日本往生極楽記
原文
沙門弘也(空也(くうや))、父母を言はず、亡命して世に在り。或(あるい)は云ふ、潢流(こうりゆう)より出(い)でたりと。口に常に弥陀仏を唱(とな)ふ。故に阿弥陀聖(あみだひじり)と号(なづ)く。或は市中に住みて仏事を作(な)し、又市聖(いちのひじり)と号く。嶮(けわ)しき路に遇(あ)ひては即ち之(これ)を鏟(けず)り、橋無きに当りては亦之を造り、井無きを見ては則(すなわ)ち之を掘る。号(なづ)けて阿弥陀の井と曰ふ。・・・
一鍛冶(かじ)の工(たくみ)、上人に遇(あ)ふ。金を懐(いだ)きて帰り、陳(の)べて曰く。「日暮れ路遠くして、怖畏(いふ)无(な)きに非(あら)ず」と。上人教へて曰く。「阿弥陀仏を念ずべし」と。工人中途、果して盗人に遇(あ)ふ。心竊(ひそか)に念仏して、上人の言の如くす。盗人来り見て、市聖(いちのひじり)と称して去る。・・・・
上人遷化(せんげ)の日、浄衣(じようえ)を著(き)、香爐(こうろ)を擎(ささ)げ、西方に向ひ、以て端坐し、門弟子に語りて曰く。「多くの仏・菩薩、来迎(らいごう)引摂(いんじよう)したまふ」と。気絶(た)えて後、猶(なお)香爐を擎(ささ)げたり。此時、音楽空に聞こえ、香気室に満てり。嗚呼(ああ)、上人、化縁(けえん)已(すで)に尽きて極楽に帰り去る。
天慶(てんぎよう)以往、道場聚落(しゆうらく)に念仏三昧(ざんまい)を修すること希有(けう)なりき。何(いか)に況(いわん)や、小人愚女多くこれを忌(い)む。上人来りて後は、自ら唱(とな)へ、他をして之を唱へしむ。爾後(じご)世を挙げて念仏を事と為(な)す。誠に是(これ)上人の衆生を化度(けど)するの力也。
現代語訳
修行者空也は、その父母(出生)については何も語らず、本籍を離れていた。或いは皇族の流れを汲むとも言われた。常に念仏を唱えていたので、世の人は「阿弥陀聖(ひじり)」と呼んでいた。あるいは都の市(いち)に住んで仏に仕えていたので、「市(いち)の聖」とも呼んでいた。険しい道があればこれを削って平らかにし、橋がない所に行き当たれば橋を架け、井戸がないのを見れば井戸を掘ったので、人々はそれを「阿弥陀の井戸」と呼んだ。・・・・
ある時、一人の鍛冶屋が空也上人に出会った。大金を懐(ふところ)に抱えて帰るところで、空也上人に「もう日が暮れましたが、帰路はまだ遠く、心配でございます」と申し上げた。すると空也上人は「(恐ろしい時には)阿弥陀如来を念じなされ」と教えた。そして案の定、鍛冶屋は途中で盗人に出遭ってしまった。それで空也上人に教えられた様に、心密かに阿弥陀如来を念じたところ、盗人は「これは市の聖であったか」と言って、どこかへ行ってしまった。・・・・
空也上人が亡くなる日、上人は浄衣(じようえ)を身に着け、香炉を捧げ持ち、西の方角に向いて正坐し、弟子達に「諸仏諸菩薩が、極楽から迎えに来られる」と言われた。そして意識がなくなった後も、なお香炉を捧げ持ったままであった。その時、空には音楽が聞こえ、部屋には芳香が満ちていた。ああ、空也上人は人々を仏に導く因縁を果たし終え、極楽にお帰りになられたのであった。
天慶の頃より前は、念仏道場にやって来てひたすら念仏を修する人は、大変少なかった。まして子供や女供は、念仏を唱えようとはしなかった。しかし空也上人が来てからというもの、自ずから念仏を唱え、また人にも勧めて念仏を唱えるようになった。それ以来、世の中の人がみな念仏を唱えるようになったのは、実に空也上人が人々を感化する徳によるものである。
解説
『日本往生極楽記(にほんおうじようごくらくき)』は、文人官僚である慶滋保胤(よししげのやすたね)(?~1002)が著した、日本最初の往生伝(おうじようでん)です。保胤と親しかった『往生要集(おうじようようしゆう)』の著者である源信(げんしん)は、その下巻に「我朝の往生者、亦其の数有り。具(つぶさ)には慶氏の日本往生記に在り」と記して推奨しています。往生伝とは、極楽浄土に往生したとして敬慕されていた人々の、伝記を集めた書物で、唐では盛んに編纂されていました。「日本」を冠しているのは、「唐に倣って日本でも」ということを意図したからなのでしょう。聖徳太子・行基・円仁や空也から「一老婦」「一婦女」に至るまで、四五人の話が収められています。
往生伝には一つの型があります。日頃から往生極楽を願い、いよいよ臨終となると、不思議な徴(しるし)が現れて入滅する。その徴には、生きるが如き顔、衣の如く軽い身体、部屋に満ちる香気、天女の姿、空から聞こえる音楽、紫色の瑞雲、諸仏の来迎などがあります。そしてその徴こそが極楽往生の証拠である、というわけです。
ここに載せたのは空也伝の一部です。空也(903?~972)は出生について一切語らず、皇族出身であると語り伝えられました。二十歳頃に剃髪し空也と称しますが、正式に得度してはいませんでした。その後、念仏を勧め、福祉的菩薩行をしながら諸国を巡ります。そして三六歳の頃に京に戻り、人々が群集する市で念仏を勧め、「市の聖」と呼ばれていました。
空也が創建した西光寺、後に改称された六波羅蜜寺には、僧形の彫刻が残っていますから、出家した僧侶と思われていますが、比叡山で受戒して正式に僧侶となったのは四六歳の頃です。ですから京市中での活動を始めた頃は、ひたすら市中で菩薩行をする、「沙門(しやもん)」「沙弥(しやみ)」と呼ばれる、若い民間の修行者に過ぎませんでした。僧となってからも沙弥の名である「空也」で通したのは、庶民のために庶民と共に生きることこそ、己の使命としていたからにほかなりません。漢学者として当代第一級の文人官僚である源為憲(ためのり)が、空也の一周忌に書いた「空也上人誄(るい)」(しのびごと)には、比叡山の「戒壇院に登り大乗戒を受け、度縁(どえん)交名(きようみよう)して光勝と注す。然るに沙弥の名を改めず」と記されています。受戒して正式な僧となり、得度したことを証明する文書(度縁)には「光勝」と署名はしたが、沙弥の頃に名乗っていた「空也」の名のまま改めなかった、というのです。
末法思想の流行する中で、庶民に念仏を勧めて歩いた半僧半俗の民間修行者は、「阿弥陀(あみだ)聖(ひじり)」とも呼ばれ、念仏を勧めつつ、貧民の救済や、野原に累々と遺棄された遺体の埋葬を、厭うことなく行っていました。空也より半世紀前の記録ですが、『続日本後紀』という歴史書の承和九年(842)十月には、鴨河原あたりで五千五百もの髑髏(どくろ)を拾い集めて火葬したと記されています。空也もこのような葬送を行う「聖」の一人だったでしょう。慶滋保胤は空也より一世代若いだけですから、このような空也の姿を保胤は実際に目撃したはずです。聖徳太子以来数え切れない修行者や僧侶がいる中で、奈良時代の聖であった行基と共に、空也が選ばれているのは、保胤がそのような活動に余程感動したからにほかなりません。
「天慶年間(938~947年)には念仏信仰がそれ程広まっていなかったが、空也が活動を始めるとみな唱えるようになった」と記されていますが、「天慶」年間は平将門・藤原純友の乱の頃で、末法元年(1052)よりまだ百年以上前のことです。空也の教化の影響は大きく、大納言藤原師氏や前掲の源為憲(ためのり)らの貴族や、庶民、盗賊・囚人に至るまで及びました。『日本往生極楽記』には、盗賊が空也と錯覚したと記されていますから、空也の教化は、そのような階層にも及んでいたわけです。事実、平安末期の仏教説話集『打聞集』(1134年)には、空也が囚人教化のために、獄舎の門に尊像を刻んだ八尺の石塔を立てたことが記されています。囚人達はその尊像を拝し、苦しみから抜け出す因縁を得られると感激したことでしょう。空也は、天禄三年(972)、西光寺において七十歳(?)で入滅しました。源為憲は前掲の「空也上人誄(るい)」に、「赫々(かくかく)たる聖人、其の徳測ることなく、素(もと)より菩薩行なり」と讃えています。
空也の念仏は、あくまでも天台宗の諸修行の中の一つです。この頃にはまだ他の修行を棄ておいても念仏に専念する、専修念仏とはなっていません。それでも多くの行の中から念仏を特に重視していることが覗えます。そしてこの延長線上に、念仏に専修することを説いて浄土宗の宗祖となる法然が現れ、空也を「我が先達」と敬慕し、時宗の宗祖となる一遍が現れることになります。鴨長明著『発心集』(第七第二話)に、「わが国の念仏の祖師と申すべし」と記されている様に、空也こそは日本の浄土信仰の原点の一つだったのです。
最後に「市の聖」空也が市の門に書き付け、『拾遺和歌集』に収められた和歌を一首紹介しておきましょう。
一たびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『日本往生極楽記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
沙門弘也(空也(くうや))、父母を言はず、亡命して世に在り。或(あるい)は云ふ、潢流(こうりゆう)より出(い)でたりと。口に常に弥陀仏を唱(とな)ふ。故に阿弥陀聖(あみだひじり)と号(なづ)く。或は市中に住みて仏事を作(な)し、又市聖(いちのひじり)と号く。嶮(けわ)しき路に遇(あ)ひては即ち之(これ)を鏟(けず)り、橋無きに当りては亦之を造り、井無きを見ては則(すなわ)ち之を掘る。号(なづ)けて阿弥陀の井と曰ふ。・・・
一鍛冶(かじ)の工(たくみ)、上人に遇(あ)ふ。金を懐(いだ)きて帰り、陳(の)べて曰く。「日暮れ路遠くして、怖畏(いふ)无(な)きに非(あら)ず」と。上人教へて曰く。「阿弥陀仏を念ずべし」と。工人中途、果して盗人に遇(あ)ふ。心竊(ひそか)に念仏して、上人の言の如くす。盗人来り見て、市聖(いちのひじり)と称して去る。・・・・
上人遷化(せんげ)の日、浄衣(じようえ)を著(き)、香爐(こうろ)を擎(ささ)げ、西方に向ひ、以て端坐し、門弟子に語りて曰く。「多くの仏・菩薩、来迎(らいごう)引摂(いんじよう)したまふ」と。気絶(た)えて後、猶(なお)香爐を擎(ささ)げたり。此時、音楽空に聞こえ、香気室に満てり。嗚呼(ああ)、上人、化縁(けえん)已(すで)に尽きて極楽に帰り去る。
天慶(てんぎよう)以往、道場聚落(しゆうらく)に念仏三昧(ざんまい)を修すること希有(けう)なりき。何(いか)に況(いわん)や、小人愚女多くこれを忌(い)む。上人来りて後は、自ら唱(とな)へ、他をして之を唱へしむ。爾後(じご)世を挙げて念仏を事と為(な)す。誠に是(これ)上人の衆生を化度(けど)するの力也。
現代語訳
修行者空也は、その父母(出生)については何も語らず、本籍を離れていた。或いは皇族の流れを汲むとも言われた。常に念仏を唱えていたので、世の人は「阿弥陀聖(ひじり)」と呼んでいた。あるいは都の市(いち)に住んで仏に仕えていたので、「市(いち)の聖」とも呼んでいた。険しい道があればこれを削って平らかにし、橋がない所に行き当たれば橋を架け、井戸がないのを見れば井戸を掘ったので、人々はそれを「阿弥陀の井戸」と呼んだ。・・・・
ある時、一人の鍛冶屋が空也上人に出会った。大金を懐(ふところ)に抱えて帰るところで、空也上人に「もう日が暮れましたが、帰路はまだ遠く、心配でございます」と申し上げた。すると空也上人は「(恐ろしい時には)阿弥陀如来を念じなされ」と教えた。そして案の定、鍛冶屋は途中で盗人に出遭ってしまった。それで空也上人に教えられた様に、心密かに阿弥陀如来を念じたところ、盗人は「これは市の聖であったか」と言って、どこかへ行ってしまった。・・・・
空也上人が亡くなる日、上人は浄衣(じようえ)を身に着け、香炉を捧げ持ち、西の方角に向いて正坐し、弟子達に「諸仏諸菩薩が、極楽から迎えに来られる」と言われた。そして意識がなくなった後も、なお香炉を捧げ持ったままであった。その時、空には音楽が聞こえ、部屋には芳香が満ちていた。ああ、空也上人は人々を仏に導く因縁を果たし終え、極楽にお帰りになられたのであった。
天慶の頃より前は、念仏道場にやって来てひたすら念仏を修する人は、大変少なかった。まして子供や女供は、念仏を唱えようとはしなかった。しかし空也上人が来てからというもの、自ずから念仏を唱え、また人にも勧めて念仏を唱えるようになった。それ以来、世の中の人がみな念仏を唱えるようになったのは、実に空也上人が人々を感化する徳によるものである。
解説
『日本往生極楽記(にほんおうじようごくらくき)』は、文人官僚である慶滋保胤(よししげのやすたね)(?~1002)が著した、日本最初の往生伝(おうじようでん)です。保胤と親しかった『往生要集(おうじようようしゆう)』の著者である源信(げんしん)は、その下巻に「我朝の往生者、亦其の数有り。具(つぶさ)には慶氏の日本往生記に在り」と記して推奨しています。往生伝とは、極楽浄土に往生したとして敬慕されていた人々の、伝記を集めた書物で、唐では盛んに編纂されていました。「日本」を冠しているのは、「唐に倣って日本でも」ということを意図したからなのでしょう。聖徳太子・行基・円仁や空也から「一老婦」「一婦女」に至るまで、四五人の話が収められています。
往生伝には一つの型があります。日頃から往生極楽を願い、いよいよ臨終となると、不思議な徴(しるし)が現れて入滅する。その徴には、生きるが如き顔、衣の如く軽い身体、部屋に満ちる香気、天女の姿、空から聞こえる音楽、紫色の瑞雲、諸仏の来迎などがあります。そしてその徴こそが極楽往生の証拠である、というわけです。
ここに載せたのは空也伝の一部です。空也(903?~972)は出生について一切語らず、皇族出身であると語り伝えられました。二十歳頃に剃髪し空也と称しますが、正式に得度してはいませんでした。その後、念仏を勧め、福祉的菩薩行をしながら諸国を巡ります。そして三六歳の頃に京に戻り、人々が群集する市で念仏を勧め、「市の聖」と呼ばれていました。
空也が創建した西光寺、後に改称された六波羅蜜寺には、僧形の彫刻が残っていますから、出家した僧侶と思われていますが、比叡山で受戒して正式に僧侶となったのは四六歳の頃です。ですから京市中での活動を始めた頃は、ひたすら市中で菩薩行をする、「沙門(しやもん)」「沙弥(しやみ)」と呼ばれる、若い民間の修行者に過ぎませんでした。僧となってからも沙弥の名である「空也」で通したのは、庶民のために庶民と共に生きることこそ、己の使命としていたからにほかなりません。漢学者として当代第一級の文人官僚である源為憲(ためのり)が、空也の一周忌に書いた「空也上人誄(るい)」(しのびごと)には、比叡山の「戒壇院に登り大乗戒を受け、度縁(どえん)交名(きようみよう)して光勝と注す。然るに沙弥の名を改めず」と記されています。受戒して正式な僧となり、得度したことを証明する文書(度縁)には「光勝」と署名はしたが、沙弥の頃に名乗っていた「空也」の名のまま改めなかった、というのです。
末法思想の流行する中で、庶民に念仏を勧めて歩いた半僧半俗の民間修行者は、「阿弥陀(あみだ)聖(ひじり)」とも呼ばれ、念仏を勧めつつ、貧民の救済や、野原に累々と遺棄された遺体の埋葬を、厭うことなく行っていました。空也より半世紀前の記録ですが、『続日本後紀』という歴史書の承和九年(842)十月には、鴨河原あたりで五千五百もの髑髏(どくろ)を拾い集めて火葬したと記されています。空也もこのような葬送を行う「聖」の一人だったでしょう。慶滋保胤は空也より一世代若いだけですから、このような空也の姿を保胤は実際に目撃したはずです。聖徳太子以来数え切れない修行者や僧侶がいる中で、奈良時代の聖であった行基と共に、空也が選ばれているのは、保胤がそのような活動に余程感動したからにほかなりません。
「天慶年間(938~947年)には念仏信仰がそれ程広まっていなかったが、空也が活動を始めるとみな唱えるようになった」と記されていますが、「天慶」年間は平将門・藤原純友の乱の頃で、末法元年(1052)よりまだ百年以上前のことです。空也の教化の影響は大きく、大納言藤原師氏や前掲の源為憲(ためのり)らの貴族や、庶民、盗賊・囚人に至るまで及びました。『日本往生極楽記』には、盗賊が空也と錯覚したと記されていますから、空也の教化は、そのような階層にも及んでいたわけです。事実、平安末期の仏教説話集『打聞集』(1134年)には、空也が囚人教化のために、獄舎の門に尊像を刻んだ八尺の石塔を立てたことが記されています。囚人達はその尊像を拝し、苦しみから抜け出す因縁を得られると感激したことでしょう。空也は、天禄三年(972)、西光寺において七十歳(?)で入滅しました。源為憲は前掲の「空也上人誄(るい)」に、「赫々(かくかく)たる聖人、其の徳測ることなく、素(もと)より菩薩行なり」と讃えています。
空也の念仏は、あくまでも天台宗の諸修行の中の一つです。この頃にはまだ他の修行を棄ておいても念仏に専念する、専修念仏とはなっていません。それでも多くの行の中から念仏を特に重視していることが覗えます。そしてこの延長線上に、念仏に専修することを説いて浄土宗の宗祖となる法然が現れ、空也を「我が先達」と敬慕し、時宗の宗祖となる一遍が現れることになります。鴨長明著『発心集』(第七第二話)に、「わが国の念仏の祖師と申すべし」と記されている様に、空也こそは日本の浄土信仰の原点の一つだったのです。
最後に「市の聖」空也が市の門に書き付け、『拾遺和歌集』に収められた和歌を一首紹介しておきましょう。
一たびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『日本往生極楽記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
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