今日は飛鳥文化の後半を勉強しましょう。前回は寺院が中心でしたから、今回はその中の各種の文化財などについてです。図説の○○ページを開いて下さい。まずは仏像から。このページの仏様のお顔の第一印象はいかがですか。どこか険しい雰囲気があるでしょう。目の形に特色があることはすぐにわかりますね。また台座の布のひだが左右対称で、全体として端正な印象があります。この独特の様式は、北魏様式と呼ばれるもので、4世紀末から6世紀初めにかけて、中国の北半分位置していた北魏という国に特徴的な仏像の様式です。7世紀前半には中国には隋・唐が建国され、日本からも使節や留学生が送られるのですが、隋や唐の文化の影響が日本に及ぶのは、7世紀後半の白鳳文化ですから、時間差があるわけです。
まずは飛鳥寺の釈迦如来像を見て下さい。これはかつての飛鳥寺の本尊で、鞍作鳥(止利仏師)が作ったとされる日本最古の仏像です。『扶桑略記』(ふそうりゃくき)という歴史書にによると、彼の祖父である司馬達等(しばたっと)は、仏教公伝より早い522年に日本に渡来し、仏像を安置して礼拝していたと記されています。「司馬」という名前は、いかにも渡来人ですね。一般にはこれは仏教私伝と呼ばれています。その孫に当たるので、渡来人の子孫であるわけです。独特の目の形は、「杏仁形」(きょうにん)と形容されるのですが、「杏仁」とは何でしょう。「杏」があんずであることは、皆さんの年代ならわかるかもしれませんが、「仁」は難しいかも。これは杏の堅い種の中の柔らかい格の部分のことです。皆さん、食べたことがあるでしょ。「さあ、杏の種を割って中を食べたことなんかありませんよ」。それが皆さん、普段から普通に食べているんですよ。アーモンドのことです。日本語では「扁桃」とも言って、扁桃腺という言葉で知っているはずです。扁桃腺はアーモンドの形に似ているから、そう呼ばれています。杏仁豆腐のことは皆さん御存じでしょ。あれは杏仁を磨りつぶして搾り取ったエキスを、寒天などをまぜて凝固させた物です。「先生、先程きょうにんと読みましたが、あんにんと同じなのですか」。それはね、どっちも正解です。室町時代の公家の日記にも杏仁は登場しています。日本語の旧約聖書には「あめんどう」と記されているのがアーモンドのことですね。もっとも現在一般に出回っているあんずと、専らアーモンドの種を採取するあんずは、同じあんずの仲間でも少し違いますので、日本のあんずの種を割って中から核を取り出すことはできないでしょう。それから唇の形がやや厚ぼったく、「仰月形」と形容され、また口元に独特の微笑む表情があり、「アルカイックスマイル」と呼ばれています。アルカイックとは紀元前8~5世紀のギリシャ美術様式を意味する言葉で、日本語では「古拙」と訳されることがあります。笑っている表情でもないのに、口元だけが微笑んでいるように見える、独特の表情を作る要素となっています。
この北魏様式の仏像としては、飛鳥寺(法興寺)の釈迦如来像の他に、法隆寺金堂の釈迦三尊像や法隆寺夢殿の救世観音像があります。釈迦三尊像は、釈迦像の光背の裏に刻まれた銘文によれば、622年(推古30年)に亡くなった聖徳太子の冥福を祈り、太子等身大で作られたとされています。この解釈には諸説があるのですが、ここでは深入りしないでおきましょう。釈迦三尊像の右にあるのが薬師如来像で、聖徳太子の父である用明天皇が、自らの病気平癒のために発願しながら、果たすことなく崩御されたので、聖徳太子が遺志を継いで作らせたものです。法隆寺の金堂では、仏像がどの様な目的で作られたのか、それを意識しながら参拝してほしいものです。
法隆寺夢殿の救世観音像は、聖徳太子等身大と伝えられています。すると聖徳太子は1.78mの長身ということになってしまうのですが、あくまでも寺の伝承でしょう。この像は長年秘仏とされ、木綿の布でぐるぐる巻きにされ、公開されることがありませんでした。いつからその様になっているのかは確証がありません。江戸時代のかなり早い時期に、一回姿を現したことがあったのですが、再び封印され、明治17年に公開されるまで続いていたそうです。日本の伝統美術を世界に紹介したことで名高いアメリカ人の哲学者フェノロサが、明治政府の許可を得て公開を迫り、祟りを恐れる僧侶を励まして公開させます。布の長さはフェノロサの文章によれば500ヤードというのですから、約450mもあったようです。現れた像をみたフェノロサは、「霊妙な笑い」とか「モナリザの如し」と表現していますが、いかにも欧米人らしい表現です。今も金箔が鮮明に残っているのは、秘仏として保存されていたからです。フェノロサは朝鮮から伝えられたとしていますが、材質は楠ですから、日本で作られたことは確実です。楠は温暖な気候でしか生育しませんから、朝鮮には楠製の像はありません。楠は彫刻しやすく太くなるので、古代の木像にはよく使われています。楠の製材したての厚板をもらったことがあったのですが、室内に置いておくと樟脳の成分が揮発して目が痛くなり、あまりの濃厚さに窓を開ける程でした。要するに香木の一種でもあるわけです。木像の素材として選ばれたのは、この香木であることと関係があるのではないかと思います。今度楠があったら、葉っぱを手の平で揉んで、匂いを嗅いで見て下さい。
ついでのことですが、釈迦三尊像なども、本来はみな金色でした。この像は現在でも秘仏で、春と秋に限られた日数しか拝観できませんから、機会があれば是非無理をしてでも御覧下さい。皆さんにはもう関係ないのですが、受験生にとっては気を付けなければならないことがあります。それは像は飛鳥文化なのですが、夢殿は天平文化なのです。正誤問題ではよく引っかかるところです。
北魏様式に続いて、南梁様式(南朝様式)とされる仏像があります。南梁(梁)という国は6世紀前半に中国の江南地方にあった国なのですが、実際に南梁から仏像の影響があったという確証はなく、厳しい表情の北魏様式と対照的に穏やかな表情なので、北魏に対して同時期の南梁と呼び、そのまま何となく惰性で使い続けているのではないかと思っています。法隆寺の百済観音像がそうなのですが、八頭身のすらりとした立ち姿と、穏やかな表情が特徴的です。寺伝では聖徳太子の本地である虚空蔵菩薩像ということになっていたのですが、冠の様式から、観世音菩薩であることが確認されています。それはそれでよいのですが、百済と何か関係がありそうな名前です。しかし明治時代には「朝鮮風観音像」と呼ばれていたものが、大正時代には「百済観音像」と呼ばれるようになったのであって、百済との直接の関係を示す根拠は何もありません。朝鮮風と言うことを、百済に代表させたものでしょう。この仏像は表面の仕上げは金箔ではなく、漆で彩色されています。また表情も穏やかで、いかにも実在の人間の雰囲気を感じさせます。その辺りが百済観音の魅力の一つなのでしょう。如来は悟りに至って完成された姿ですが、菩薩は悟りに至る修行をしつつも、衆生を救済するために衆生と共に歩んでくれる存在で、我々にとっては如来よりも親しみを感じさせるものとなっています。
次は広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。広隆寺というのはどこにある寺でしたっけ。前回やりましたね。「京都映画村の隣です」。そうですね。よく覚えていました。『日本書紀』には、推古天皇の時に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されていて、その像ではないかという説があります。もちろん確証はないのですが、可能性はあるでしょうね。そもそも「半跏」ってどういう意味でしょう。坐禅をする姿勢は結跏趺坐と言うことでもわかるように、「跏」とはあぐらとか足という意味です。ほら、こうやって両足を組むことです。だから半跏は、ほらこうやって片足を下ろして、もう一方の足を組んでいる姿勢のことです。「思惟」はこの仏様のポーズそのもので、これは問題ないでしょう。それなら何を思惟しているのでしょう。「そんな事がわかるんですか?」。うん、それがわかるんですよ。そもそも弥勒菩薩という仏様は実に不思議な仏なんです。お釈迦様が入滅されてからというもの、この現世には仏が不在になってしまっていると考えられていました。極楽浄土には阿弥陀如来がいても、この現世ではありません。この無仏の時代を現世で衆生を導くのが地蔵菩薩とされ、仏像の中では最も身近で数も多いのです。だからお寺の墓地には、必ずお地蔵様がいるでしょ。そして釈迦入滅後56億7千万年後の未来に、この現世に出現することが予約されているのが弥勒菩薩なのです。いわば未来仏なんですね。その出現する時までは、弥勒菩薩の浄土である兜率天(とそつてん)で修行・説法しているとされています。つまり思惟の姿は、現世に出現したらいかにして衆生を救済しようかとひたすら思案している姿を表現しているのです。弘法大師信仰では、弥勒菩薩が弥勒如来となって現世に出現するとき、空海も共に再臨すると信じられています。ですから高野山では今でも宗祖が生けるが如くに食事をお供えして、56億年後を待っているのです。私の故郷である出羽三山の周辺には、自分も弘法大師のように弥勒下生のお供をしたいと、即身仏になって入定した僧のミイラがいくつもあります。また弥勒如来像という名前の像があるのですが、それは56億年も待ちきれずにいる人々が、弥勒が「如来」となるのを先取りしているわけで、そこに切実な信仰を見て取ることができます。
この広隆寺の弥勒菩薩像ですが、国宝指定第一号です。ただ同じ日に同時に国宝として登録された物の中で、たまたま最初に記されているだけのことですから、No.1の国宝という意味ではありません。それでも一回目の登録に際して選ばれているのですから、それなりのことはあるのでしょう。この仏像は赤松で作られているのですが、日本には赤松で作られた仏像は他にありません。しかし朝鮮にはたくさんある。つまり朝鮮で作られた可能性があります。またソウルの美術館にこれとそっくりな金銅の弥勒像があることも、その可能性のあることを示唆しています。そうだとすると、日本が略奪したなんて言いがかりを付けられかねません。厳重に管理してほしいものです。
半跏思惟姿の弥勒菩薩像は、中宮寺にもあります。中宮寺は尼寺で、現在は創建当時の位置ではなく、法隆寺に隣接しています。この像は楠でできていますから、日本で作られたことは確実です。現在は黒光りしていますが、彩色の痕跡がありますから、かつてはカラフルだったのでしょう。しかし日本人の美意識では、かえって彩色が剥落した姿の方が好みなのでしょう。写真では確認できませんが、腕や額に釘の穴があることから、かつては色々な装飾具を身に付けていたとのことです。まだ如来になりきっていない菩薩には、さまざまな装飾具があること。完全な悟りに至った如来は、大日如来は別として、装飾具を身に付けていないことは覚えておいて下さい。如来は自分自身を飾るということをもう超越してしまった存在なのです。耳のすぐ後ろには、蕨のようななだらかな頭髪があるのがわかりますか。なかなかお洒落ですね。頭髪も如来のように螺髪になっていません。この際、菩薩と如来の違いを覚えておきましょう。
中宮寺には、もう一つ、天寿国繍帳という重要な文化財があります。推古天皇29年、西暦621年12月21日、聖徳太子の母が亡くなり、翌年2月、病で倒れた聖徳太子を看病していた妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が2月21日に亡くなり、翌22日には太子自身も亡くなってしまいました。(「上宮聖徳法王帝説」による)。これを悲しんだ太子の妃の橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)に、太子の往生した天寿国の様子を知りたいと訴え、推古天皇が采女に命じて刺繍させた帳、つまり大きなカーテンのような物です。つまり聖徳太子の死を契機として作られたのです。下絵を描いたのは東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)で、いずれもその名前から渡来系氏族出身であることがわかります。ですからそこに縫い取られた人の服装も、朝鮮の影響が濃厚なのです。高松塚古墳の壁画に描かれた女性の服装と同じであることを確認してみて下さい。
私が個人的に面白いと思っているのは、左上の隅に、兎のいる月が見えることです。兎の他には長頸の壺と木が見えるでしょう。この木は月に生えている桂の木、つまり月桂樹ですね。壺の中には不老長寿の仙薬が入っているのでしょう。月は不老不死の常世の世界であるという理解は、『万葉集』にもありますし、平安時代の『竹取物語』にも見られることは誰もが知っているでしょう。月に兎がいるという理解は、中国の戦国時代後期、南方にあった楚の国の歌謡を集めた『楚辞』に見られますから、かなり古いものです。また唐代には月桂樹の左右に兎と蟾蜍(ひきがえる)を描いた月宮鏡がたくさん作られていて、兎は竪杵と臼で不老長寿の仙薬を作っています。天寿国繍帳では臼ではありませんが、仙薬が入っていると見て間違いないでしょう。「先生、兎は餅を搗いているのではないのですか?」。それはですね、十五夜の満月は望月(もちづき)と言いますが、そこからの連想で、餅を搗いているというように、日本的に変容したのです。15日に餅入りの小豆粥を食べる風習は、確か平安時代には始まっているはずです。月に兎がいるという理解は、皆さんなら平安時代末期の『今昔物語集』に、兎と猿と狐が老人を介抱し、兎が焚き火に飛び込んで死んで仕舞うと、その老人、実は帝釈天なのですが、兎を連れて月に昇り、その姿を留めたという話があることは御存じでしょう。作られた時には縦2m、横4mの帳が2枚あったのですが、現在は断片しか残って居ません。
文化財を見る時の心得なのですが、わかる限りでよいですから、それが作られたり伝えられたりした背景を理解して見るべきであると思います。法隆寺金堂の釈迦三尊像も聖徳太子の死を契機に造られた物でした。それを知って見るならば、仏様のお顔が、聖徳太子のイメージにつながって見えることでしょう。天寿国繍帳ならば、聖徳太子の母、妃、そして太子自身が連続して亡くなったこと、さらにもう一人の妃が太子を偲んで作らせたことを踏まえて見て欲しいのです。大学受験には関係ない話なのですが、私は普段の授業では常にそこまで踏み込んで語ります。
「先生、突然ですが、梅原猛の『隠された十字架』の話は、どうお考えですか」。ああ、私がまだ大学院の一年生の頃のことで、授業でも話題になりましたよ。法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたという説でしたね。私の指導教授は文化勲章ももらい、歴史学会の会長をも務めた坂本太郎という先生でしたが、全く相手にしていませんでしたね。論評の対象外といった感じでした。厳密な史料批判によって知られていた先生でしたから、推論の積み重ねによる主張は、学問ではなかったようです。話としては面白いのでしょうが・・・・。坂本先生の弟子の端くれだからというわけではありませんが、私も同感です。
天寿国繍帳の話が出たので、それ以外の工芸品について見ましょうか。玉虫の厨子の写真を見て下さい。そもそも厨子とは何でしょう。仏像やそれに準ずる大切な仏具を収める仏具で、いわゆる仏壇も厨子の一種でしょうね。玉虫の厨子と呼ばれるのは、透かし彫り装飾の下に、透けて見えるように玉虫の翅が敷き詰められているからです。最近は玉虫もすっかり見なくなりましたね。私は学生時代に遺跡の発掘をたくさん経験しているんですが、甲虫の翅は、千年以上たっていても、まるで活きている時のように鮮やかな色を保っているので驚いたものです。「先生、虫の翅も発掘品なんですか?」。もちろんそうですよ。大切に保管します。そういうものも当時の気候や自然環境を推定する材料になるのですから、決して捨てたりしないんです。
複製が作られているのですが、その際に約5千匹の玉虫の翅が集められたそうです。
玉虫の厨子では、下半分の須弥座と呼ばれる部分に描かれた漆絵がよく知られています。右側面の捨身飼虎(しゃしんしこ)と左側面の施身聞偈(せしんもんげ)ですね。いずれも説話の主題が描かれているのですが、捨身飼虎は、釈迦が前世で王子だった時、飢えた母子の虎に自らの肉体を与えて養ったという話です。まあ究極の菩薩業ということでしょう。施身聞偈も釈迦が前世でバラモン僧であった時の話なのですが、羅刹(らせつ)という鬼神が「諸行無常 是生滅法」という悟りの言葉の前半分を唱えるのを聞いて、残りの後半を教えて欲しいと頼みます。すると羅刹はそれを聞くと死んでしまうと言うのですが、命は惜しくないので聞きたいと言い、「生滅滅已 寂滅為楽」という言葉を教えてもらいます。そしてそれを後世の人のために岩に書き付けて、もし聞くことが出来れば命は惜しくない、といい、残りの二句、生滅滅已 寂滅為楽を聞いて岩に書き付け、羅刹に命を預けるために飛び降りる場面です。「施身聞偈」は「身を施して偈を聞く」と読むのですが、偈とは仏の教えを詩的に表現する言葉のことです。禅宗で悟りに至った境地を表す言葉も偈と呼ばれます。要するに玉虫の厨子の絵は、仏の説く真理の一つを、視覚的に表現しているのです。
上半分は建築学的史料としても重要です。屋根の形は法隆寺金堂とよく似ていますね。金堂の屋根は入母屋造りで、厨子の屋根は入母屋造りによく似てはいますが、前後になだらかに傾斜する屋根が二つの部分に分けられていて、これを錣葺き(しころぶき)と言うのですが、微妙に違っています。しかしあまり細かいことは気にしなくてよいでしょう。
以上の他の仏教文化としては、聖徳太子が著したという経典の注釈書があります。法華経・維摩経(ゆいまきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)の注釈書で、それぞれ『法華義疏』『維摩義疏』『勝鬘経義疏』セットで「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)と呼ばれています。そのうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆の可能性が高く、とても貴重な物です。かなりの部分が中国で既に著されていた法華経の注釈書を写したものなのですが、独自の理解もあり、聖徳太子の仏教についての造詣の深さには驚嘆するばかりです。
「先生は盛んに聖徳太子という言葉を使っていますが、今の教科書には聖徳太子ではなく、厩戸王となっているそうですね」。そうなんですよ。でもね、皆さんは私と同年代ですから、聖徳太子の方がピンと来ると思いますので。確かに聖徳太子という呼称は、在世中にはありません。奈良時代になってからのことです。だから聖徳太子という名前を使ってはいけないというのですが、私はそこに悪意さえ感じてしまうのです。在世中にはなかったというなら、推古天皇だって同じことではありませんか。推古天皇は自分が推古と呼ばれることは知らないんですから。豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)が在世中の名前であって、推古という中国風の名前は、淡海三船という皇族出身の学者が、奈良時代の半ばに定めたものですよ。在世中にはなかった名前で教科書に載っているのに、聖徳太子はいけないなんて、おかしいと思いませんか。他の天皇も同じです。もっとも後白河や後醍醐天皇は、自分でわかっていたのですが。中には聖徳太子は実在しなかったという説まであります。推古朝の諸政策が全て聖徳太子によって推進されたとまでは思いませんが、あまりにも公平を欠いた主張だと思います。
この時代に、後の文化に大きな影響を与える新技術と言いましょうか、新知識が朝鮮からもたらされています。百済僧観勒が暦法を伝え、高句麗層曇徵が絵具・墨・紙の技術を伝えました。欽明天皇の時に歴博士が来日していますし、稲荷山古墳の鉄剣でも明らかなように、干支の知識は早くから伝えられていましたから、この時初めて伝えられたわけではありません。しかしかなりまとまった体系的な知識が伝えられたのでしょう。聖徳太子と蘇我馬子が歴史書を編纂したと『日本書紀』に記されていますが、暦の知識なしには歴史書の編纂など不可能なことです。
時間がオーバーしていますが、前回の話で忘れてしまった大切なお話をします。それは木造建築の製材法についてです。法隆寺の回廊の円柱列は整然としてなかなか美しいものですが、円柱一本を製材するのに、直径何㎝の原木が必要でしょう。例えば直径30㎝の円柱ならば、どれくらいの太さの原木でしょう。「40㎝もあればいいかと思いますが?」。そう思うのが自然でしょうね。ところが1mは必要なのです。切り倒した丸太をそのまま使うと、収縮変形してしてひびが入ってしまうことはわかりますね。柱の中心部に原木の中心部があるとそうなってしまうのです。そのため乾燥による収縮や変形を防ぐには、製材された木材に、原木の芯が来ないように製材をしなければなりません。そのような材木を芯去り材、それに対して芯のあるものを芯持ち材といいます。すると芯去り材で直径30㎝の円柱を製材するには、直径1mの丸太を縦に四等分して断面が扇形の材を採り、それを手間をかけて円柱に削り出してゆくのです。つまり直径1mの大木から、直径30㎝の円柱を4本削り出すのです。ですから法隆寺の柱を見たら、その直径の3.5倍の太さの原木であったと思って下さい。このこと一つ知っていても、古建築の見方が変わるはずです。いいですか、その様な手間の掛かる造作を、機械を使わずに手仕事でやったんですよ。とてつもないことだと思いませんか。今度是非法隆寺に行って、柱を撫でながら味わってみて下さいね。ああそれからね、その円柱は中程が太くなっていて、ギリシャのパルテノン神殿のエンタシスの柱の影響であると説かれることが多いのですが、私は賛同しません。だって、ギリシャと日本の間を埋める資料がないのです。最初と最後だけ似ているからと言って、一気につなぐのには無理があります。そのような説が流布する原因を作った一人は、『古寺巡礼』の著者の和辻哲郎なのですが、歴史学者としては、私は信用してはいません。時間がなくなって最後ははしょってしまい申し訳ありません。もう一度法隆寺へ行きたくなったでしょ。
まずは飛鳥寺の釈迦如来像を見て下さい。これはかつての飛鳥寺の本尊で、鞍作鳥(止利仏師)が作ったとされる日本最古の仏像です。『扶桑略記』(ふそうりゃくき)という歴史書にによると、彼の祖父である司馬達等(しばたっと)は、仏教公伝より早い522年に日本に渡来し、仏像を安置して礼拝していたと記されています。「司馬」という名前は、いかにも渡来人ですね。一般にはこれは仏教私伝と呼ばれています。その孫に当たるので、渡来人の子孫であるわけです。独特の目の形は、「杏仁形」(きょうにん)と形容されるのですが、「杏仁」とは何でしょう。「杏」があんずであることは、皆さんの年代ならわかるかもしれませんが、「仁」は難しいかも。これは杏の堅い種の中の柔らかい格の部分のことです。皆さん、食べたことがあるでしょ。「さあ、杏の種を割って中を食べたことなんかありませんよ」。それが皆さん、普段から普通に食べているんですよ。アーモンドのことです。日本語では「扁桃」とも言って、扁桃腺という言葉で知っているはずです。扁桃腺はアーモンドの形に似ているから、そう呼ばれています。杏仁豆腐のことは皆さん御存じでしょ。あれは杏仁を磨りつぶして搾り取ったエキスを、寒天などをまぜて凝固させた物です。「先生、先程きょうにんと読みましたが、あんにんと同じなのですか」。それはね、どっちも正解です。室町時代の公家の日記にも杏仁は登場しています。日本語の旧約聖書には「あめんどう」と記されているのがアーモンドのことですね。もっとも現在一般に出回っているあんずと、専らアーモンドの種を採取するあんずは、同じあんずの仲間でも少し違いますので、日本のあんずの種を割って中から核を取り出すことはできないでしょう。それから唇の形がやや厚ぼったく、「仰月形」と形容され、また口元に独特の微笑む表情があり、「アルカイックスマイル」と呼ばれています。アルカイックとは紀元前8~5世紀のギリシャ美術様式を意味する言葉で、日本語では「古拙」と訳されることがあります。笑っている表情でもないのに、口元だけが微笑んでいるように見える、独特の表情を作る要素となっています。
この北魏様式の仏像としては、飛鳥寺(法興寺)の釈迦如来像の他に、法隆寺金堂の釈迦三尊像や法隆寺夢殿の救世観音像があります。釈迦三尊像は、釈迦像の光背の裏に刻まれた銘文によれば、622年(推古30年)に亡くなった聖徳太子の冥福を祈り、太子等身大で作られたとされています。この解釈には諸説があるのですが、ここでは深入りしないでおきましょう。釈迦三尊像の右にあるのが薬師如来像で、聖徳太子の父である用明天皇が、自らの病気平癒のために発願しながら、果たすことなく崩御されたので、聖徳太子が遺志を継いで作らせたものです。法隆寺の金堂では、仏像がどの様な目的で作られたのか、それを意識しながら参拝してほしいものです。
法隆寺夢殿の救世観音像は、聖徳太子等身大と伝えられています。すると聖徳太子は1.78mの長身ということになってしまうのですが、あくまでも寺の伝承でしょう。この像は長年秘仏とされ、木綿の布でぐるぐる巻きにされ、公開されることがありませんでした。いつからその様になっているのかは確証がありません。江戸時代のかなり早い時期に、一回姿を現したことがあったのですが、再び封印され、明治17年に公開されるまで続いていたそうです。日本の伝統美術を世界に紹介したことで名高いアメリカ人の哲学者フェノロサが、明治政府の許可を得て公開を迫り、祟りを恐れる僧侶を励まして公開させます。布の長さはフェノロサの文章によれば500ヤードというのですから、約450mもあったようです。現れた像をみたフェノロサは、「霊妙な笑い」とか「モナリザの如し」と表現していますが、いかにも欧米人らしい表現です。今も金箔が鮮明に残っているのは、秘仏として保存されていたからです。フェノロサは朝鮮から伝えられたとしていますが、材質は楠ですから、日本で作られたことは確実です。楠は温暖な気候でしか生育しませんから、朝鮮には楠製の像はありません。楠は彫刻しやすく太くなるので、古代の木像にはよく使われています。楠の製材したての厚板をもらったことがあったのですが、室内に置いておくと樟脳の成分が揮発して目が痛くなり、あまりの濃厚さに窓を開ける程でした。要するに香木の一種でもあるわけです。木像の素材として選ばれたのは、この香木であることと関係があるのではないかと思います。今度楠があったら、葉っぱを手の平で揉んで、匂いを嗅いで見て下さい。
ついでのことですが、釈迦三尊像なども、本来はみな金色でした。この像は現在でも秘仏で、春と秋に限られた日数しか拝観できませんから、機会があれば是非無理をしてでも御覧下さい。皆さんにはもう関係ないのですが、受験生にとっては気を付けなければならないことがあります。それは像は飛鳥文化なのですが、夢殿は天平文化なのです。正誤問題ではよく引っかかるところです。
北魏様式に続いて、南梁様式(南朝様式)とされる仏像があります。南梁(梁)という国は6世紀前半に中国の江南地方にあった国なのですが、実際に南梁から仏像の影響があったという確証はなく、厳しい表情の北魏様式と対照的に穏やかな表情なので、北魏に対して同時期の南梁と呼び、そのまま何となく惰性で使い続けているのではないかと思っています。法隆寺の百済観音像がそうなのですが、八頭身のすらりとした立ち姿と、穏やかな表情が特徴的です。寺伝では聖徳太子の本地である虚空蔵菩薩像ということになっていたのですが、冠の様式から、観世音菩薩であることが確認されています。それはそれでよいのですが、百済と何か関係がありそうな名前です。しかし明治時代には「朝鮮風観音像」と呼ばれていたものが、大正時代には「百済観音像」と呼ばれるようになったのであって、百済との直接の関係を示す根拠は何もありません。朝鮮風と言うことを、百済に代表させたものでしょう。この仏像は表面の仕上げは金箔ではなく、漆で彩色されています。また表情も穏やかで、いかにも実在の人間の雰囲気を感じさせます。その辺りが百済観音の魅力の一つなのでしょう。如来は悟りに至って完成された姿ですが、菩薩は悟りに至る修行をしつつも、衆生を救済するために衆生と共に歩んでくれる存在で、我々にとっては如来よりも親しみを感じさせるものとなっています。
次は広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。広隆寺というのはどこにある寺でしたっけ。前回やりましたね。「京都映画村の隣です」。そうですね。よく覚えていました。『日本書紀』には、推古天皇の時に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されていて、その像ではないかという説があります。もちろん確証はないのですが、可能性はあるでしょうね。そもそも「半跏」ってどういう意味でしょう。坐禅をする姿勢は結跏趺坐と言うことでもわかるように、「跏」とはあぐらとか足という意味です。ほら、こうやって両足を組むことです。だから半跏は、ほらこうやって片足を下ろして、もう一方の足を組んでいる姿勢のことです。「思惟」はこの仏様のポーズそのもので、これは問題ないでしょう。それなら何を思惟しているのでしょう。「そんな事がわかるんですか?」。うん、それがわかるんですよ。そもそも弥勒菩薩という仏様は実に不思議な仏なんです。お釈迦様が入滅されてからというもの、この現世には仏が不在になってしまっていると考えられていました。極楽浄土には阿弥陀如来がいても、この現世ではありません。この無仏の時代を現世で衆生を導くのが地蔵菩薩とされ、仏像の中では最も身近で数も多いのです。だからお寺の墓地には、必ずお地蔵様がいるでしょ。そして釈迦入滅後56億7千万年後の未来に、この現世に出現することが予約されているのが弥勒菩薩なのです。いわば未来仏なんですね。その出現する時までは、弥勒菩薩の浄土である兜率天(とそつてん)で修行・説法しているとされています。つまり思惟の姿は、現世に出現したらいかにして衆生を救済しようかとひたすら思案している姿を表現しているのです。弘法大師信仰では、弥勒菩薩が弥勒如来となって現世に出現するとき、空海も共に再臨すると信じられています。ですから高野山では今でも宗祖が生けるが如くに食事をお供えして、56億年後を待っているのです。私の故郷である出羽三山の周辺には、自分も弘法大師のように弥勒下生のお供をしたいと、即身仏になって入定した僧のミイラがいくつもあります。また弥勒如来像という名前の像があるのですが、それは56億年も待ちきれずにいる人々が、弥勒が「如来」となるのを先取りしているわけで、そこに切実な信仰を見て取ることができます。
この広隆寺の弥勒菩薩像ですが、国宝指定第一号です。ただ同じ日に同時に国宝として登録された物の中で、たまたま最初に記されているだけのことですから、No.1の国宝という意味ではありません。それでも一回目の登録に際して選ばれているのですから、それなりのことはあるのでしょう。この仏像は赤松で作られているのですが、日本には赤松で作られた仏像は他にありません。しかし朝鮮にはたくさんある。つまり朝鮮で作られた可能性があります。またソウルの美術館にこれとそっくりな金銅の弥勒像があることも、その可能性のあることを示唆しています。そうだとすると、日本が略奪したなんて言いがかりを付けられかねません。厳重に管理してほしいものです。
半跏思惟姿の弥勒菩薩像は、中宮寺にもあります。中宮寺は尼寺で、現在は創建当時の位置ではなく、法隆寺に隣接しています。この像は楠でできていますから、日本で作られたことは確実です。現在は黒光りしていますが、彩色の痕跡がありますから、かつてはカラフルだったのでしょう。しかし日本人の美意識では、かえって彩色が剥落した姿の方が好みなのでしょう。写真では確認できませんが、腕や額に釘の穴があることから、かつては色々な装飾具を身に付けていたとのことです。まだ如来になりきっていない菩薩には、さまざまな装飾具があること。完全な悟りに至った如来は、大日如来は別として、装飾具を身に付けていないことは覚えておいて下さい。如来は自分自身を飾るということをもう超越してしまった存在なのです。耳のすぐ後ろには、蕨のようななだらかな頭髪があるのがわかりますか。なかなかお洒落ですね。頭髪も如来のように螺髪になっていません。この際、菩薩と如来の違いを覚えておきましょう。
中宮寺には、もう一つ、天寿国繍帳という重要な文化財があります。推古天皇29年、西暦621年12月21日、聖徳太子の母が亡くなり、翌年2月、病で倒れた聖徳太子を看病していた妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が2月21日に亡くなり、翌22日には太子自身も亡くなってしまいました。(「上宮聖徳法王帝説」による)。これを悲しんだ太子の妃の橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)に、太子の往生した天寿国の様子を知りたいと訴え、推古天皇が采女に命じて刺繍させた帳、つまり大きなカーテンのような物です。つまり聖徳太子の死を契機として作られたのです。下絵を描いたのは東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)で、いずれもその名前から渡来系氏族出身であることがわかります。ですからそこに縫い取られた人の服装も、朝鮮の影響が濃厚なのです。高松塚古墳の壁画に描かれた女性の服装と同じであることを確認してみて下さい。
私が個人的に面白いと思っているのは、左上の隅に、兎のいる月が見えることです。兎の他には長頸の壺と木が見えるでしょう。この木は月に生えている桂の木、つまり月桂樹ですね。壺の中には不老長寿の仙薬が入っているのでしょう。月は不老不死の常世の世界であるという理解は、『万葉集』にもありますし、平安時代の『竹取物語』にも見られることは誰もが知っているでしょう。月に兎がいるという理解は、中国の戦国時代後期、南方にあった楚の国の歌謡を集めた『楚辞』に見られますから、かなり古いものです。また唐代には月桂樹の左右に兎と蟾蜍(ひきがえる)を描いた月宮鏡がたくさん作られていて、兎は竪杵と臼で不老長寿の仙薬を作っています。天寿国繍帳では臼ではありませんが、仙薬が入っていると見て間違いないでしょう。「先生、兎は餅を搗いているのではないのですか?」。それはですね、十五夜の満月は望月(もちづき)と言いますが、そこからの連想で、餅を搗いているというように、日本的に変容したのです。15日に餅入りの小豆粥を食べる風習は、確か平安時代には始まっているはずです。月に兎がいるという理解は、皆さんなら平安時代末期の『今昔物語集』に、兎と猿と狐が老人を介抱し、兎が焚き火に飛び込んで死んで仕舞うと、その老人、実は帝釈天なのですが、兎を連れて月に昇り、その姿を留めたという話があることは御存じでしょう。作られた時には縦2m、横4mの帳が2枚あったのですが、現在は断片しか残って居ません。
文化財を見る時の心得なのですが、わかる限りでよいですから、それが作られたり伝えられたりした背景を理解して見るべきであると思います。法隆寺金堂の釈迦三尊像も聖徳太子の死を契機に造られた物でした。それを知って見るならば、仏様のお顔が、聖徳太子のイメージにつながって見えることでしょう。天寿国繍帳ならば、聖徳太子の母、妃、そして太子自身が連続して亡くなったこと、さらにもう一人の妃が太子を偲んで作らせたことを踏まえて見て欲しいのです。大学受験には関係ない話なのですが、私は普段の授業では常にそこまで踏み込んで語ります。
「先生、突然ですが、梅原猛の『隠された十字架』の話は、どうお考えですか」。ああ、私がまだ大学院の一年生の頃のことで、授業でも話題になりましたよ。法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたという説でしたね。私の指導教授は文化勲章ももらい、歴史学会の会長をも務めた坂本太郎という先生でしたが、全く相手にしていませんでしたね。論評の対象外といった感じでした。厳密な史料批判によって知られていた先生でしたから、推論の積み重ねによる主張は、学問ではなかったようです。話としては面白いのでしょうが・・・・。坂本先生の弟子の端くれだからというわけではありませんが、私も同感です。
天寿国繍帳の話が出たので、それ以外の工芸品について見ましょうか。玉虫の厨子の写真を見て下さい。そもそも厨子とは何でしょう。仏像やそれに準ずる大切な仏具を収める仏具で、いわゆる仏壇も厨子の一種でしょうね。玉虫の厨子と呼ばれるのは、透かし彫り装飾の下に、透けて見えるように玉虫の翅が敷き詰められているからです。最近は玉虫もすっかり見なくなりましたね。私は学生時代に遺跡の発掘をたくさん経験しているんですが、甲虫の翅は、千年以上たっていても、まるで活きている時のように鮮やかな色を保っているので驚いたものです。「先生、虫の翅も発掘品なんですか?」。もちろんそうですよ。大切に保管します。そういうものも当時の気候や自然環境を推定する材料になるのですから、決して捨てたりしないんです。
複製が作られているのですが、その際に約5千匹の玉虫の翅が集められたそうです。
玉虫の厨子では、下半分の須弥座と呼ばれる部分に描かれた漆絵がよく知られています。右側面の捨身飼虎(しゃしんしこ)と左側面の施身聞偈(せしんもんげ)ですね。いずれも説話の主題が描かれているのですが、捨身飼虎は、釈迦が前世で王子だった時、飢えた母子の虎に自らの肉体を与えて養ったという話です。まあ究極の菩薩業ということでしょう。施身聞偈も釈迦が前世でバラモン僧であった時の話なのですが、羅刹(らせつ)という鬼神が「諸行無常 是生滅法」という悟りの言葉の前半分を唱えるのを聞いて、残りの後半を教えて欲しいと頼みます。すると羅刹はそれを聞くと死んでしまうと言うのですが、命は惜しくないので聞きたいと言い、「生滅滅已 寂滅為楽」という言葉を教えてもらいます。そしてそれを後世の人のために岩に書き付けて、もし聞くことが出来れば命は惜しくない、といい、残りの二句、生滅滅已 寂滅為楽を聞いて岩に書き付け、羅刹に命を預けるために飛び降りる場面です。「施身聞偈」は「身を施して偈を聞く」と読むのですが、偈とは仏の教えを詩的に表現する言葉のことです。禅宗で悟りに至った境地を表す言葉も偈と呼ばれます。要するに玉虫の厨子の絵は、仏の説く真理の一つを、視覚的に表現しているのです。
上半分は建築学的史料としても重要です。屋根の形は法隆寺金堂とよく似ていますね。金堂の屋根は入母屋造りで、厨子の屋根は入母屋造りによく似てはいますが、前後になだらかに傾斜する屋根が二つの部分に分けられていて、これを錣葺き(しころぶき)と言うのですが、微妙に違っています。しかしあまり細かいことは気にしなくてよいでしょう。
以上の他の仏教文化としては、聖徳太子が著したという経典の注釈書があります。法華経・維摩経(ゆいまきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)の注釈書で、それぞれ『法華義疏』『維摩義疏』『勝鬘経義疏』セットで「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)と呼ばれています。そのうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆の可能性が高く、とても貴重な物です。かなりの部分が中国で既に著されていた法華経の注釈書を写したものなのですが、独自の理解もあり、聖徳太子の仏教についての造詣の深さには驚嘆するばかりです。
「先生は盛んに聖徳太子という言葉を使っていますが、今の教科書には聖徳太子ではなく、厩戸王となっているそうですね」。そうなんですよ。でもね、皆さんは私と同年代ですから、聖徳太子の方がピンと来ると思いますので。確かに聖徳太子という呼称は、在世中にはありません。奈良時代になってからのことです。だから聖徳太子という名前を使ってはいけないというのですが、私はそこに悪意さえ感じてしまうのです。在世中にはなかったというなら、推古天皇だって同じことではありませんか。推古天皇は自分が推古と呼ばれることは知らないんですから。豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)が在世中の名前であって、推古という中国風の名前は、淡海三船という皇族出身の学者が、奈良時代の半ばに定めたものですよ。在世中にはなかった名前で教科書に載っているのに、聖徳太子はいけないなんて、おかしいと思いませんか。他の天皇も同じです。もっとも後白河や後醍醐天皇は、自分でわかっていたのですが。中には聖徳太子は実在しなかったという説まであります。推古朝の諸政策が全て聖徳太子によって推進されたとまでは思いませんが、あまりにも公平を欠いた主張だと思います。
この時代に、後の文化に大きな影響を与える新技術と言いましょうか、新知識が朝鮮からもたらされています。百済僧観勒が暦法を伝え、高句麗層曇徵が絵具・墨・紙の技術を伝えました。欽明天皇の時に歴博士が来日していますし、稲荷山古墳の鉄剣でも明らかなように、干支の知識は早くから伝えられていましたから、この時初めて伝えられたわけではありません。しかしかなりまとまった体系的な知識が伝えられたのでしょう。聖徳太子と蘇我馬子が歴史書を編纂したと『日本書紀』に記されていますが、暦の知識なしには歴史書の編纂など不可能なことです。
時間がオーバーしていますが、前回の話で忘れてしまった大切なお話をします。それは木造建築の製材法についてです。法隆寺の回廊の円柱列は整然としてなかなか美しいものですが、円柱一本を製材するのに、直径何㎝の原木が必要でしょう。例えば直径30㎝の円柱ならば、どれくらいの太さの原木でしょう。「40㎝もあればいいかと思いますが?」。そう思うのが自然でしょうね。ところが1mは必要なのです。切り倒した丸太をそのまま使うと、収縮変形してしてひびが入ってしまうことはわかりますね。柱の中心部に原木の中心部があるとそうなってしまうのです。そのため乾燥による収縮や変形を防ぐには、製材された木材に、原木の芯が来ないように製材をしなければなりません。そのような材木を芯去り材、それに対して芯のあるものを芯持ち材といいます。すると芯去り材で直径30㎝の円柱を製材するには、直径1mの丸太を縦に四等分して断面が扇形の材を採り、それを手間をかけて円柱に削り出してゆくのです。つまり直径1mの大木から、直径30㎝の円柱を4本削り出すのです。ですから法隆寺の柱を見たら、その直径の3.5倍の太さの原木であったと思って下さい。このこと一つ知っていても、古建築の見方が変わるはずです。いいですか、その様な手間の掛かる造作を、機械を使わずに手仕事でやったんですよ。とてつもないことだと思いませんか。今度是非法隆寺に行って、柱を撫でながら味わってみて下さいね。ああそれからね、その円柱は中程が太くなっていて、ギリシャのパルテノン神殿のエンタシスの柱の影響であると説かれることが多いのですが、私は賛同しません。だって、ギリシャと日本の間を埋める資料がないのです。最初と最後だけ似ているからと言って、一気につなぐのには無理があります。そのような説が流布する原因を作った一人は、『古寺巡礼』の著者の和辻哲郎なのですが、歴史学者としては、私は信用してはいません。時間がなくなって最後ははしょってしまい申し訳ありません。もう一度法隆寺へ行きたくなったでしょ。