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『徒然草』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 改訂版

2021-11-08 19:53:05 | 私の授業

徒然草


原文 
 花は盛(さかり)に、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方(ゆくえ)も知らぬも、猶あはれに情(なさけ)深し。咲きぬべきほどの梢(こずえ)、散り萎(しお)れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書(ことばがき)(事書)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障(さわ)ることありて、まからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふ習(なら)ひはさることなれど、殊(こと)に頑(かたくな)なる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。・・・・
 望月の隈なきを千里(ちさと)の外(ほか)まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢(こずえ)に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、又なくあはれなり。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの、濡(ぬ)れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁(し)みて、心あらむ友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 すべて、月花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家に立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、偏(ひと)へに好(す)けるさまにも見えず、興(きよう)ずるさまも等閑(なおざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万(よろず)はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪にはおり立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることもなし。

現代語訳
桜の花は満開の頃、月はかげりのない満月だけを愛でるものだろうか。雨の日に(見えない)月に思いを馳せ、家に閉じこもって春の移ろいを知らないでいるのも、やはりしみじみとした趣がある。今にも花が咲きそうな梢(こずえ)や、散って萎れた(花びらの敷いた)庭などには、見所が多いものである。和歌の前書きに、「花見に出かけたが、早くも散ってしまったので」とか、「わけあって花見に行けずに」などと書いてある歌は、「花を見て」と書いてある歌より劣ることがあるだろうか。花が散り、月が傾くのを惜しむということはもっともであるが、心が殊の外頑(かたくな)な人は、「この枝もあの枝も花が散ってしまった。もう見る程のこともない」などと言うようだ。・・・・
かげりのない満月を、遠くまで望むように眺めるよりも、夜明け近くに姿を見せる有明けの月が、大層趣深く青みを帯びて、深い山の杉の梢に掛かって見えたり、月の光が木の間から洩れて来たり、またさっと時雨(しぐれ)を降らせた叢雲(むらくも)に月が隠れている様子など、比べようもなく趣が深い。椎の枝や白樫の濡(ぬ)れた葉の滴(しずく)に、月影が宿ってきらめいている様子は、身に沁(し)みる程の美しさであり、この風情をわかる友がいればよいのにと(共に眺められたらよいのにと)、(そのような人がいる)都を恋しく思うのである。
およそ月や花は、ただそのように目だけで見るものだろうか。春は家に居ながら花を思い、月の夜には寝室の中からでも月に思いを馳せることこそが、心豊かな趣というものである。心ある人というものは、風情に心を寄せる様子をやたらに表に見せたりはしないし、愛でる様子も(表面上は)あっさりとしている。(それに対して)田舎者ほど、しつこく万事騒ぎ立てるものだ。花の木の下ににじり寄るようにして立ち寄り、脇目もふらずに見つめ、酒を飲んでは連歌をして、挙句には大きな枝を心なく折り取る。湧水には手足を浸したり、新雪には降りて足跡をつけるなど、あらゆる物を、よそながら見るということがない。

解説 
 『徒然草(つれづれぐさ)』は、鎌倉時代末期に占部兼好(うらべけんこう)(1280年代?~1352以後)が著した随筆です。兼好は若い頃は天皇に近侍する蔵人となったり、左兵衛佐(さひようえのすけ)という中級武官でしたが、三十歳前後で出家します。
 『徒然草』には実に様々な人間像が登場します。序段を読むと、無常観に根ざした隠棲文芸かと思きや、第一段では、「理想の男性像は、達筆であり、歌が上手で、酒も程よく飲めること」と言い、第三段では、「色好みでない男は、人としてどれ程立派でも、底の抜けた玉の杯のようなものである」と説き、第八段では、男の色好みを諫めつつも、女の肉体の魅力に納得してしまうなど、俗な姿を曝しています。若い頃にはさもありなんと読み進めると、第三八段では、名誉や利益に心を奪われることの愚かさを説いています。年を重ねるに従い、世俗の埃(ほこり)も払われるのかと思いきや、第二四〇段では人目を忍んで女に逢う話になります。そしてまたまた第二四一・二四二段では、無欲に生きることを説くなど、様々に人間の赤裸々な姿を正直に曝(さら)しています。
 ここに載せたのは第一三七段で、花や月の風情について説いています。まずは、完全無欠なものもそれはそれでよいのですが、どこか陰翳(いんえい)があるもの、不完全なものに深い趣があると説いています。
 二つ目には、想像を膨らませて見る感性を説いています。雨の日や、夜の床で見えない月を思い、家の中で花や春の移ろいに思いを馳せることは、直に月や花を見ることに劣らないというのです。美しいものを直に「見る」のと、それを見ずに「思う」ことを比べれば、現代人なら「見る」方がよいと思うでしょう。しかし「思う」(想像)ことにより増幅される風情を良しとする感性を説いています。有名な古歌や故実・歌枕を踏まえて和歌を詠むことは、そのよい例でしょう。もっともその風情を理解するためには、故実や古歌などに通じていなければなりませんが。
 また三つ目には、風情のわかる人とわからない人が対比されています。四季の移ろいの情趣を理解し、それに相応しい振る舞いができることは、文化人必須の素養でした。そして洗練された季節の感性を持つ人こそが、「心ある人」と評価されたものでした。それに対して風情のわからない「心なき」田舎者は、目に見える表面的な美しさを騒がしく愛でるだけであると嘆いています。








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