですが、珍しく金属製です。



操縦席を後ろ側から。う~ん、計器類が全く無いですね。



計器類は別に展示されていました。レストアした計器もありますが、一部はネットオークションで実物を買い求めたそうです。計器の文字はイギリスに現存する五式戦闘機(飛燕の空冷版)から型取りして再現されています。



シュミレーターではないですが、飛燕の操縦席を体験できるように実物大模型も置かれていました。



操縦席後方の赤い部品は、油圧レシーバータンクの入口部分です。画像には写っていませんが、水メタノール(混合気に噴射して、ノッキング対策とエンジン出力UPに用いる)の給水口もここにあります。



補助翼(エルロン)操作ロッドは、上面の零戦とは異なり下面に付いていました。このあたりは設計者の考え方の違いでしょうか。零戦同様、氷結防止対策のカバーが付いています。



機種部分です。飛燕は倒立V12気筒エンジンを搭載していますので、片側に6本の排気管が出ています。



エンジン部分は点検用に上下カバーが外れるようになっていました。それぞれ赤丸のように片側3か所のロックが付いています。






飛燕に搭載されたハ140(Ⅰ型はハ40)です。ベースはメッサーシュミットBf109に搭載されたDB(ダイムラーベンツ)601です。ボア・ストロークは150 mm×160 mm(約33,900cc)で1,500馬力ですが、燃料噴射・無段階過給機(現在のAT車と同じ流体継手)のエンジンは、当時の日本の技術ではあまりに高度複雑で手に余る代物でした。このため故障が多く、空冷エンジンに換装され五式戦闘機となったのです。



過給機です。形状は渦巻きポンプと同じです。



機首部分を下から・・・尖った三角のスピンナにスリムな機首は、零戦など空冷エンジン搭載機とは全く違うスタイルです。



それでは最後に、短いですが飛燕レストアプロジェクトの模様をどうぞ。会場ではモニターで映し出されていました。



この飛燕ですが、1944年に川崎航空機岐阜工場で製造された飛燕Ⅱ型試作17号機です。終戦時に福生飛行場(現、米軍横田基地)残された機体で、陸軍航空審査部(新型機の性能などを審査する部隊)所属でした。私の蔵書に終戦時の福生飛行場の写真が掲載されていますが、キ87などとともに写っています。

その後は横田基地内にオブジェとして展示されていましたが、日本航空協会に返還され、デパートの屋上遊園地で客寄せパンダとしても使用されましたが(これ本当の話)、近年は鹿児島の知覧特攻平和会館に展示されていました。そして川崎重工岐阜工場でレストアされ、神戸での「川崎重工創立150周年記念展」の展示となったものです。神戸での展示の後は、岐阜県の「かかみがはら航空宇宙科学博物館」で展示されるそうですが、とにもかくにも現存する唯一の飛燕Ⅱ型です。

さて総括といえば僭越ですが、飛燕の感想を・・・大和ミュージアムの零戦は細かい文字(例えば、フムナとかの注意書)まで再現するなど、出来るだけ当時の状態にレストアされていましたが、飛燕はあくまで川崎重工の技術を見ていただくための展示品という感じでした。このため、あえて不完全な状態のままレストアされていました。このあたりはレストアの考え方の違いでしょう。

それでも会場に入ると、実物が放つ圧倒的な存在感は素晴らしいものでした。こんなことから、平日にもかかわらず多くの方が見学に来られ・・・バイクマニアの方ならH2なども気になるでしょうが、会場の主役はあくまで飛燕!バイクマニアでもある私ですが、この日はバイクは全く撮影することなくスル~しました。^^


PS.
こんな感じで飛燕を撮影していると、突然、ビィ~ン、ビィ~ンなんて音がしてグラグラと揺れ・・・鳥取の地震に遭遇しました(驚!)。会社に連絡し(しばらくは繋がらず)、急遽、撮影中止で戻りました。(涙)
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大和ミュージアムの零戦62型を観察

2013年01月20日 | ミリタリー
今回は、昨年の12/23に訪れた大和ミュージアムに展示されていた零戦62型について観察します。紹介するのを、すっかり忘れていました(笑)。結構、マニアックな内容ですので、興味のない方はスル~していただいて結構です。

先ず零戦の全景写真です。私と同年齢の方は、一度は零戦のプラモを作られたでしょうから見慣れたスタイルですが、とてもスマートなものです。当時の空力学を駆使して、空気抵抗を少しでも減らしたものであることが分かります。















次に各部を詳細に見ていきましょう。先ず尾部からですが、昇降舵のトリムタブが赤文字で「サハルナ」(触るな)と表示されています。これは完成した飛行機には一機ずつクセがあり、このトリムタブを使って、上下左右することなく、真っ直ぐに飛ぶように調整されるのです。トリムタブを触ってしまうと、また調整しないといけないからですね。



この写真は尾部の下部です。零戦は艦上戦闘機ですから、着艦時に用いる艦上フックと呼ばれるものが付いていますが、この零戦には付いていません。配置されてから現地で外されたのか。それとも復元する時に付け忘れたのか。はたまた終戦末期で発着艦する空母が無かったため、製造過程で省かれたのか・・・う~ん、謎です。



主翼に装備された20mm機関砲(内側)と13mm機銃(外側)です。13mm機銃はカセット式の給弾方式ですね。






プロペラ軸の先端に付けられたスピンナです。よく見ると回転方向が表示されています。






写真の赤丸で囲んだ棒は、主脚確認棒です。これは当時の引込脚は故障が多く、着陸しようとしたら主脚が出ていなくて胴体着陸・・・なんてことがありましたので、操縦士は確認棒が飛び出していることで主脚が出ていることを確認し着陸したのです。



前部エンジンカウリング上部の機銃発射口です。靖国神社・遊就館と上野の科学博物館の零戦は下からしか見えませんので、今回、初めて目にすることができました。左右の大きさが違うのは、右側は13mm左側は7.9mm機銃だからです。



操縦桿と主翼エルロン(補助翼)とはロッドで連結されています。小さな前カバーは空気抵抗の減少と氷結防止対策でしょう。



操縦席です。内部まで復元されています。細かいところですが、偵察機である「彩雲」操縦席の戦時中の写真を見たことがありますが、風防枠の内側にはフェルトのような布が貼られていました。これは頭をぶつけてもケガをしないためですが、この零戦には貼られていません。そこまで丁寧に復元しなかったのか。それとも戦争末期の物資不足のため、最初から貼られなかったのか分かりません。



主翼の下の4つのヒレのようなものは、三式一番二十八号爆弾の発射ラックです。この爆弾ですが、爆弾という名は付いていますがロケット弾でした。飛来するB29の攻撃のために用いられましたが、発射すると散弾銃のようにバラバラになりました。また主翼・前縁が黄色が塗られているのは敵味方識別帯と呼ばれたものですが、陸海軍機共通で見られるものです。



主脚のショックアブソーバーです。油圧シュックですね。細い黒いパイプは、ホイールのドラムブレーキ用油圧パイプと思います。



零戦に搭載された中島製(現在のスバル)「栄」エンジンです。空冷二重星形14気筒で排気量27.9L。出力1,150psというものです。ご覧のように2気筒で一本のエキパイですから、2in1の集合マフラーですね。



14気筒で2in1ということは、7本の排気管です。ということは、機体の左右で排気管の数が違うのでは?で確認すると、推測どおり機体右側は4本で、左側は3本というアンバランスなものでした。(今回、初めて気が付きました)






「栄」エンジンのピストンです。ボア×ストローク:130mm×150mmということで、1気筒あたり1,990ccとなります。



ボチボチと疲れてきましたので、このあたりで終わりましょう(笑)。う~ん、何人の方が最後まで読まれたのか疑問ですが、今から約70年前に設計された一つの工業製品として見ていただければ、当時の日本の工業力が伺えるかと思います。
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加古川飛行場展に行ってきました。

2011年08月17日 | ミリタリー
先週の土曜日のこととなりますが、TOPの写真の加古川飛行場展に行ってきました。開催されたのは、下の写真の加古川市尾上公民館です。明石の我家からでしたら、旧浜国道をひたすら西に走って40分ぐらいで到着です。
加古川飛行場は陸軍の飛行場でしたが、練成部隊ということで最新鋭機(例えば四式戦“疾風”など)などは配属されず、主に旧型の九七式戦闘機が配属されたそうです。



館内に入ると、九七式戦闘機がお出迎えです。細かなところまで再現した1/6模型でした。確か九七式戦闘機のプロペラはYAMAHA製だったと記憶しています。












九五式練習機(通称“赤とんぼ”)の車輪も展示されていました。タバコと比べると、大体の大きさがお分かりでしょうか。TMAXの15inタイヤぐらいの大きさでした。また主軸部分はローラベアリングが組み込まれています。






加古川飛行場には、開戦当初に捕獲したDB-7(A-20ハボック)爆撃機も配属されていたようです。日の丸が描かれたアメリカ軍爆撃機の貴重な写真ですね。



「姫路上空 最後の飛行」というタイトルの絵画・・・8月15日の終戦で8月24日には日本軍機は飛行禁止となりました。8月23日の日付ということは飛行禁止前日の最後のフライトだったのでしょう。



当時の写真を2枚ほど・・・何か大昔の写真のように思えますが、僅か70年ほど前の頃の状況です。






加古川飛行場については、下記のウィキペディアをご覧ください。
「加古川飛行場」
1950年代半ばまで滑走路が現存したそうですが、現在は下の写真のように工場敷地となっています。


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鶉野飛行場のガイドブックを入手しました。

2011年06月11日 | ミリタリー
ブログのお知り合いである宮崎さん(多くのYAMAHA・2st250を所有されています)が、ご自身のブログで加西市の鶉野飛行場をガイドブックのことを紹介されていました。
何でも加西市の教育委員会が作成したようです。早速、下記のサイトを見て送付していただきました。
加西・鶉野飛行場跡ガイドブック

表紙・目次などは、下の写真のとおり・・・A5番48ページという立派なガイドブックです。しかも2番目の写真で登場する九七式艦上攻撃機と天山艦上攻撃機は、ちゃんと鶉野飛行場(姫路航空隊)の所属機の写真です。また、現在も残る飛行場施設の写真も掲載されています。









私も二度ばかり鶉野飛行場跡に行きましたが(詳しくは、昨年の3/2の記事を参照)、田園風景が続く中、突然、飛行場が現れ驚いたものです。送料が180円必要ですが、興味のある方にとっては貴重な資料と言えるでしょう。
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私のアイデンティティであるミリタリー飛行機模型

2010年12月29日 | ミリタリー
いよいよ年末ですね。しかも寒いです。そんなところで、暖房の効いた部屋でゴロゴロするのが最高です。(笑)

さて、そんなところで家でゴロゴロしていると記事のネタがありません。困った時のネタ探しは、押入れの発掘作業でもしましょう。すると・・・はい。スグにネタが出てきました。それはTOPの写真のミリタリー飛行機の模型です。手前が紫電改(紫電21型)で、奥が雷電21型ですが、マルシン工業の1/48金属製模型です。

下の写真は尾翼部分ですが、紫電改は松山の343空所属機。雷電は厚木の302空所属機のカラーリングです。



下の写真は雷電21型のアップですが、ズングリとした雷電の特徴が分かります。床のフローリングが写っていなければ実機の写真のようです。



下の写真は、2機を上から撮影したもの・・・同じ海軍局地戦闘機でも、設計のコンセプトが全く異なることが分かります。設計主務者の考え方の違いでしょうか。
雷電(零戦、烈風)は三菱の堀越二郎さん、紫電改(強風、紫電)は川西航空機(現、新明和工業)の菊原静男さんですが、このお二人に飛燕の土井武夫さんらが、戦後、YS-11旅客機の設計でチームを組むことになります。



この2機の模型は、私にとってはバイクと同じようにアイデンティティです。当時、物資のないギリギリの状態で、最高のモノを作ろうとした技術者の熱意が伝わってくるのです。
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結局、GWはどこにも出かけず・・・スカイ・クロラと震電

2009年05月06日 | ミリタリー
今日で長かったGWも終わりですね。私は5/4(月)まで仕事に出っ放しで(厳密には3月末から5/4まで土日も関係なく仕事に出っ放し!)、とても休みやツーリングどころではなかったです。
そして「やっと5,6日は休みだ!」と思ったのも束の間・・・あいにくの雨の予想で、結局、どこにも出かけず今年のGWを終えようとしています。(ここで一句“我、泣きぬれて、柏餅を食べるなり”)

僅かに出かけたのは、今日のレンタル・ビデオ店・・・ここで押井守監督の「スカイ・クロラ」を借りてきて観たぐらいです。
このスカイ・クロラですが、映画館でも観ました。とてもアニメとは思えない空中戦の場面がキレイですね。それで登場する戦闘機ですが、終戦間際に試験飛行を行った局地戦闘機「震電」そっくりです。

この震電ですが、特にミリタリーに詳しくない方でも、ご存知の方は多いと思います。エンテ型と呼ばれる先尾翼タイプの飛行機で、要するに、一見、逆向きに飛ぶ飛行機です。
空気抵抗の減少と、機体先端に大口径の機関銃が搭載される利点から開発されたのですが、前述したとおり、終戦間際に2回の試験飛行を行っただけでした。
私の秘蔵DVDである「日本軍用機集~海軍機篇」に試験飛行の様子が収められていますが(You Tubeでも公開されているようです)、主脚を出したままでの数分間の飛行でした。
ちなみに最初の写真は、スカイ・クロラの主人公である函南優一の搭乗機。下の写真が震電です。



震電は仮想戦記にもよく登場します。有名なのは紺碧の艦隊での「爽来」(だったと思う)ですが、敵の大型爆撃機を次々と撃墜しますね。実際の震電も、B29撃墜のために開発されました。
よく仮想戦記のように「震電や烈風が間に合っていたら、戦局を逆転したかも・・・」なんて言われる方もおられますが、当時の壊滅的な日本経済では震電や烈風を生産することは不可能でした。

さて、明日から仕事ですね。今度の土日は休めるかな?です。もし休めたら、満を持してのツーリングです。
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ツーリング・コースが一つ決まりました。

2009年03月01日 | ミリタリー
以前に「父の飛燕の思い出」という記事で、神戸空襲時の56戦隊の緒方大尉のことをご紹介しましたが、その記事を読まれた方から下記のようなコメントが寄せられました。(内容を少し変更しています)
「私は平成17年に大阪府交野市で発掘された、56戦隊の中村中尉機の飛燕の機関銃の鑑定を大阪府警から依頼された者です。現在、発掘された飛燕の残骸が交野市で展示されています」

短いコメントですが、ミリタリーマニアの私にとっては、ドッキリとしてしまう内容でした。
このコメントへの返信は既にさせていただきましたが、返信した時は時間が無く、とりあえず秘蔵の書物で調べると「おそらく・・・」という空戦記録が見つかりました。
それは「56戦隊の飛燕は、昭和20年7月9日に大阪・淀川上空でP51と交戦。中村少尉が撃墜された」というものでした。

その後、時間が取れた時にネット検索すると、この交野市で発掘された飛燕については、簡単に見つけ出すことが出来ました。
後述する2つのHPをご覧いただければ詳細に説明されていますが、「面倒やな」と思う方もおられるでしょうから、箇条書きで簡単に説明しましょう。
1.昭和20年7月9日に硫黄島から飛び立ったP51は、大阪上空で56戦隊の飛燕と交戦。中村少尉(戦死後、中尉)の飛燕は撃墜される。
2.撃墜された中村少尉はパラシュートで脱出するものの、P51にパラシュートの紐を切られ落下して戦死。
3.墜落した飛燕は戦後60年を経て、平成17年に交野市内の道路工事中に発見され、エンジン他が発掘された。発掘された飛燕の残骸は、交野市の「いきいきランド」で展示されている。

と、いうことです。もっと詳しく知りたい方は、下記の2つのHPをご覧ください。当時の目撃者の証言や、展示されている飛燕のエンジンなどの写真も紹介されています。
http://www.city.katano.osaka.jp/kakka/hisyo/sityou-heya/hien2koku.htm
http://www.oshipee.com/omami/j-photo-hien.htm

さて、ここから本題となるのですが、この交野市の飛燕について会社の同僚のエストレア君に話すと「その話は知っています。中村中尉の慰霊碑の場所も分かります」と言うのです。
ウーン、詳しいな~と、よくよく聞けば、何とエストレア君は交野市出身だったのです。ですから飛燕の残骸が展示されている、交野市の「いきいきランド」の場所もバッチリだと言うのです。

よし!これでツーリング・コースが一つ決まりました。一応、飛燕の残骸の展示を確認して、エストレア君の後を付いて交野市に行きましょう。もちろん中村中尉の慰霊碑に供える、お花を忘れてはいけませんね。
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父の飛燕の思い出・・・

2008年12月28日 | ミリタリー
以前にKAWASAKI(川崎重工業)の記事の中で三式戦闘機「飛燕」のことを紹介したところ、ブロ友のケムシトリー♂さんが愛車に「飛燕」というステッカー貼るぐらい盛り上がっています。(と、思っているのは私だけかな~)
そんなところで、今回はMaj(マジェスティ)やツーリングのネタから外れ、この飛燕のことを紹介したいと思います。

もっとも飛燕については、私が下手に紹介するよりもネット上に多くの情報が紹介されていますので、ここではネットや書物ではあまり紹介されていないことを紹介しましょう。
以下に紹介する父の飛燕の思い出ですが、全くの記憶間違いではなく、断片的に戦記書物に紹介されていますので、おそらく事実であると思います。

時は昭和20年(1945年)の3月17日。神戸・大倉山の高射砲部隊(中部高射砲集団・高射砲第一二三連隊・第四中隊)に配属されていた父は、300機を越えるB29の神戸爆撃に対し、九九式8センチ高射砲で迎え撃っていました。
同じ頃、伊丹飛行場を飛び立った飛燕1型を操る緒方大尉(56戦隊所属)は、神戸上空でB29に対し銃撃を加え1機を撃墜します。しかし銃弾が尽きたのか、最後は体当たりでもう1機を撃墜したのです。
父は大倉山で、小さな飛燕がB29に体当たりするのがハッキリ見えたそうです。その後、飛燕とB29は再度山方面に墜落しました。

翌日、父は憲兵隊と共に再度山方面を捜索したところ、バラバラになった飛燕の残骸を発見。そして、その残骸の中から「緒方」と書かれた飛行靴が見つかりました。
父は上官の命令により、緒方大尉の遺品である飛行靴を伊丹飛行場まで届けたようですが、何せ電車もロクに動いていないような状況でしたから、半日以上歩いて伊丹飛行場まで行ったそうです。

今からおよそ64年近く前に、このようなことがあったことは驚きですね。現在の神戸の状況を見ると想像できないことです。
勇猛果敢にB29に体当たりした、緒方大尉のご冥福をお祈りします。

PS.
父によると、当時の食料状況は最悪で、軍隊といえでも食べる物には苦労したそうです。
父の兄は農家の長男であったことから兵役を免れ、握り拳ぐらいの小さなスイカ(上官に見つからないように)をこっそり大倉山まで持って来てくれたことが、とても嬉しかったと父は言っています。
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