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『二宮翁夜話』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-02-10 20:44:59 | 私の授業
二宮翁夜話


原文
 翁(おう)、床(とこ)の傍(かたわら)に不動仏の像を掛(かけ)らる。山内董正(ただまさ)曰く、「卿(けい)、不動を信ずるか」。翁曰く、「予、壮年、小田原侯の命を受て、野州(やしゆう)物井(ものい)に来(きた)る。人民離散、土地荒(こう)蕪(ぶ)、如何(いかん)ともすべからず。仍(より)て功の成否に関せず、生涯此(こ)処(こ)を動かじと決定(けつじよう)す。仮令(たとい)事故出来(しゆつたい)、背に火の燃付(もえつく)が如きに立到(たちいた)るとも、決して動かじと死を以て誓ふ。
 然るに不動尊は、動かざれば尊しと訓(くん)ず。予其(その)名義と、猛火背を焚(やく)といへども、動(うごか)ざるの像形を信じ、此(この)像を掛けて、其(その)意を妻子に示す。不動仏、何等の功(こう)験(けん)あるを知らずといへども、予が今日に到るは、不動心の堅(けん)固(ご)一つにあり。仍て今日も猶(なお)此(この)像を掛て、妻子に其(その)意を示すなり。

現代語訳
 尊徳翁は、床の間の傍(かたわら)に不動明王の絵像を掛けておられた。そこで山内董正(ただまさ)(桜町陣屋に派遣された幕府の代官)が、「貴殿は不動明王を信じているのか」と尋ねた。すると尊徳翁が答えて言われるには、「私は若い頃(三六歳)、小田原侯(小田原藩主大久保忠真)より(村を再建せよとの)命を受けて、下野国桜町の物(もの)井(い)に来た。そこでは人々は村を捨てて離散し、農地は荒れ果て、手の施しようもなかった。そこで成功するか失敗するかにかかわらず、生涯ここを動くまいと決意した。たとえ難儀して背に火が燃え付くような事態となっても、決して動くまいと、命を掛けて誓ったのだ。
 ところで不動尊という言葉は、『動かざれば尊し』と訓(よ)む。その仏の名前の意味と、猛火に背を焼かれても、決して微動だにしない不動明王像の姿を信じ、この絵像を掛けて、妻子にその決意の程を示しているのだ。不動明王にどの様な霊験があるかは知らぬが、私が今日までやってこられたのは、不動心一つを堅く持っていたからに外(ほか)ならない。それで今もなおこの絵像を掛け、妻子にその決意の程を示しているのである」と。

解説
 『二宮翁夜話(にのみやおうやわ)』は、二宮尊徳(1787~1856)の門人である福住正兄(ふくずみまさえ)(1824~1892)が、尊徳の言葉を書き留めた言行録です。尊徳と七年間行動を共にした福住正兄は、その間に書き留めたことを二三三のわかりやすい話にまとめ、明治十七~二十年(1884~1887)に出版しました。
 二宮尊徳は天明七年(1787)に小田原の栢(か)山(やま)村で生まれ、幼名を金次郎といいます。五歳の時、酒匂川(さこうがわ)が氾濫し、二宮家の耕地の大半が流出。十四歳の時には父が、二年後に母が亡くなります。そしてその年に再び洪水で耕地が流出したため、十三歳と四歳の弟を親戚に託し、自分自身は親族の万兵衛に引き取られました。金次郎は十六歳の時には、親もなく耕地もなく、兄弟は離散してしまったのです。
 学問好きな金次郎は、夜に『論語』『大学』などを読んでいたのですが、万兵衛から「夜学の為に燈油を費す事、恩を知らざるもの也。汝、家もなく田圃(たんぼ)もなし。人の扶助を得て以て命を繋(つな)ぐ身の、学問して何の用を為(な)す。速(すみやか)に之を止(や)めよ」(『報徳記』巻一)と叱責されました。そこで菜種を空地(あきち)に植え、秋に収穫した種を油屋に持って行って燈油に代えてもらい、勉学を再開しました。また開墾地は三年間は年貢が課せられない、鍬下年季(くわしたねんき)の制度を活用し、二四歳となった文化七年(1810)には、一町四反余(約1.46㏊)の耕地を所有するまでに回復したのです。
 このような勤勉な尊徳の活躍に目を付けたのが、小田原藩家老服部十郎兵衛でした。尊徳は服部家の使用人となり、その財政再建を依頼されます。そして著しい成果を収めたことから、文政五年(1822)、三六歳の時、小田原藩主大久保忠真(ただざね)の分家の旗本宇津(うつ)家の領地である、下野国桜町の再興を命じられます。そして苦労の末に成果を収めると、各地の農村復興を依頼され、南は小田原藩領から北は東北の相馬中村藩領まで、その成果は約六百村に及びました。
 尊徳の農村復興手法は、合理的な根拠に基づいていました。まず農民の暮らしを徹底的に調査します。石高・家族・農具・馬の有無・備蓄食料・借金・病人の有無・便所など、民力を示すデータを正確に把握します。さらに過去の年貢高の平均値を割り出し、領主にはそれ以上の収奪をしない様に約束させます。そして収入に見合った計画的支出を「分度」と称して守らせます。農民に対しては、収穫高から平均年貢高を差し引いた余剰を、再建のための費用として還元します。ただし農民にも「分度」を要求し、余剰を浪費することを厳に戒めます。尊徳は「分度を守るを我道(わがみち)の第一とす」(『二宮翁夜話』165)と説いています。
 桜町復興を命じられた翌年の文政六年(1823)、尊徳は田畑や家財を全て処分して退路を断ち、一家をあげて桜町に赴任しました。しかし農民は余所者(よそもの)から指図されることを快く思わず、小田原から派遣された役人も、農民と共に何かにつけて妨害してきました。そして文政十一年(1828)、洪水の被害を受け、さすがの尊徳も辞職を願い出るのですが、それも認められません。思い余った尊徳は、翌年正月早々、年始の挨拶のため江戸に出向いた帰路に、突然行方不明になります。
 尊徳は絵像を掛けて信心していた、不動尊で知られる成田山新勝寺で、二一日間の断食をしていたのですが、ただならぬ雰囲気に恐れをなした宿の主人が、江戸の小田原藩邸に問い合わせ、藩邸からの情報でそれと知った農民が迎えに来たのが、満願の四月八日でした。そして簡単に粥を食べた後、すぐに桜町まで二十里を歩いて帰りました。身長六尺(約1.8m)、体重二五貫(94㎏)の大男ですが、長期の断食の直後ですから、さすがに気力だけで歩いたことでしょう。批判していた役人や農民は、いざ尊徳がいなくなると、その存在と覚悟の程を再認識しました。その後次第に村の協力体制が構築され、成果が目に見えて現れるようになったということです。この断食の逸話は、同じく門弟の尊徳言行録である『報徳記』巻一に詳しく記されています。
 ここに載せたのは、巻之二の第五十話、「不動尊の像に就(つき)ての説」です。なお桜町陣屋跡がある地域は、現在は尊徳の業績を記念し、真(も)岡(おか)市「二宮町」と称しています。


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