「すすき」という植物名を知らない日本人はまずいないであろう。ところが「おぎ」という植物名になると、途端に怪しくなる。荻野・荻原・荻窪・荻島など、人名にはよく見られる漢字であるため、「荻」という字は知っていても、それが植物であることを知らない人もいるという。まして植物としての「おぎ」を知っている人は少ないのではなかろうか。もっとも植物としての「すすき」なら知っているという人でも、正確に知っているかと言えば、それもいささか怪しい。なぜなら「すすき」と「おぎ」は極めてよく似ていて、混同されることが多いからである。ところが古人は両者をはっきり区別して和歌に詠んでいる。いったい「すすき」と「おぎ」とではどこが違うのであろうか。
違いを正しく知っている人は、数十m離れていても区別がつく。区別の仕方は簡単である。まず「おぎ」は河川敷や水田の近くなど、湿地に近いところに群生する。しかし「すすき」はそれより乾燥気味の所に株立ちして生育する。河川堤防の上部には「すすき」が、下部には「おぎ」がという程度に、両者の生育場所が近接することはあるが、完全に混生することは普通は見られない。また「おぎ」は長い地下茎を縦横に伸ばし、その節ごとに茎が伸びてくるので、あたり一面に群生することになる。それに対して「すすき」にはそのような発達した地下茎がなく、株を作って繁茂する。一面に生えているように見えても、株の大小はあっても株ごとに独立しているのである。そう言うわけで、生えている場所と、株立ちするか否かで、遠くからでも区別ができるのである。まずこの相違点だけで、外れたことはない。
ところがそれぞれの穂を採ってきて見せられると、生育場所や株立ちしているかどうかはわからないので、別の方法で区別しなければならない。しかしこれもさほど難しいことではない。穂は長さ1㎝にも満たない毛針のような小花が連なってできているが、それをルーペで拡大して見ると、「すすき」には1本だけ長いのぎ(禾)があるのに対して、「おぎ」にはそれがない。「おぎにのぎなし、すすきにのぎあり」と覚えておこう。これだけで正確に区別できるが、さらに付け加えるならば、「おぎ」の方が毛が長くてふさふさしており、色も白っぽい。「すすき」の方は短く、色は薄茶色のものもあり、小花の付き方もまばらである。また葉の付き方も、「おぎ」は穂に近い茎の上部にも葉が付くが、「すすき」の場合は、穂に近い茎の上部には葉が付かない。これだけの相違点があれば、まず間違うことはない。これらの相違点をよく理解して原野に出てみると、今まで「すすき」と思っていたものが、実は「おぎ」であったということがかなりあることであろう。十五夜に「すすき」を供えたつもりで、実は「おぎ」を供えていたことが、きっとあることと思う。
さて古人は両者をはっきりと区別していたというが、どのように理解していたのであろうか。まずは荻を詠んだ古歌をいくつか上げてみよう。
①荻の葉のそよぐ音こそ秋風の人に知らるるはじめなりけれ (拾遺集 秋 139)
②荻の葉に言問ふ人もなきものを来る秋ごとにそよとこたふる (詩歌集 秋 117)
③さりともと思ひし人は音もせで荻の上葉に風ぞ吹くなる (後拾遺 秋 321)
①では、秋風が荻の葉にそよいで、かすかに音を立てている様子が詠まれている。秋の到来を、荻の葉擦れの音に感じ取っているのである。②では、秋風が荻の葉を訪うと、荻の葉は「そよ」と応えるという。「そよ」は「そよそよと風が吹く」という表現があるように、現代人は「そよそよ」は擬態語か擬音語と思っていて、それ以上でもなくそれ以下でもない。しかし古人は「そよ」の「そ」は指示代名詞で、漢字では「其よ」となる。「よ」は終助詞であるから、「そよ」は「其たよ」という意味になる。つまり②は、秋風と荻の葉の問答として理解していることになる。もっとも男が誰も訪ねてこずに、秋風だけが訪ねてくると理解して、恋人の来ないことを嘆く女の歌と理解できないこともない。③の「さりとも」は「いくら何でも」という意味で、いくら何でも今日こそは来るだろうと思った人は来ずに、秋風だけがだけがやって来るという、恋の歌に仕立てられている。3首に共通しているのは、秋風が吹いてくると、荻の葉音がする、ということである。実際に「おぎ」や「すすき」の葉にはガラスと同じ硅酸塩が含まれていて、葉の縁は指を切ってしまう程に鋭い。他の稲科の植物にも多く含まれていて、その御蔭で茎や葉が物理的な強度を持っているのである。話は脱線するが、「すすき」や「おぎ」の灰を使って、ガラスを取り出すこともできる程である。それは陶芸の釉薬に、草木灰が使われていることでもわかるであろう。閑話休題、とにかく「おぎ」は、「風聞き草」という異名を持つ程に秋風との相性がよい。
さて「すすき」であるが、古歌では「花すすき」とか「尾花」と詠まれるのが普通である。現代人にはよく似ているにもかかわらず、「すすき」と秋風を共に詠み込むことは、まず見当たらない。(精密に史料に当たればあるかもしれないが・・・・・)。「すすき」を詠んだ歌をいくつか上げてみよう。
④行く人を招くか野辺の花すすき今宵もここに旅寝せよとや (金葉集 秋 238)
⑤さらでだに心のとまる秋の野にいとども招く花すすきかな (後拾遺 秋 326)
⑥霜枯れの冬野に立てるむらすすきほのめかさばや思ふこころを (後拾遺 恋 609)
④⑤は、「すすき」の穂が風になびいている様子を、手招きしていると擬人的に理解していて、「すすきが招く」という趣向は、「すすき」の古歌では常套的である。⑥は、あなたを思う恋心を、すすきの穂のようにほのめかしたいという意味で、穂が出ることを「本心が出てしまうこと」の比喩と理解している。このような趣向も「すすき」の歌では常套的である。
以上のように、古歌の中では「すすき」と「おぎ」ははっきり区別して詠まれている。古人は植物としての「すすき」と「おぎ」を区別して理解していからこそ、歌の中でもその趣向を区別して詠んでいるのである。現代人には、「すすき」の穂を恋の本心を表に出すことと理解するのは無理としても、せめて「おぎ」の葉擦れの音に秋の到来を感じ取り、なびくすすきの穂を手招きをする仕草に見ることくらいはできるのではなかろうか。
違いを正しく知っている人は、数十m離れていても区別がつく。区別の仕方は簡単である。まず「おぎ」は河川敷や水田の近くなど、湿地に近いところに群生する。しかし「すすき」はそれより乾燥気味の所に株立ちして生育する。河川堤防の上部には「すすき」が、下部には「おぎ」がという程度に、両者の生育場所が近接することはあるが、完全に混生することは普通は見られない。また「おぎ」は長い地下茎を縦横に伸ばし、その節ごとに茎が伸びてくるので、あたり一面に群生することになる。それに対して「すすき」にはそのような発達した地下茎がなく、株を作って繁茂する。一面に生えているように見えても、株の大小はあっても株ごとに独立しているのである。そう言うわけで、生えている場所と、株立ちするか否かで、遠くからでも区別ができるのである。まずこの相違点だけで、外れたことはない。
ところがそれぞれの穂を採ってきて見せられると、生育場所や株立ちしているかどうかはわからないので、別の方法で区別しなければならない。しかしこれもさほど難しいことではない。穂は長さ1㎝にも満たない毛針のような小花が連なってできているが、それをルーペで拡大して見ると、「すすき」には1本だけ長いのぎ(禾)があるのに対して、「おぎ」にはそれがない。「おぎにのぎなし、すすきにのぎあり」と覚えておこう。これだけで正確に区別できるが、さらに付け加えるならば、「おぎ」の方が毛が長くてふさふさしており、色も白っぽい。「すすき」の方は短く、色は薄茶色のものもあり、小花の付き方もまばらである。また葉の付き方も、「おぎ」は穂に近い茎の上部にも葉が付くが、「すすき」の場合は、穂に近い茎の上部には葉が付かない。これだけの相違点があれば、まず間違うことはない。これらの相違点をよく理解して原野に出てみると、今まで「すすき」と思っていたものが、実は「おぎ」であったということがかなりあることであろう。十五夜に「すすき」を供えたつもりで、実は「おぎ」を供えていたことが、きっとあることと思う。
さて古人は両者をはっきりと区別していたというが、どのように理解していたのであろうか。まずは荻を詠んだ古歌をいくつか上げてみよう。
①荻の葉のそよぐ音こそ秋風の人に知らるるはじめなりけれ (拾遺集 秋 139)
②荻の葉に言問ふ人もなきものを来る秋ごとにそよとこたふる (詩歌集 秋 117)
③さりともと思ひし人は音もせで荻の上葉に風ぞ吹くなる (後拾遺 秋 321)
①では、秋風が荻の葉にそよいで、かすかに音を立てている様子が詠まれている。秋の到来を、荻の葉擦れの音に感じ取っているのである。②では、秋風が荻の葉を訪うと、荻の葉は「そよ」と応えるという。「そよ」は「そよそよと風が吹く」という表現があるように、現代人は「そよそよ」は擬態語か擬音語と思っていて、それ以上でもなくそれ以下でもない。しかし古人は「そよ」の「そ」は指示代名詞で、漢字では「其よ」となる。「よ」は終助詞であるから、「そよ」は「其たよ」という意味になる。つまり②は、秋風と荻の葉の問答として理解していることになる。もっとも男が誰も訪ねてこずに、秋風だけが訪ねてくると理解して、恋人の来ないことを嘆く女の歌と理解できないこともない。③の「さりとも」は「いくら何でも」という意味で、いくら何でも今日こそは来るだろうと思った人は来ずに、秋風だけがだけがやって来るという、恋の歌に仕立てられている。3首に共通しているのは、秋風が吹いてくると、荻の葉音がする、ということである。実際に「おぎ」や「すすき」の葉にはガラスと同じ硅酸塩が含まれていて、葉の縁は指を切ってしまう程に鋭い。他の稲科の植物にも多く含まれていて、その御蔭で茎や葉が物理的な強度を持っているのである。話は脱線するが、「すすき」や「おぎ」の灰を使って、ガラスを取り出すこともできる程である。それは陶芸の釉薬に、草木灰が使われていることでもわかるであろう。閑話休題、とにかく「おぎ」は、「風聞き草」という異名を持つ程に秋風との相性がよい。
さて「すすき」であるが、古歌では「花すすき」とか「尾花」と詠まれるのが普通である。現代人にはよく似ているにもかかわらず、「すすき」と秋風を共に詠み込むことは、まず見当たらない。(精密に史料に当たればあるかもしれないが・・・・・)。「すすき」を詠んだ歌をいくつか上げてみよう。
④行く人を招くか野辺の花すすき今宵もここに旅寝せよとや (金葉集 秋 238)
⑤さらでだに心のとまる秋の野にいとども招く花すすきかな (後拾遺 秋 326)
⑥霜枯れの冬野に立てるむらすすきほのめかさばや思ふこころを (後拾遺 恋 609)
④⑤は、「すすき」の穂が風になびいている様子を、手招きしていると擬人的に理解していて、「すすきが招く」という趣向は、「すすき」の古歌では常套的である。⑥は、あなたを思う恋心を、すすきの穂のようにほのめかしたいという意味で、穂が出ることを「本心が出てしまうこと」の比喩と理解している。このような趣向も「すすき」の歌では常套的である。
以上のように、古歌の中では「すすき」と「おぎ」ははっきり区別して詠まれている。古人は植物としての「すすき」と「おぎ」を区別して理解していからこそ、歌の中でもその趣向を区別して詠んでいるのである。現代人には、「すすき」の穂を恋の本心を表に出すことと理解するのは無理としても、せめて「おぎ」の葉擦れの音に秋の到来を感じ取り、なびくすすきの穂を手招きをする仕草に見ることくらいはできるのではなかろうか。
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