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六月末にはどうして茅の輪をくぐるの?(子供のための年中行事解説)

2021-06-01 10:43:58 | 年中行事・節気・暦
六月末にはどうして茅の輪をくぐるの?

 1年もちょうど半ばとなる6月末日、神社では「夏越しの祓」(なごしのはらえ)と呼ばれる特別な大祓(おおはらえ)の神事が行われ、半年間の罪穢(つみけがれ)をはらう大祓の祝詞(のりと)が奏上されます。年末にも同じように大祓がありすから、半年ごとに大祓が行われるわけです。一年の前半は季節では春と夏ですから、「夏越し」とは夏を過ぎ越して秋が始まる直前ということになるわけです。ところが新暦の6月末日は、地域によっては梅雨の真最中であり、夏本番の猛暑はそれ以後のこと。夏を過ぎ越すどころではありません。しかし「6月末日」ということにこだわり、現在では新暦の6月末日に行われることが多いようです。そのため「夏を過ぎ越して秋を迎えるに当たり、半年の罪穢をはらい清める」という本来の意味は忘れられてしまっています。新暦の6月末は梅雨の最中で、疫病がはやりやすいので罪穢をはらうと説明されることがありますが、罪穢を半年ごとにはらうために旧暦6月の末日に行われたのですから、梅雨とは何の関係もありません。
 夏越しの祓の神事の一つとして、神社では茅の輪(ちのわ)くぐりの神事が行われることがあります。茅の輪とは、文字通りに解釈すれば茅(ちがや)という草で作った輪ということなのですが、現在一般に「チガヤ」と呼ばれている植物の茎は太さが2~3㎜しかなく、背丈も50㎝程ですから、チガヤだけでは大人が立ったまま潜り抜けられる大きな輪を作ることはとてもできません。「ちがや」の「かや」は漢字では「萱」「茅」と書きますが、「かや」とはススキ(薄・芒)やオギ(荻)などの総称ですから、実際にはススキやオギで作られています。これならばいくらでも手に入りますし、大きな輪を作ることもできます。
 茅の輪くぐりでは、神前に特設されたり、鳥居にくくりつけられた茅の輪を8の字を書くようにくぐるのですが、茅の輪に罪穢をはらい清める呪力があるという信仰は、奈良時代までさかのぼることができます。『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)という歴史書に引用される『備後国風土記』(びんごのくにふどき)には、次のような記述があります。「武塔(むとう)の神(素盞鳴尊、すさのおのみこと)が旅をしている途中、蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで一夜の宿を求めた。弟の巨旦将来は裕福であったにもかかわらず宿泊を断ったが、兄の蘇民将来は貧しいながらも喜んで厚くもてなした。その数年後、再び蘇民将来のもとを訪ねた素盞鳴尊は、悪い病気がはやることがあった時には、茅で輪を作り腰につければ病気にかからないと教えた」というのです。一般には、宿を貸さなかった弟の巨旦将来が滅ぼされ、兄の蘇民将来の一族は繁栄したと説明されていますが、原文を忠実に読めば、蘇民将来の娘一人を除き、将来一族は悉く滅ぼされたと記されています。現代人の感覚からすれば理不尽に思えますが、そのように記されているのです。「風土記」は奈良時代の初期に編纂されていますから、茅でこしらえた輪を魔除けとする風習は、奈良時代には始まっていたことを確認できます。
 茅を魔除けに用いる風習は、平安時代の和歌でも確認できます。『堀河院百首歌』(1105年頃)には、「沢辺なる 浅茅(あさぢ)を仮に 人なして 厭(いと)ひし身をも 撫づる今日かな」という歌が収められているのですが、これは「茅で人の形をこしらえ、それでけがれた身体を撫で、水無月の祓(六月末日の祓えの神事)をする、今日であることよ」という意味なのです。茅の輪ではありませんが、茅でこしらえる人の形で身体をなでるというのであすから、大きなものではありません。平安時代にはまだくぐるような大きな茅の輪は出現していなかったようです。
 茅の輪は、初めの頃はこのように小さなものを腰に付ける程度だったのでしょう。それなら茎が細いチガヤでも十分作れます。ススキやオギなどの萱では太すぎて、かえって輪になりません。ところが次第に大きな輪を作るとなると、とてもチガヤでは間に合いません。そこでススキやオギで人がくぐるるほどの大きさに作り、名前だけに本来の材料であったチガヤが「茅の輪」として残ったのでしょう。室町幕府の年中行事記録(『年中恒例記』)には、麻の葉を持って三回輪をくぐると記されていますから、室町時代には人がくぐれる程の大きさになっていました。室町時代の有職故実書(年中行事などの研究書)である『公事根源』(くじこんげん)という書物には、茅の輪をくぐるときには、「水無月の夏越のはらへする人は千歳の命延ぶといふなり」という、『拾遺和歌集』に収められた歌を唱えながらくぐると記されていますから、長寿を祈願して行われていたことがわかります。
 また夏越しの祓では茅の輪くぐりの他に、衣の形に切り抜いた「撫もの」(なでもの)とか「人形」(ひとがた)と呼ばれる紙で身体を撫でたり、それに息を吹きかけて罪穢を移し、川に流す風習がありました。人の罪穢を人形に移し、それを水に流して罪穢れをはらうという信仰は、雛祭りの起源となった上巳の節供にも見られることで、それが流し雛に変化することになります。この人形流しの風習は、少しずつ形を変えながらも、現在でも各地の神社で行われています。
 百人一首に「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」という歌が収められていて、よく知られています。これは夏越しの祓のために、京都の上賀茂神社の清流でみそぎ(水で身体を洗って清めること)をしている場面を詠んだもので、「秋が来ることのしるしである風が吹いているが、夏越しのみそぎがまだ夏であることのしるしであるなあ」という意味です。これは鎌倉時代初期に詠まれた歌なのですが、上賀茂神社では現在もなお夏越しの祓の神事として、茅の輪くぐりと人形流しが行われています。6月の30日には、茅の輪くぐりの行われている神社に行って、体験してみましょう。神社によっては、30日の数日前から体験できるかもしれません。

コラム 夏越しの銘菓「水無月」
 夏越しの祓が行われていた旧暦6月は「水無月」とも呼ばれ、京都では新暦の6月末には「水無月」(みなづき)という和菓子を食べる風習があります。「水無月」とは旧暦6月の別称です。これは白い外郎(ういろう)の表面に甘く煮た小豆を一面にのせ、三角形に切り分けたものです。外郎とは米粉に砂糖を混ぜて練ったものを蒸したもので、「蒸餅」(むしもち)とも呼ばれます。室町幕府の年中行事記録である『年中恒例記』には、六月末日には将軍に外郎を進上すると記されていますから、古くからの風習であったことがわかります。

 長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。私の余生もそう長くはないので、今のうちに正しいことを明らかにしておかなければ、日本の伝統行事は間違っていることが既成事実化されてしまうと思います。これから一年間にわたり、少しずつ公表していくつもりです。
 これだけのことを自身をもって言うからには、私が書いている内容については、どれも確かな文献的根拠があります。子供を対象にしているので、いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。今後とも宜しくお願いします。いずれ出版したいとは思っているのですが、大金のかかることですので、どうなりますことやら・・・・。