『花』
日本では「花見」と言えば桜の花見と決まっている様に、日本人の桜に対する思い入れは、なみなみならないものがあります。滝廉太郎が作曲した歌曲『花』は、歌曲『四季』の1曲目で、他に第2曲『納涼』、第3曲『月』、第4曲『雪』があるのですが、他はあまり知られていません。これらの4曲はそれぞれ四季に当てはめられていますから、『花』は春に当てはめられます。つまり春を「桜」によって象徴しているわけです。「雪月花」とそろえば、日本の美しい自然の移ろいを象徴する言葉ですから、組曲『四季』は全体としてそのような美しさを表そうという意図に基づいて生まれました。『花』の作詞は日本女子大学教授の武島羽衣で、歌人としても知られていましたから、随所に古典文学の詩句が散りばめられています。
歌詞は次の如くです。
1、春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 舟人が 櫂のしづくも 花と散る ながめを何に たとふべき
2、見ずやあけぼの 露浴びて われにもの言ふ 桜木を 見ずや夕ぐれ 手をのべて われさしまねく 青柳を
3、錦おりなす 長堤に くるればのぼる おぼろ月 げに一刻も 千金の ながめを何に たとふべき
1番には本歌があります。『源氏物語』「胡蝶」の巻にある「春の日の うららにさして 行く舟は 棹のしづくも 花ぞちりける」という歌です。この歌は光源氏の正妻である紫の上の御殿である六条院で、池に舟を浮かべて遊ぶ場面を詠んだものです。本歌では「櫂」ではなく「棹」になっているのは、貴族の館の池は、池底に栗石を敷き詰めて作られた人工の池で、水深が極めて浅いため、棹で操っていたからであって、隅田川では自然と櫂に直されたのでしょう。本歌では「さして」となっていますが、「日がさす」と「さす棹」を掛けていますから、そのようなことからも本歌では「棹」でなければなりませんでした。当時の隅田川は現在の荒川なみに川幅のある大河でしたから、棹くらいでは川底に届きません。明治31年の『風俗画報』の挿図を見ても、棹ではなく櫂をを使っているのがわかります。
1番の「うらら」は「麗しい」と語源を同じくする言葉ですが、特に春の日の長閑な様子を表す時に使われる言葉です。明治33年に発表された歌ですから、当時の隅田川の水運はまだまだ盛んで、かなり大きな船も運航されています。「舟人が」の「が」は主格を表す格助詞ではなく、体言を修飾する格助詞ですから、「舟人が持っている」という意味で、「我が宿」の「が」と同じです。そして体言の「櫂」に続いていますから、「舟人の操る櫂のしずく・・・・」というようにつながるわけです。「櫂」を「オール」と理解し、競艇の様子を詠んでいるという説があります。この歌が発表されたのは明治33年で、明治44年の『東京年中行事』という書物の「三月暦・・・・端艇競漕」には、明治30年代の初めから盛んに行われていたことが記されていますから、そのような場面はあったかもしれません。しかし「舟人」という言葉は、競艇は似合わないような気がします。もちろんあくまでも歌詞全体の印象による個人の感想に過ぎませんが。
「隅田川」が現在のどの川であるかは、なかなか難しい問題です。河川の流路は時代によって大きく変わるからです。江戸時代初期から昭和初期までは、荒川の下流が漠然と隅田川と呼ばれていました。ですからこの歌ができた時の隅田川は、現在より川幅も広く、水量もはるかに多かったはずです。ところが昭和初期に荒川の岩淵水門から荒川放水路が分岐され、隅田川と荒川放水路が分かれます。そして昭和40年に荒川放水路は荒川の本流と認定され、現在は隅田川と荒川は独立する別の川になってしまっています。当時の隅田川の景色は、現在のそれとは相当に異なっていたはずです。ですから現在は隅田川の景色は、作詩者が見ていた景色とは異なります。「花」に歌われた隅田川と、現在の隅田川が同じではないのです。
「櫂のしづくも 花と散る」というのですが、「と」は並列を意味するのではなく、比喩を表しています。つまり「花と共にしずくが散る」という意味ではなく、「花の散る如くにしずくが散る」という意味です。もちろん「しずくも散る」と表現していますから、花が散っていることは連想できます。どこにも「花が散る」という直接的な表現がないのに、花が散っている情景を思い浮かばせるのはさすがと言うほかはありません。
「ながめを何に たとふべき」というのは、「そのような麗らかな景色を、いったい何に喩えられるというのか。いや喩えようもないではないか」、という意味です。「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形で、ここでは可能を意味しています。「何にたとふべし」ではなく「何にたとふべき」となっているのは、本来は「何にかたとふべき」であるべきものが、係助詞の「か」が省略された形で、係り結びの法則によって「べし」が連体形の「べき」になったものでしょうか。ですから、「・・・・だろうか、いや・・・・ではない」と、反語を表しているわけです。
現代人の感覚からすれば、このように本歌そっくりの作詞は盗作と思われるかもしれませんが、和歌の世界では有名な古歌を下敷きにすることは、非難されることではありませんでした。
なお隅田川堤が桜の名所となったのは、将軍徳川吉宗がたくさんの桜を植えさせたことによるもので、他に王子の飛鳥山、小金井堤、御殿山など桜の名所として知られているところは、みな吉宗が桜を移植させたことに始まっています。また「長命寺餅」とも呼ばれる桜餅は、隅田川堤に近い向島にある長命寺前の山本やで享保年間に発売されたもので、隅田川堤の花見の名物となっていました。
2番の意味はそれ程難しくはなく、堤に植えられている桜や枝垂れ柳を、擬人的に詠んでいます。「見ずや」の「や」も係助詞で、「・・・・だろうか、いや・・・・ではない」と、反語を表しているわけです。ですから、「見ない人がいるだろうか、いやいないであろう」という意味ですが、「見てごらんなさい」と理解すればよいでしょう。朝には露に濡れて光る桜が語りかけてくる。夕には風になびく柳の枝が手招きをしている、というわけです。朝に対して夕が、桜に対して柳が対句になっていることも注目しておきましょう。桜と柳が対句になっているのにはわけがあるのですが、それは別にお話します。柳は水を好む樹木ですから、堤防の補強も兼ねて、古くから川沿いに植えられていました。
桜がものを言ったり、柳が招いたりすると歌われていますが、自然を擬人的に表現したり、何か別のものに見立てたりするのは、古歌の世界では普通に見られる技法です。風になびくすすきを手招きしていると見たり、風になびく柳の枝を春風が春の女神の髪を梳いていると見たり、溶け残っている雪を更なる雪の友を待っていると見たりするのは、みなこのような例なのです。現代人は自然を自然として客観的に見ますが、日本の伝統的自然理解は、自然を人の心を持っているものの様に感じ取るという特徴があります。作詞者は国学を学んだ人ですから、そのような擬人的表現はよく理解していたはずです。
3番の「錦おりなす」は、『古今集』に収められた素性法師の「見渡せば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の錦なりける」という歌を下敷きにしています。それで2番では桜と柳が対句となっているのです。都大路に植えられた桜と青柳の配色が、まるで錦の織物のようだというのですが、錦に喩えられるのは、一般的には秋の紅葉ですから、「春の錦」と詠んでいるわけです。古典的和歌の知識のある作詞者が春の歌で「錦」と詠む際には、反射的に素性法師の歌を思い浮かべたはずです。
「くるれば」は「暮るれば」で、已然形の活用ですから、「日が暮れたので」という意味です。「暮れれば」となると未然形ですから、「日が暮れたら」という意味で、まだ暮れていないことになってしまいます。「日が暮れたので上る月」は、満月かそれに近い月齢です。満月の朧月とそうでない朧月とでは、印象が全く異なります。夜の場面という解説が多いのですが、それでは「暮るれば」という言葉を正しく理解していないことになってしまいます。夕暮時に上る月は、蕪村の「菜の花や 月は東に日は西に」の句にも詠まれているように、丸い月なのです。四季それぞれに月の美しさがありますが、古来春の月は朧月が美しいとされてきました。「げに」は「実に」「本当に」という意味です。「一刻も千金のながめ」は、中国北宋時代の詩人、蘇軾(そしょく)の七言絶句「春夜」の初句「春宵一刻値千金」(しゅんしょういっこく あたいせんきん)から採られていて、ほんの一時でも金には換えられない、春の宵の美しさを表しています。
全体的に言えることですが、一般に流布している「花」の歌詞の解説はあまりにも表面的すぎます。国語辞書を片手に、一つ一つの言葉の意味を逐語的に調べて並べているだけなので、その様なことになってしまうのでしょう。現代の歌ならともかく、作詞者は明治時代の教育を受けた歌人なのですから、古典的和歌を熟知しています。明治期の歌謡の歌詞解釈には、この点に十分留意しなければなりません。「柳・桜・錦」と三つ揃えば、明治期の歌人なら反射的に素性法師の歌が浮かぶでしょうし、「暮るれば上る月」が満月に近い月であることに気付かない歌人など、誰一人としていないのです。また隅田川と言っても、現代の解説者は、現在と明治期では別の川であることに関心がありません。歌の歌詞の解釈には、古典文学だけでなく、総合的な視点が必要だと思います。
日本では「花見」と言えば桜の花見と決まっている様に、日本人の桜に対する思い入れは、なみなみならないものがあります。滝廉太郎が作曲した歌曲『花』は、歌曲『四季』の1曲目で、他に第2曲『納涼』、第3曲『月』、第4曲『雪』があるのですが、他はあまり知られていません。これらの4曲はそれぞれ四季に当てはめられていますから、『花』は春に当てはめられます。つまり春を「桜」によって象徴しているわけです。「雪月花」とそろえば、日本の美しい自然の移ろいを象徴する言葉ですから、組曲『四季』は全体としてそのような美しさを表そうという意図に基づいて生まれました。『花』の作詞は日本女子大学教授の武島羽衣で、歌人としても知られていましたから、随所に古典文学の詩句が散りばめられています。
歌詞は次の如くです。
1、春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 舟人が 櫂のしづくも 花と散る ながめを何に たとふべき
2、見ずやあけぼの 露浴びて われにもの言ふ 桜木を 見ずや夕ぐれ 手をのべて われさしまねく 青柳を
3、錦おりなす 長堤に くるればのぼる おぼろ月 げに一刻も 千金の ながめを何に たとふべき
1番には本歌があります。『源氏物語』「胡蝶」の巻にある「春の日の うららにさして 行く舟は 棹のしづくも 花ぞちりける」という歌です。この歌は光源氏の正妻である紫の上の御殿である六条院で、池に舟を浮かべて遊ぶ場面を詠んだものです。本歌では「櫂」ではなく「棹」になっているのは、貴族の館の池は、池底に栗石を敷き詰めて作られた人工の池で、水深が極めて浅いため、棹で操っていたからであって、隅田川では自然と櫂に直されたのでしょう。本歌では「さして」となっていますが、「日がさす」と「さす棹」を掛けていますから、そのようなことからも本歌では「棹」でなければなりませんでした。当時の隅田川は現在の荒川なみに川幅のある大河でしたから、棹くらいでは川底に届きません。明治31年の『風俗画報』の挿図を見ても、棹ではなく櫂をを使っているのがわかります。
1番の「うらら」は「麗しい」と語源を同じくする言葉ですが、特に春の日の長閑な様子を表す時に使われる言葉です。明治33年に発表された歌ですから、当時の隅田川の水運はまだまだ盛んで、かなり大きな船も運航されています。「舟人が」の「が」は主格を表す格助詞ではなく、体言を修飾する格助詞ですから、「舟人が持っている」という意味で、「我が宿」の「が」と同じです。そして体言の「櫂」に続いていますから、「舟人の操る櫂のしずく・・・・」というようにつながるわけです。「櫂」を「オール」と理解し、競艇の様子を詠んでいるという説があります。この歌が発表されたのは明治33年で、明治44年の『東京年中行事』という書物の「三月暦・・・・端艇競漕」には、明治30年代の初めから盛んに行われていたことが記されていますから、そのような場面はあったかもしれません。しかし「舟人」という言葉は、競艇は似合わないような気がします。もちろんあくまでも歌詞全体の印象による個人の感想に過ぎませんが。
「隅田川」が現在のどの川であるかは、なかなか難しい問題です。河川の流路は時代によって大きく変わるからです。江戸時代初期から昭和初期までは、荒川の下流が漠然と隅田川と呼ばれていました。ですからこの歌ができた時の隅田川は、現在より川幅も広く、水量もはるかに多かったはずです。ところが昭和初期に荒川の岩淵水門から荒川放水路が分岐され、隅田川と荒川放水路が分かれます。そして昭和40年に荒川放水路は荒川の本流と認定され、現在は隅田川と荒川は独立する別の川になってしまっています。当時の隅田川の景色は、現在のそれとは相当に異なっていたはずです。ですから現在は隅田川の景色は、作詩者が見ていた景色とは異なります。「花」に歌われた隅田川と、現在の隅田川が同じではないのです。
「櫂のしづくも 花と散る」というのですが、「と」は並列を意味するのではなく、比喩を表しています。つまり「花と共にしずくが散る」という意味ではなく、「花の散る如くにしずくが散る」という意味です。もちろん「しずくも散る」と表現していますから、花が散っていることは連想できます。どこにも「花が散る」という直接的な表現がないのに、花が散っている情景を思い浮かばせるのはさすがと言うほかはありません。
「ながめを何に たとふべき」というのは、「そのような麗らかな景色を、いったい何に喩えられるというのか。いや喩えようもないではないか」、という意味です。「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形で、ここでは可能を意味しています。「何にたとふべし」ではなく「何にたとふべき」となっているのは、本来は「何にかたとふべき」であるべきものが、係助詞の「か」が省略された形で、係り結びの法則によって「べし」が連体形の「べき」になったものでしょうか。ですから、「・・・・だろうか、いや・・・・ではない」と、反語を表しているわけです。
現代人の感覚からすれば、このように本歌そっくりの作詞は盗作と思われるかもしれませんが、和歌の世界では有名な古歌を下敷きにすることは、非難されることではありませんでした。
なお隅田川堤が桜の名所となったのは、将軍徳川吉宗がたくさんの桜を植えさせたことによるもので、他に王子の飛鳥山、小金井堤、御殿山など桜の名所として知られているところは、みな吉宗が桜を移植させたことに始まっています。また「長命寺餅」とも呼ばれる桜餅は、隅田川堤に近い向島にある長命寺前の山本やで享保年間に発売されたもので、隅田川堤の花見の名物となっていました。
2番の意味はそれ程難しくはなく、堤に植えられている桜や枝垂れ柳を、擬人的に詠んでいます。「見ずや」の「や」も係助詞で、「・・・・だろうか、いや・・・・ではない」と、反語を表しているわけです。ですから、「見ない人がいるだろうか、いやいないであろう」という意味ですが、「見てごらんなさい」と理解すればよいでしょう。朝には露に濡れて光る桜が語りかけてくる。夕には風になびく柳の枝が手招きをしている、というわけです。朝に対して夕が、桜に対して柳が対句になっていることも注目しておきましょう。桜と柳が対句になっているのにはわけがあるのですが、それは別にお話します。柳は水を好む樹木ですから、堤防の補強も兼ねて、古くから川沿いに植えられていました。
桜がものを言ったり、柳が招いたりすると歌われていますが、自然を擬人的に表現したり、何か別のものに見立てたりするのは、古歌の世界では普通に見られる技法です。風になびくすすきを手招きしていると見たり、風になびく柳の枝を春風が春の女神の髪を梳いていると見たり、溶け残っている雪を更なる雪の友を待っていると見たりするのは、みなこのような例なのです。現代人は自然を自然として客観的に見ますが、日本の伝統的自然理解は、自然を人の心を持っているものの様に感じ取るという特徴があります。作詞者は国学を学んだ人ですから、そのような擬人的表現はよく理解していたはずです。
3番の「錦おりなす」は、『古今集』に収められた素性法師の「見渡せば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の錦なりける」という歌を下敷きにしています。それで2番では桜と柳が対句となっているのです。都大路に植えられた桜と青柳の配色が、まるで錦の織物のようだというのですが、錦に喩えられるのは、一般的には秋の紅葉ですから、「春の錦」と詠んでいるわけです。古典的和歌の知識のある作詞者が春の歌で「錦」と詠む際には、反射的に素性法師の歌を思い浮かべたはずです。
「くるれば」は「暮るれば」で、已然形の活用ですから、「日が暮れたので」という意味です。「暮れれば」となると未然形ですから、「日が暮れたら」という意味で、まだ暮れていないことになってしまいます。「日が暮れたので上る月」は、満月かそれに近い月齢です。満月の朧月とそうでない朧月とでは、印象が全く異なります。夜の場面という解説が多いのですが、それでは「暮るれば」という言葉を正しく理解していないことになってしまいます。夕暮時に上る月は、蕪村の「菜の花や 月は東に日は西に」の句にも詠まれているように、丸い月なのです。四季それぞれに月の美しさがありますが、古来春の月は朧月が美しいとされてきました。「げに」は「実に」「本当に」という意味です。「一刻も千金のながめ」は、中国北宋時代の詩人、蘇軾(そしょく)の七言絶句「春夜」の初句「春宵一刻値千金」(しゅんしょういっこく あたいせんきん)から採られていて、ほんの一時でも金には換えられない、春の宵の美しさを表しています。
全体的に言えることですが、一般に流布している「花」の歌詞の解説はあまりにも表面的すぎます。国語辞書を片手に、一つ一つの言葉の意味を逐語的に調べて並べているだけなので、その様なことになってしまうのでしょう。現代の歌ならともかく、作詞者は明治時代の教育を受けた歌人なのですから、古典的和歌を熟知しています。明治期の歌謡の歌詞解釈には、この点に十分留意しなければなりません。「柳・桜・錦」と三つ揃えば、明治期の歌人なら反射的に素性法師の歌が浮かぶでしょうし、「暮るれば上る月」が満月に近い月であることに気付かない歌人など、誰一人としていないのです。また隅田川と言っても、現代の解説者は、現在と明治期では別の川であることに関心がありません。歌の歌詞の解釈には、古典文学だけでなく、総合的な視点が必要だと思います。
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