我が家は西に視界の開けた丘の上にあるので、夕日が殊の外美しく見えます。秩父の山の端に沈む太陽を眺めながら、暫く見とれていることがしばしばあります。そんな時に思い浮かぶのが、童謡『夕焼け小焼け』の歌です。
歌詞は次の如くです。
1、夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる
おててつないでみなかえろう からすといっしょにかえりましょ
2、子供がかえったあとからは まるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星
この歌は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信が1923年(大正12年)に曲をつけたそうです。作曲者の草川信は、「揺籃のうた」「汽車ポッポ」「どこかで春が」「緑のそよ風」などがあり、作曲者名は知らなくとも、これらの童謡を知らない高齢者はいないことでしょう。日本中どこにでもあった情景ですから、どこで聞いても共感できるためか、全国の自治体の夕方の時報の曲として、今も流れているそうです。特に雨紅の故郷は現在の東京都八王子市では、ここに歌われた情景は八王子であるとして、八王子では何かにつけてこの曲のメロディーが流れ、曲名を冠した呼称があり、また歌に詠まれた「山のお寺」をめぐる論争もあったそうです。どうしてこういう対立が生まれるのか、情けないことと思います。特定の地名が詠み込まれているわけではありませんから、どこでも良いではありませんか。作詞者が聞いたら、きっとがっかりすることでしょう。
さて「夕焼け小焼け」という言葉ですが、「小焼け」の意味がわかりません。おそらく「小焼け」という独立した言葉はなさそうです。「仲良しこよし」と同じように、「こ」は語調を調えるための接頭語であるという説がありますが、私もそれに賛成します。古歌の世界では「夜」でよいところをわざわざ「小夜」と詠んだりして、音節を調えることはしばしば見られることで、同じようなことだと思います。
お寺の鐘の時刻ですが、夕方六時の鐘という説明がありました。現在ならばそうなのでしょうが、私としては暮れ六つの鐘と思いたいところです。ただし「暮六つ」は日没時ではなく、日没より約30くらい後のことです。ちなみに明け六つは日の出前約30分くらいの時間です。つまりもう夕日は見えないのですが、残照のために西の空はまだ夕焼けに染まっていて、明るい星が見え始める頃のことでしょう。
また「からすといっしょにかえる」ということについて、深く考えることがあります。子供達は夕焼けを見ているのですから、烏は西の方に飛んで行くことになります。古代中国には、太陽には三本脚の烏が住んでいるという理解があり、烏が太陽の象徴と理解されることがありました。それは早くから日本にも伝えられ、知識階級にとっては誰もが知っていることでした。謀叛の疑いで処刑された大津皇子の辞世の詩には、夕日が傾いて西の家々を照らしているということが、「金烏西舎臨(て)らひ」と詠まれています。「金烏」が夕日を意味しているわけです。そのような理解は子供には関係ないことですが、この年齢になると、夕暮れを人生の晩年に見立て、烏は自分の還るべき所に還って行くのだなあと、つくづく思い、一首詠んでみました。
七十年(ななそとせ) 残る齢になづらへて 入り日に還る からす数ふる
あと余生は何年あるかわかりませんが、そう長くはありません。入り日の方に向かって帰ってゆく烏を数えながら、自分に許される年を数えたわけです。私の魂は還るべきところに還ることを願っています。夕烏を眺めながら、ふとそんなことを思いました。「か」の音を並べたのは意図してではなかったのですが、結果としてそうなりました。
日没後に月が上ってきたというのですから、これは満月かそれに近い月齢です。空には金の星というのですから、宵の明星かもしれません。太陽と月と星に見守られていることを、実感できる歌詞になっていることに、あらためて気付きました。
このメロディーはいわゆる「四七抜き音階」(よなぬきおんかい)によって作られています。簡単に言えば、ファとシの音がない、日本の伝統的な音階です。この歌が日本人の感性に訴える力が強いのは、歌詞だけではなく、曲にも秘密があるわけです。
歌詞は次の如くです。
1、夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる
おててつないでみなかえろう からすといっしょにかえりましょ
2、子供がかえったあとからは まるい大きなお月さま
小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星
この歌は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信が1923年(大正12年)に曲をつけたそうです。作曲者の草川信は、「揺籃のうた」「汽車ポッポ」「どこかで春が」「緑のそよ風」などがあり、作曲者名は知らなくとも、これらの童謡を知らない高齢者はいないことでしょう。日本中どこにでもあった情景ですから、どこで聞いても共感できるためか、全国の自治体の夕方の時報の曲として、今も流れているそうです。特に雨紅の故郷は現在の東京都八王子市では、ここに歌われた情景は八王子であるとして、八王子では何かにつけてこの曲のメロディーが流れ、曲名を冠した呼称があり、また歌に詠まれた「山のお寺」をめぐる論争もあったそうです。どうしてこういう対立が生まれるのか、情けないことと思います。特定の地名が詠み込まれているわけではありませんから、どこでも良いではありませんか。作詞者が聞いたら、きっとがっかりすることでしょう。
さて「夕焼け小焼け」という言葉ですが、「小焼け」の意味がわかりません。おそらく「小焼け」という独立した言葉はなさそうです。「仲良しこよし」と同じように、「こ」は語調を調えるための接頭語であるという説がありますが、私もそれに賛成します。古歌の世界では「夜」でよいところをわざわざ「小夜」と詠んだりして、音節を調えることはしばしば見られることで、同じようなことだと思います。
お寺の鐘の時刻ですが、夕方六時の鐘という説明がありました。現在ならばそうなのでしょうが、私としては暮れ六つの鐘と思いたいところです。ただし「暮六つ」は日没時ではなく、日没より約30くらい後のことです。ちなみに明け六つは日の出前約30分くらいの時間です。つまりもう夕日は見えないのですが、残照のために西の空はまだ夕焼けに染まっていて、明るい星が見え始める頃のことでしょう。
また「からすといっしょにかえる」ということについて、深く考えることがあります。子供達は夕焼けを見ているのですから、烏は西の方に飛んで行くことになります。古代中国には、太陽には三本脚の烏が住んでいるという理解があり、烏が太陽の象徴と理解されることがありました。それは早くから日本にも伝えられ、知識階級にとっては誰もが知っていることでした。謀叛の疑いで処刑された大津皇子の辞世の詩には、夕日が傾いて西の家々を照らしているということが、「金烏西舎臨(て)らひ」と詠まれています。「金烏」が夕日を意味しているわけです。そのような理解は子供には関係ないことですが、この年齢になると、夕暮れを人生の晩年に見立て、烏は自分の還るべき所に還って行くのだなあと、つくづく思い、一首詠んでみました。
七十年(ななそとせ) 残る齢になづらへて 入り日に還る からす数ふる
あと余生は何年あるかわかりませんが、そう長くはありません。入り日の方に向かって帰ってゆく烏を数えながら、自分に許される年を数えたわけです。私の魂は還るべきところに還ることを願っています。夕烏を眺めながら、ふとそんなことを思いました。「か」の音を並べたのは意図してではなかったのですが、結果としてそうなりました。
日没後に月が上ってきたというのですから、これは満月かそれに近い月齢です。空には金の星というのですから、宵の明星かもしれません。太陽と月と星に見守られていることを、実感できる歌詞になっていることに、あらためて気付きました。
このメロディーはいわゆる「四七抜き音階」(よなぬきおんかい)によって作られています。簡単に言えば、ファとシの音がない、日本の伝統的な音階です。この歌が日本人の感性に訴える力が強いのは、歌詞だけではなく、曲にも秘密があるわけです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます