東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな (拾遺和歌集)
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ (大鏡 巻二)
この歌には「流され侍りける時、家の梅の花を見侍りて」という詞書が添えられている様に、菅原道真が大宰府へ左遷される時に、大切にしていた梅の木に対して詠んだという歌で、あまりにもよく知られています。古来、「春を忘るな」「春な忘れそ」のどちらが本当かとか、どちらが歌として優れているかとか、議論があるのですが、つまらない話だと思っています。『拾遺和歌集』は寛弘2- 3年(1005- 1006年)頃に編纂されたので、時期が早いのですから、道真が詠んだのは「春を忘るな」の方であり、後に『大鏡』の著者が意図するところがあって改作したと考えるのが自然でしょう。どちらが良いかということについては、好みの問題でしかありません。私は歌人でも文学愛好家でもなく、高校で日本史を教えていた者ですから、良い悪いの議論より、道真が詠んだのはどちらかという方が重要なことと思っています。
「東風」についても、様々な議論があります。陰陽五行説によれば、春は東に配されていて、春風は「東風」と表記されることがありました。また春は東の方角から来ると理解されていました。そのような古代中国の理解は早くから日本に伝えられていて、多くの古歌にも詠まれています。皇太子を「東宮」と書いて「とうぐう」と音読みしますが、訓読みでは「はるのみや」と読むのも、みなこのような理解によっています。
ところがネット情報の中には、東風を文字通りの東の方から吹いてくる風と解説しているものがかなりあるのです。しかし春先の移動性高気圧は文字通り移動しているのですから、移動するにつれて風向きは変わります。大気の渦巻きなのですから、当たり前のことです。「東風」はあくまで文学的歴史的表現であって、実際の風向きではありません。
中には、東風を「こち」と呼ぶのは瀬戸内海の漁師言葉に起原があると説明しているものもあります。瀬戸内には、「鰆(さわら)ごち」「梅ごち」「桜ごち」というように、「こち」を含む複合語があり、いずれも実際に東から吹いてくる風を指しているというのです。
しかしこれらは現代の言葉であって、まあ江戸時代くらいまでは遡るかもしれませんが、古代の土俵には乗せられません。平安時代の東風が漁師言葉に起源をもつことを検証できる材料などないのです。現代に採録された資料では話になりません。国語辞典や古語辞典で「東風」を検索すると、確かに東の方から吹く風という解説があるものもあります。しかし歌の解釈というものは、単語に分割してそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせるだけでは、正しく理解できないものです。「東風」を文字通り東から吹く風と理解し、その根拠として瀬戸内方言を上げている人は、そのような誤りを犯しています。この場合は、平安時代に「東」という言葉がどのように理解されていたかを総合的に検証し、それでようやく「東風」という言葉の理解にたどりつけるのです。東風を文字通り東の方角から吹く風という意味で用いている平安時代から江戸時代の用例を見つけられるのですか? 平安時代に「東」がどのような意味を持っていたか、確認した上でのことなのですか? 私自身が見逃しているのかもしれませんから断定は避けますが、いまだかつて見たことがありません。平安時代に東風を東から吹く風の意味で用いられている例がいくつもあるならばよいのですが、それが全く見当たらないのです。
古歌の「東風」の用例としては、『夫木和歌抄』に「こち風にとけ行く池の氷うすみ鴛の羽ぶきも春めきにけり」という歌があります。これは明らかに『礼記』月令の「孟春之月・・・・東風凍を解く」を踏まえたものです。つまり中国には「東風、つまり春風が吹いて氷が解ける」という理解があり、それがそのまま古人の季節理解となっているのです。東風について論ずるならば、そこまで確認した上でなければなりません。
俳句の季語としてあると反論されるかもしれませんが、江戸時代の俳諧歳時記には漁師言葉としての東風は見当たりません。みな春風という意味で書かれています。ただこの場合、大宰府の道真から見れば東の方から吹いて来る風が都合がよいのですから、たまたま方角が一致しただけのことです。
とにかく瀬戸内地方の方言云々ということは、平安時代のことを現代の言葉で論証するわけですから、お話にならないのです。また繰り返しになりますが、単語の意味を一つ一つ検索してつないでみたところで、それは古歌を理解したことにはならないということを強調しておきましょう。
ついでのことですが、ネット情報には「太宰府」という表記が多いのですが、古代の行政組織名としては「大宰府」が正解です。ただし奈良時代から両者の混同が始まり、中世には「太宰府」が増え始め、近世以降は専ら「太宰府」となりました。そのため現在の行政区画としては「太宰府」でよいのですが、本来は「大宰府」と表記されるべきものでした。
梅の香を詠んだ歌は枚挙に暇がありません。ただし『万葉集』には約120首も梅を詠んだ歌があるのに、香を詠んだ歌は1首しかありません。何とも不思議なことです。梅に限らず、『万葉集』には花の香を詠んだ歌は大変少なく、奈良時代の人は香というものにあまり関心がなかったようです。
「おこす」は漢字で書けば「遣す」なのですが、子供の頃は「起こす」だとばかり思っていました。現代の言葉なら「送ってよこす」といったところでしょう。風に梅の香を寄こしてほしいと頼む発想は、王朝時代の歌にはしばしば見られるものです。
この梅は後に主のいる大宰府に飛んでいったとされ、その話は「飛び梅伝説」と呼ばれています。この「・・・・と伝えられています」という書き方には、私はかなり腹が立つのです。まるで伝言ゲームの様にして現代に伝わったようではありませんか。それとも伝説となっている文献史料を、直接その目で確認でもしたのですか。伝説ではなく、実際に文献上に記録があるのに、なぜ「・・・・と伝えられている」という書き方をするのでしょうか。梅の木が主を慕って飛んでいったと理解されていたことは歴史事実なのですから、そのことを証明する文献史料を示せばよいのです。「・・・・と伝えられています」という書き方をする人に聞いたみたい。あなたは飛梅のことを記述した原典資料をその目で確認していないのではないですか、と。あやふやな伝言ではなく、しっかりとした文献史料があるのです。確認したこともないのに、先行する情報などを鵜呑みにして、そのように書いているだけではありませんか。おそらくは原典史料など全く確認もせず、何か先行する記述を吟味もせず適当に摘み食いしているに違いありません。
きちんと確認した人は、「・・・・と伝えられています」というような無責任な書き方はしないことでしょう。「『 』という書物によれば・・・・」と正確に根拠を示して書くはずです。根拠があるから説得力があるのですから。「・・・・と伝えられています」という書き方をしている解説を見ると、この飛梅の話に限らず、私はその解説に書いてあることを信用しません。自分で確かな根拠を確認もせず、何か他の情報を適当に借用して書いていることを、自ら宣伝しているようなものだからです。ネット上には情報が溢れていますが、玉石混淆ですから、信用できる情報かどうかを見極める必要があります。
鎌倉時代中期の宝治元年頃(1247年頃)に成立した『源平盛衰記』の32巻には、「住みなれし故郷の恋しさに、常は都の空をぞ御覧じける。頃は二月の事なるに、日影長閑に照らしつつ、東風の吹きけるに思し召し出づる御事多かりける中に、こち吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るなと詠じければ、天神の御所高辻東洞院紅梅殿の梅の枝割け折れて、雲井遥かに飛び行きて、安楽寺へぞ参りける。」と記されています。もちろん実際にはあり得ない話ですが、鎌倉時代中期には、梅の木が飛んで行ったという「飛び梅伝説」が存在していたことが確認できます。 また建長四年(1252年)に成立した『十訓抄』第六「忠直を存ずべき事」には、「菅家、大宰府におぼしめしたちけるころ、東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ、と詠みおきて、都を出でて、筑紫に移り給ひて後、かの紅梅殿、梅の片枝、飛び参りて、生ひ付きにけり」と記されています。また応安四年頃(1371年頃)に成立した『太平記』巻第十二「大内裏造営事付聖廟御事」にも記されてい.るのです。
追記1
「この「こち」は東風で問題ないだろうと思います。これは近畿地方中部(京阪神地区)で暮らしてみればわかることです。中国から概念を輸入してそのまま奈良や京都で定着したのでしょう。・・・・」とのコメントを頂きました。まずは態々コメントをして下さったことを感謝いたします。
しかし御高説には同意できません。確かに現在の古語辞典には東の方から吹く風という意味も書いてあります。しかし古典に登場する「東風」で、明らかに方角に意味を持たせている例を見つけることができません。春風という意味の例はいくつかあります。(そもそも「東風」という言葉はあまり使われていないのです) もし道真の頃に東風を東から吹く風という意味で使用している例があるなら、御説のようなことも有り得るでしょう。しかしそれがないのです。ただ私の見落としもあるかもしれませんから、もしあれば御教示下さい。
「中国から概念を輸入してそのまま奈良や京都で定着した」からこそ東風は東から吹く風ではないのではないのでしょうか。『礼記』の月令に「孟春之月・・・・東風凍を解く」と記されていることが、まさに中国での東風理解ではありませんか。道真は文章博士ですから、ことさらに漢籍に詳しく、それはとはとっくに承知です。というよりは、当時の官僚クラスの人なら知らない人は誰一人いない程の常識でした。当時の人にとって「東風」と言えば、誰もが春風のことと思ったことでしょう。また江戸時代の歳時記に、東風を東から吹く風と説明している例がありません。
「文学研究者は文字に拘泥するばかりに自然科学とりわけ地理・地誌に疎い人が多く、地質学・気象学的にあり得ない信じがたいような珍説を披露することがあります」とのことですが、確かにそのようなことはあると思います。しかし私事ですが、中学高校の6年間、気象・地質部で活動していた私としては、学者レベルまでとは行きませんが、その方面の勉強はかなりしたつもりです。
歌の解釈はその当時の言葉の意味で説明できなければなりません。現代の意味で解釈することは、絶対にしてはいけないことだと思います。繰り返しますが、とにかく平安時代に東風を東から吹くかぜという意味で使っている例がありません。
思い付くまま乱文ですみません。とにかくコメントを有り難く感謝いたします。
追記2
次の様なコメントを頂きました。まずはコメントをお送り下さいましたことに感謝いたします。
「愛知では春になって東から吹いて来る風を、『こちかぜ』と呼んでいます。うちは農家ですので、とくに文学歴史に詳しい訳では無く、昔から地元で使われている言葉だと思います。」
地域特有の言葉については特に詳しく勉強したわけではありませんので、その様な事実があるという情報はありがたく頂戴いたします。東の方から吹く風という理解がありますよ、という情報提供としてお送り下さったものと理解しています。
しかしそれはそれとして、現代の言葉の理解をそのまま平安時代に当てはめることは出来ません。とにかく平安時代に「こち」を「東から吹く風」と理解した歌が見当たりませんし、江戸時代の主要な歳時記にもその様な理解が見当たらないからです。ただし「東」が「春」の別称であることを知らなかった江戸時代の市民が、字面通りに「東風」を「東の方から吹く風」と単純に理解してしまったということは、可能性としてはあり得るでしょう。しかしくどいようですが、江戸時代の各種の歳時記には、そのような理解は見当たらないのです。「昔から地元で使われている」とのことですが、その「昔」がどこまで遡れるのか確認できなければ、道真の歌の「東風」とは全く関係ありません。平安時代の歌は、平安時代の言葉の意味で解釈しなければならない。これは和歌の解釈では基本中の基本であり、絶対に踏み外してはならないことだと思います。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ (大鏡 巻二)
この歌には「流され侍りける時、家の梅の花を見侍りて」という詞書が添えられている様に、菅原道真が大宰府へ左遷される時に、大切にしていた梅の木に対して詠んだという歌で、あまりにもよく知られています。古来、「春を忘るな」「春な忘れそ」のどちらが本当かとか、どちらが歌として優れているかとか、議論があるのですが、つまらない話だと思っています。『拾遺和歌集』は寛弘2- 3年(1005- 1006年)頃に編纂されたので、時期が早いのですから、道真が詠んだのは「春を忘るな」の方であり、後に『大鏡』の著者が意図するところがあって改作したと考えるのが自然でしょう。どちらが良いかということについては、好みの問題でしかありません。私は歌人でも文学愛好家でもなく、高校で日本史を教えていた者ですから、良い悪いの議論より、道真が詠んだのはどちらかという方が重要なことと思っています。
「東風」についても、様々な議論があります。陰陽五行説によれば、春は東に配されていて、春風は「東風」と表記されることがありました。また春は東の方角から来ると理解されていました。そのような古代中国の理解は早くから日本に伝えられていて、多くの古歌にも詠まれています。皇太子を「東宮」と書いて「とうぐう」と音読みしますが、訓読みでは「はるのみや」と読むのも、みなこのような理解によっています。
ところがネット情報の中には、東風を文字通りの東の方から吹いてくる風と解説しているものがかなりあるのです。しかし春先の移動性高気圧は文字通り移動しているのですから、移動するにつれて風向きは変わります。大気の渦巻きなのですから、当たり前のことです。「東風」はあくまで文学的歴史的表現であって、実際の風向きではありません。
中には、東風を「こち」と呼ぶのは瀬戸内海の漁師言葉に起原があると説明しているものもあります。瀬戸内には、「鰆(さわら)ごち」「梅ごち」「桜ごち」というように、「こち」を含む複合語があり、いずれも実際に東から吹いてくる風を指しているというのです。
しかしこれらは現代の言葉であって、まあ江戸時代くらいまでは遡るかもしれませんが、古代の土俵には乗せられません。平安時代の東風が漁師言葉に起源をもつことを検証できる材料などないのです。現代に採録された資料では話になりません。国語辞典や古語辞典で「東風」を検索すると、確かに東の方から吹く風という解説があるものもあります。しかし歌の解釈というものは、単語に分割してそれぞれの単語の意味をつなぎ合わせるだけでは、正しく理解できないものです。「東風」を文字通り東から吹く風と理解し、その根拠として瀬戸内方言を上げている人は、そのような誤りを犯しています。この場合は、平安時代に「東」という言葉がどのように理解されていたかを総合的に検証し、それでようやく「東風」という言葉の理解にたどりつけるのです。東風を文字通り東の方角から吹く風という意味で用いている平安時代から江戸時代の用例を見つけられるのですか? 平安時代に「東」がどのような意味を持っていたか、確認した上でのことなのですか? 私自身が見逃しているのかもしれませんから断定は避けますが、いまだかつて見たことがありません。平安時代に東風を東から吹く風の意味で用いられている例がいくつもあるならばよいのですが、それが全く見当たらないのです。
古歌の「東風」の用例としては、『夫木和歌抄』に「こち風にとけ行く池の氷うすみ鴛の羽ぶきも春めきにけり」という歌があります。これは明らかに『礼記』月令の「孟春之月・・・・東風凍を解く」を踏まえたものです。つまり中国には「東風、つまり春風が吹いて氷が解ける」という理解があり、それがそのまま古人の季節理解となっているのです。東風について論ずるならば、そこまで確認した上でなければなりません。
俳句の季語としてあると反論されるかもしれませんが、江戸時代の俳諧歳時記には漁師言葉としての東風は見当たりません。みな春風という意味で書かれています。ただこの場合、大宰府の道真から見れば東の方から吹いて来る風が都合がよいのですから、たまたま方角が一致しただけのことです。
とにかく瀬戸内地方の方言云々ということは、平安時代のことを現代の言葉で論証するわけですから、お話にならないのです。また繰り返しになりますが、単語の意味を一つ一つ検索してつないでみたところで、それは古歌を理解したことにはならないということを強調しておきましょう。
ついでのことですが、ネット情報には「太宰府」という表記が多いのですが、古代の行政組織名としては「大宰府」が正解です。ただし奈良時代から両者の混同が始まり、中世には「太宰府」が増え始め、近世以降は専ら「太宰府」となりました。そのため現在の行政区画としては「太宰府」でよいのですが、本来は「大宰府」と表記されるべきものでした。
梅の香を詠んだ歌は枚挙に暇がありません。ただし『万葉集』には約120首も梅を詠んだ歌があるのに、香を詠んだ歌は1首しかありません。何とも不思議なことです。梅に限らず、『万葉集』には花の香を詠んだ歌は大変少なく、奈良時代の人は香というものにあまり関心がなかったようです。
「おこす」は漢字で書けば「遣す」なのですが、子供の頃は「起こす」だとばかり思っていました。現代の言葉なら「送ってよこす」といったところでしょう。風に梅の香を寄こしてほしいと頼む発想は、王朝時代の歌にはしばしば見られるものです。
この梅は後に主のいる大宰府に飛んでいったとされ、その話は「飛び梅伝説」と呼ばれています。この「・・・・と伝えられています」という書き方には、私はかなり腹が立つのです。まるで伝言ゲームの様にして現代に伝わったようではありませんか。それとも伝説となっている文献史料を、直接その目で確認でもしたのですか。伝説ではなく、実際に文献上に記録があるのに、なぜ「・・・・と伝えられている」という書き方をするのでしょうか。梅の木が主を慕って飛んでいったと理解されていたことは歴史事実なのですから、そのことを証明する文献史料を示せばよいのです。「・・・・と伝えられています」という書き方をする人に聞いたみたい。あなたは飛梅のことを記述した原典資料をその目で確認していないのではないですか、と。あやふやな伝言ではなく、しっかりとした文献史料があるのです。確認したこともないのに、先行する情報などを鵜呑みにして、そのように書いているだけではありませんか。おそらくは原典史料など全く確認もせず、何か先行する記述を吟味もせず適当に摘み食いしているに違いありません。
きちんと確認した人は、「・・・・と伝えられています」というような無責任な書き方はしないことでしょう。「『 』という書物によれば・・・・」と正確に根拠を示して書くはずです。根拠があるから説得力があるのですから。「・・・・と伝えられています」という書き方をしている解説を見ると、この飛梅の話に限らず、私はその解説に書いてあることを信用しません。自分で確かな根拠を確認もせず、何か他の情報を適当に借用して書いていることを、自ら宣伝しているようなものだからです。ネット上には情報が溢れていますが、玉石混淆ですから、信用できる情報かどうかを見極める必要があります。
鎌倉時代中期の宝治元年頃(1247年頃)に成立した『源平盛衰記』の32巻には、「住みなれし故郷の恋しさに、常は都の空をぞ御覧じける。頃は二月の事なるに、日影長閑に照らしつつ、東風の吹きけるに思し召し出づる御事多かりける中に、こち吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るなと詠じければ、天神の御所高辻東洞院紅梅殿の梅の枝割け折れて、雲井遥かに飛び行きて、安楽寺へぞ参りける。」と記されています。もちろん実際にはあり得ない話ですが、鎌倉時代中期には、梅の木が飛んで行ったという「飛び梅伝説」が存在していたことが確認できます。 また建長四年(1252年)に成立した『十訓抄』第六「忠直を存ずべき事」には、「菅家、大宰府におぼしめしたちけるころ、東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ、と詠みおきて、都を出でて、筑紫に移り給ひて後、かの紅梅殿、梅の片枝、飛び参りて、生ひ付きにけり」と記されています。また応安四年頃(1371年頃)に成立した『太平記』巻第十二「大内裏造営事付聖廟御事」にも記されてい.るのです。
追記1
「この「こち」は東風で問題ないだろうと思います。これは近畿地方中部(京阪神地区)で暮らしてみればわかることです。中国から概念を輸入してそのまま奈良や京都で定着したのでしょう。・・・・」とのコメントを頂きました。まずは態々コメントをして下さったことを感謝いたします。
しかし御高説には同意できません。確かに現在の古語辞典には東の方から吹く風という意味も書いてあります。しかし古典に登場する「東風」で、明らかに方角に意味を持たせている例を見つけることができません。春風という意味の例はいくつかあります。(そもそも「東風」という言葉はあまり使われていないのです) もし道真の頃に東風を東から吹く風という意味で使用している例があるなら、御説のようなことも有り得るでしょう。しかしそれがないのです。ただ私の見落としもあるかもしれませんから、もしあれば御教示下さい。
「中国から概念を輸入してそのまま奈良や京都で定着した」からこそ東風は東から吹く風ではないのではないのでしょうか。『礼記』の月令に「孟春之月・・・・東風凍を解く」と記されていることが、まさに中国での東風理解ではありませんか。道真は文章博士ですから、ことさらに漢籍に詳しく、それはとはとっくに承知です。というよりは、当時の官僚クラスの人なら知らない人は誰一人いない程の常識でした。当時の人にとって「東風」と言えば、誰もが春風のことと思ったことでしょう。また江戸時代の歳時記に、東風を東から吹く風と説明している例がありません。
「文学研究者は文字に拘泥するばかりに自然科学とりわけ地理・地誌に疎い人が多く、地質学・気象学的にあり得ない信じがたいような珍説を披露することがあります」とのことですが、確かにそのようなことはあると思います。しかし私事ですが、中学高校の6年間、気象・地質部で活動していた私としては、学者レベルまでとは行きませんが、その方面の勉強はかなりしたつもりです。
歌の解釈はその当時の言葉の意味で説明できなければなりません。現代の意味で解釈することは、絶対にしてはいけないことだと思います。繰り返しますが、とにかく平安時代に東風を東から吹くかぜという意味で使っている例がありません。
思い付くまま乱文ですみません。とにかくコメントを有り難く感謝いたします。
追記2
次の様なコメントを頂きました。まずはコメントをお送り下さいましたことに感謝いたします。
「愛知では春になって東から吹いて来る風を、『こちかぜ』と呼んでいます。うちは農家ですので、とくに文学歴史に詳しい訳では無く、昔から地元で使われている言葉だと思います。」
地域特有の言葉については特に詳しく勉強したわけではありませんので、その様な事実があるという情報はありがたく頂戴いたします。東の方から吹く風という理解がありますよ、という情報提供としてお送り下さったものと理解しています。
しかしそれはそれとして、現代の言葉の理解をそのまま平安時代に当てはめることは出来ません。とにかく平安時代に「こち」を「東から吹く風」と理解した歌が見当たりませんし、江戸時代の主要な歳時記にもその様な理解が見当たらないからです。ただし「東」が「春」の別称であることを知らなかった江戸時代の市民が、字面通りに「東風」を「東の方から吹く風」と単純に理解してしまったということは、可能性としてはあり得るでしょう。しかしくどいようですが、江戸時代の各種の歳時記には、そのような理解は見当たらないのです。「昔から地元で使われている」とのことですが、その「昔」がどこまで遡れるのか確認できなければ、道真の歌の「東風」とは全く関係ありません。平安時代の歌は、平安時代の言葉の意味で解釈しなければならない。これは和歌の解釈では基本中の基本であり、絶対に踏み外してはならないことだと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます