七夕にはどんな物語があったの?
星祭である七夕には、牽牛星(日本名は彦星)と織女星(日本名は織姫星)の二つの星が主役となる物語が伝えられています。物語の要素はみな中国伝来のものですが、中国でも長い年月をかけて、現在知られている物語に成長していったのです。
まず紀元前9~7世紀の詩を集めた『詩経』(しきょう)という書物には、「織女は一日に七回も織機にすわっても、文様を織ることができない。牽牛も車を牽(ひ)かない」という詩が詠まれています。紀元前4~3世紀の詩文を集めた『文選』(もんぜん)という書物には、「牽牛星と織女星は輝いているが、織女星は(牽牛星を恋しく思うあまりに)一日織っても文様ができずに涙が流れる。天の川は浅く清いけれども、(川に隔てられて)二人は会うことができず、語ることもできない」と記されていて、話が少し具体的になりつつあります。紀元前2世紀の『淮南子』(えなんじ)という書物には、織女が鵲(かささぎ)の橋を渡って牽牛に会うと記されています。6世紀の『荊楚歳時記』(けいそさいじき)には、七月七日には天帝の孫である織女が天の川で牽牛と会うこと。牽牛が織女を娶(めとった)ったこと。また織女が瓜(うり)を掌ることが記されています。そして、明代の『月令広義』(がつりょうこうぎ・げつりょうこうぎ)という書物には、6世紀の梁(りょう)という国の殷芸(いんうん)が著した『小説』という書物が引用されていてるのですが、それには現代の人が知っている七夕の物語がほぼ出そろっています。それによれば、「天の川の東に天帝の娘の織女がいて、忙しく機織りをしていた。天帝は独身であることを憐れんで、川の西の牽牛と結婚させた。しかし機織りをしなくなったので、天帝は怒って川の東に帰らせ、一年一度だけ会うことを許した」というのです。中国では千年以上もかかって少しずつ物語らしく形を整えてきたことがわかります。
このような物語は7世紀には日本に伝えられていました。『日本書紀』に記されている持統天皇五年(691)の七月七日の宴が日本最初の七夕の行事である可能性がありますし、『万葉集』(2033)には柿本人麻呂が680年に詠んだ七夕の歌があり、そのことを裏付けています。『万葉集』には約130首の七夕の歌があるのですが、織女と牽牛の年に一度の出会いに自分の恋を重ね、恋の歌として詠まれたものがほとんどで、中国伝来の七夕の物語が早くから広く知られていたことがわかります。
一方、年中行事の解説書には、中国伝来の風習と日本古来の「棚機津女伝説」(たなばたつめでんせつ)が混ざり合って、日本の七夕の風習が形作られたと説明されています。それによれば、「棚機津女伝説」はおよそ次のように説明されています。「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊(みそぎ)を行い、罪穢(つみけがれ)をはらう。」というように、なかな具体的なのです。
中国から七夕の風習が伝えられたのは7世紀のことでが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』を初めとする古い文献には、「棚機津女伝説」に説かれている具体的な内容を物語る根拠は全く記されていません。伝説があったと言われるかもしれませんが、伝説があったという根拠もなく、仮にあったとしても、伝説ではいつまでさかのぼれるかが検証できないのです。
「棚機津女伝説」は現代になってから一部の民俗学者が主張し始めたことなのですが、あくまでも詩的な仮説であり、再検証できないために歴史学的には全く認められていません。ただ中国から七夕の風習が伝えられるより早く、日本には布を織ることに関係する「タナバタ」と呼ばれるものがあったのは事実です。『万葉集』では「七夕」を「タナバタ」、「織女」を「タナバタ」「タナバタツメ」と読ませている歌があり、「タナバタ」という特別な女性の織り手が、日本独自に存在したことは認められます。それがあったからこそ、「たなばた」とは読みようがない「七夕」という漢語に、「タナバタ」という訓が与えられたのです。ここには中国七夕伝説と日本の「たなばた」が混じり合っていることを確認することができます。しかしそれ以上のこととなると、残念ながら全く手掛かりがありません。実際には「棚機津女伝説」は、全く想像上の産物でしかないのです。
長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。私の余生もそう長くはないので、今のうちに正しいことを明らかにしておかなければ、日本の伝統行事は間違っていることが既成事実化されてしまうと思います。これから一年間にわたり、少しずつ公表していくつもりです。
これだけのことを自身をもって言うからには、私が書いている内容については、どれも確かな文献的根拠があります。子供を対象にしているので、いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。今後とも宜しくお願いします。いずれ出版したいとは思っているのですが、大金のかかることですので、どうなりますことやら・・・・。
星祭である七夕には、牽牛星(日本名は彦星)と織女星(日本名は織姫星)の二つの星が主役となる物語が伝えられています。物語の要素はみな中国伝来のものですが、中国でも長い年月をかけて、現在知られている物語に成長していったのです。
まず紀元前9~7世紀の詩を集めた『詩経』(しきょう)という書物には、「織女は一日に七回も織機にすわっても、文様を織ることができない。牽牛も車を牽(ひ)かない」という詩が詠まれています。紀元前4~3世紀の詩文を集めた『文選』(もんぜん)という書物には、「牽牛星と織女星は輝いているが、織女星は(牽牛星を恋しく思うあまりに)一日織っても文様ができずに涙が流れる。天の川は浅く清いけれども、(川に隔てられて)二人は会うことができず、語ることもできない」と記されていて、話が少し具体的になりつつあります。紀元前2世紀の『淮南子』(えなんじ)という書物には、織女が鵲(かささぎ)の橋を渡って牽牛に会うと記されています。6世紀の『荊楚歳時記』(けいそさいじき)には、七月七日には天帝の孫である織女が天の川で牽牛と会うこと。牽牛が織女を娶(めとった)ったこと。また織女が瓜(うり)を掌ることが記されています。そして、明代の『月令広義』(がつりょうこうぎ・げつりょうこうぎ)という書物には、6世紀の梁(りょう)という国の殷芸(いんうん)が著した『小説』という書物が引用されていてるのですが、それには現代の人が知っている七夕の物語がほぼ出そろっています。それによれば、「天の川の東に天帝の娘の織女がいて、忙しく機織りをしていた。天帝は独身であることを憐れんで、川の西の牽牛と結婚させた。しかし機織りをしなくなったので、天帝は怒って川の東に帰らせ、一年一度だけ会うことを許した」というのです。中国では千年以上もかかって少しずつ物語らしく形を整えてきたことがわかります。
このような物語は7世紀には日本に伝えられていました。『日本書紀』に記されている持統天皇五年(691)の七月七日の宴が日本最初の七夕の行事である可能性がありますし、『万葉集』(2033)には柿本人麻呂が680年に詠んだ七夕の歌があり、そのことを裏付けています。『万葉集』には約130首の七夕の歌があるのですが、織女と牽牛の年に一度の出会いに自分の恋を重ね、恋の歌として詠まれたものがほとんどで、中国伝来の七夕の物語が早くから広く知られていたことがわかります。
一方、年中行事の解説書には、中国伝来の風習と日本古来の「棚機津女伝説」(たなばたつめでんせつ)が混ざり合って、日本の七夕の風習が形作られたと説明されています。それによれば、「棚機津女伝説」はおよそ次のように説明されています。「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊(みそぎ)を行い、罪穢(つみけがれ)をはらう。」というように、なかな具体的なのです。
中国から七夕の風習が伝えられたのは7世紀のことでが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』を初めとする古い文献には、「棚機津女伝説」に説かれている具体的な内容を物語る根拠は全く記されていません。伝説があったと言われるかもしれませんが、伝説があったという根拠もなく、仮にあったとしても、伝説ではいつまでさかのぼれるかが検証できないのです。
「棚機津女伝説」は現代になってから一部の民俗学者が主張し始めたことなのですが、あくまでも詩的な仮説であり、再検証できないために歴史学的には全く認められていません。ただ中国から七夕の風習が伝えられるより早く、日本には布を織ることに関係する「タナバタ」と呼ばれるものがあったのは事実です。『万葉集』では「七夕」を「タナバタ」、「織女」を「タナバタ」「タナバタツメ」と読ませている歌があり、「タナバタ」という特別な女性の織り手が、日本独自に存在したことは認められます。それがあったからこそ、「たなばた」とは読みようがない「七夕」という漢語に、「タナバタ」という訓が与えられたのです。ここには中国七夕伝説と日本の「たなばた」が混じり合っていることを確認することができます。しかしそれ以上のこととなると、残念ながら全く手掛かりがありません。実際には「棚機津女伝説」は、全く想像上の産物でしかないのです。
長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。私の余生もそう長くはないので、今のうちに正しいことを明らかにしておかなければ、日本の伝統行事は間違っていることが既成事実化されてしまうと思います。これから一年間にわたり、少しずつ公表していくつもりです。
これだけのことを自身をもって言うからには、私が書いている内容については、どれも確かな文献的根拠があります。子供を対象にしているので、いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。今後とも宜しくお願いします。いずれ出版したいとは思っているのですが、大金のかかることですので、どうなりますことやら・・・・。