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日の丸の旗棹  日本史授業に役立つ小話・小技 31

2024-03-02 09:18:07 | 私の授業
日本史授業に役立つ小話・小技 31 日の丸の旗棹

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

31,日の丸の旗棹
 日の丸を掲揚する旗竿には、独特の様式があります。棹は旧国鉄の地図記号のような白黒の段だら模様で、竿頭には金色の玉が輝いています。官庁や学校などで掲揚される場合は、金属製のポールに掲揚されていますが、旗竿の強度や構造的な制約があるからであって、それもやむを得ません。いわゆる国旗法には「国旗は日章旗とする」と規定されているだけで、掲揚方法について規定はありません。
 この独特の旗竿は、『日本書紀』に記された神武天皇の神話に基づいています。即位前のことなので、正しくは神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)というのですが、わかりにくいので、ここでは神武天皇としておきましょう。神武天皇の軍勢が河内から胆駒山を経て大和に入ろうとしたのですが、長髄彦に攻められて苦戦します。その時、日の神の子孫であるのに日に向かって、つまり東の方角に向かって戦う事は天道に逆らうことであったと覚り、海路で紀伊半島を大きく迂回し、熊野に上陸します。それは東の方から西に向かって、日の神の御稜威を背に受けながら戦えば勝利をえるであろうとかんがえたからでした。この神話には、古代日本人の太陽理解がよく現れているのですが、それはいずれまた触れることにしましょう。
 熊野から西に進んでも苦戦は続くのですが、ついに大和の地に至り長髄彦(ながすねひこ)と戦います。その時俄に氷雨が降って、妖しく金色に輝く鵄(とび)が飛び来たり、神武天皇の持つ弓の弭(はず)に止りました。その輝くことは稲光の如くで、そのため長髄彦等は目が眩んで戦うことができず、遂に討たれてしまった、という話です。ただしこの話は『古事記』には記されていません。戦前に武人専用の勲章であっ金鵄勲章は、この神話に基づいているわけです。
 竿頭の金の玉は、この金鵄を表していることはすぐにわかります。そこで棹の白黒の模様なのですが、これは弓を表しています。しかし現在の弓道競技で用いられる和弓の外見とは全く似ていません。実は白黒の段だら模様は、その様な弓ではなく、重藤弓(しげどうのゆみ)を模したものなのです。重藤の弓は、黒漆を塗った後に、段だらも様になるように、補強と装飾を兼ねて幅の狭い藤の皮を巻き付けた弓のことで、古式の弓道を伝える流派では、最高の格式の弓とされています。それは外見はまさに国鉄の路線の地図記号そのままなのです。ですから同じ弓でも最も格式の高い弓として、あの模様が選ばれているわけです。
 天皇に関する神話など、高校の授業で話すなどとんでもないといきり立つ人もいるかもしれませんが、私は殊更に避ける必要はなく、神話としての事実は事実として、淡々と話せばよいと思いますし、身近なところから歴史の痕跡を探し出す例として面白いと思っています。