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梅の花が散ることの表現

2019-01-30 10:31:28 | 短歌
 まだ立春前ですが、早くも春告げ花の梅が咲き始めました。そこで梅の花について、ネット情報を見ていて少々気になったことを一つ。花が散ることには独特の表現があり、梅の場合は「こぼれる」というと記されています。ついでのことですが、桜は「散る」、椿は「落ちる」、朝顔は「しぼむ」、菊は「舞う」、牡丹は「崩れる」、萩も「こぼれる」だそうです。そしてこのような記事は決まって、「日本語は美しい」という結論に導こうとしています。

 もちろん私も美しい言葉であると思いますし、同じ散るにも微妙な違いを実に的確に表現していると思います。さりげなくこのような表現を日常的に使ってみたいとも思います。ですからその様な記事自体が間違っているとは少しも思いません。しかしそのような表現がいつ頃から出現するのか全く触れられていません。またこのようなネット情報に多く共通していることなのですが、出典や用例や史料的根拠が明示されていません。これでは結論だけ書かれても、本当にそうなのかどうか再検証のしようがないではありませんか。ネット情報は玉石混淆であり、事実に基づいて書かれているかどうか、検証が必要なのです。

そのような記事を書いている人に尋ねてみたい。あなたはそのような言葉を使った文や詩歌を、自分で読んで直接に確認したことがあるのですか。たった一つあったなんて言う程度では不十分ですよ。「梅の花が散ることは、『こぼれる』というものなのです」と公言しているのですから、そのような例文を普通にいくつも示せなくてはなりません。しつこいようですが、本当に御自身で確認し、出典をいくつも示せるのですか。おそらく確認していないのでしょう。先行する似たような情報を、その精度も確認せず、適当に摘まみ食いしているだけではありませんか。確かに明治期以後の短歌や詩にはいくつか見当たります。しかし明治期以後でさえ、普遍的に共有されていたことを示す例などありません。ましてそれ以前には、広く共有されていたことを示す例など、何一つないのです。ここまで言われて口惜しかったら、やれるものなら出典をある程度まとまった数で示してごらんなさい。それを示してから説いてご覧なさい。お手並みを拝見したいものです。敢えて過激な表現を使っていますが、それは反論を期待しているからです。
 「・・・・と言われている」とまで言うならば、ある人が詩的想像力によってそのような表現をしたことがあるという程度では、共通理解されていたことにはなりません。そもそも多くの人が「散る」と表現している状況でこそ、感性の豊かな人が「こぼれる」「舞う」などと個性的に表現するから面白いのであって、この花の場合は「こぼれる」などと決めてかかること自体、不自然なことと思わないのですか。誰かが「梅の花が散っている」と言うのを聞き、「梅の花の場合は、散るではなく『こぼれる』と言うものなのですよ」などと、いかにも「御存じないようなので、教えて差し上げます」と言わんばかりの御節介は、腹立たしくなります。何と表現しようと自由ではありませんか。もちろん「梅がこぼれる」も結構です。しかし「・・・・と言うのが本来の正しい言葉である」というように決めつけることは止めてほしいものです。概して華道や茶道を嗜んでいる人の情報に多く見られるのは、師範・師匠の方が指導する際に話しているからなのかもしれません。いい加減な情報が独り歩きして、既成事実化しないことを願うばかりです。

それより「朝顔がしぼむ」、「椿が落ちる」なら小学生でも使う表現です。とりたてて言うことの程ではありません。風流人である蕪村に「牡丹散りて打ち重なりぬ二三片」「ちりて後おもかげにたつぼたん哉」という俳諧があります。なぜ「くずれる」と詠まないのでしょうか。牡丹ならば「くずれる」が風流な詠み方であったというなら、蕪村程の風流人なら見逃すはずがないではありませんか。また現代俳句の祖とも言うべき子規に「ほろほろと椿こぼるる彼岸かな」という俳句があります。これをどのように説明するのでしょうか。
 
 私は主に万葉集から鎌倉時代にかけての和歌を研究していますが、梅がこぼれるという表現を見たことがありません。記憶力が衰えているので、忘れてしまったこともあるかもしれないのですが、少なくとも八代集にはありませんし、まして広く用いられていたことなど、一切ありません。何一つありません。梅の花が散ることについては、そのまま素直に「散る」と表現されています。また菊についても、「舞う」という表現もありません。菊は花びらが落ちませんから、さすがに「散る」とは表現されず、「移ろふ」と詠まれます。ここまで言うからには、私はいくつでも根拠となる古歌を示すことは出来ます。白菊は霜に当たると赤紫色に変化するのですが、それを一年に二回も咲くと喜ぶ歌はあります。しかし「舞う」などと表現する歌は、少なくとも鎌倉時代以前には、そのような表現は共有されていないのです。とにかく、菊の花の最後を「舞う」(舞ふ)と表現する歌を示して見せて下さい。それができないなら、いかにも「教えて差し上げます」的な押しつけは、もう止めにしませんか。



 ネット情報には信用できない記事が多いものです。特に「・・・・と言われています」と言って、出典や根拠を示さない情報には注意しなければなりません。

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