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『夢の代』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-07-24 13:28:57 | 私の授業
夢の代


原文
 元来、人及び禽獣(きんじゆう)・魚虫・草木といへども、少しづゝのそれ〴〵の差異はあるべきなれども、天地陰陽の和合むし立てにより、生死熟枯(じゆくこ)するもの、みな理を同じくして、天地自然のもの也。山川水火といへども、みな陰陽の外(ほか)ならず。別に神なし。
 又生熟するものは年数の短長はあれども、大ていそれ〴〵の持前ありて、死枯せざるはなし。生(しようず)れば智あり、神あり、血気あり、四支・心志・臓腑(ぞうふ)みな働き、死すれば智なし、神なし、血気なく、四支・心志・臓腑みな働らくことなし。然れば何(いず)くんぞ鬼あらん。又神あらん。生(いき)て働く処、これを神とすべき也。 ・・・・
 考へてみれば、異類異形の物も生(うま)るべきに、人は人を生み、犬は犬を生み、烏(からす)はからすを生む。狐(きつね)が狸(たぬき)を生まず、鳩(はと)が雀(すずめ)も生まず、梅の木に牡丹(ぼたん)も咲(さか)ず、瓜(うり)のつるに茄子(なす)も出来ざる也。扨(さて)も奇妙なるやうなれども、みな一定の理ありて、その中に存すること、亦奇ならずや。しかれば則(すなわち)、このあらゆる道理の外(ほか)に、あに神あらんや、あに仏あらんや。唯この陰陽の徳を以て万物を生々し、奇々妙々なるやうにして、亦奇々妙々ならず。不思議なるやうにて、亦不思議ならず。自然と道理そなはりて、生を遂(とぐ)る処をさして、聖人これを神と名(なづ)く。この神の外に神なし。人の死したるを鬼と名づく。これ亦死したる後は性根(しようね)なし、心志なし、この鬼の外に鬼なし。皆これこの理なり。この外(ほか)に何をか求め、何をか穿(うが)たん。

現代語訳
 もともと人や動物・魚虫・植物といえども、それぞれに少しずつ違いはあるだろうが、天地にある陰陽二気の相互作用により、生まれては滅び、熟しては枯れるが、それはみな同じ道理であり、それが自然のことである。山や川、水や火なども、全ては陰陽の働きに外(ほか)ならず、別段に神秘な秘密があるわけではない。
 また命あるものには、年数の長短はあるが、それぞれ固有の寿命があり、滅びないものなど何もない。生きていればこそ「智」があり、「神」(神秘)があり、「血気」があり、手足も「心志」(頭脳・精神)も内臓もみな機能するが、死ねば「智」もなく、「神」もなく、「血気」もなく、手足も「心志」も内臓もみな機能しない。そういうわけであるから、どうして「鬼」(霊魂)などがあるだろうか。また「神」(神秘)などがあるだろうか。生きて機能していること、これこそ「神」(神秘)とするべきものなのである。・・・・
 考えてみれば、異類異形のものが生まれてもよいのに、人は人を生み、犬は犬を生み、烏(からす)は烏を生む。狐は狸を生まず、鳩は雀を生まず、梅の木に牡丹(ぼたん)は咲かず、瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)はならない。何とも奇妙のようであるが、みな同じ道理であり、その道理の中にあることは、また奇妙ではないか。そうであるから、(人や動植物を生成させる)あらゆる道理以外に、どうして「神」があろうか、どうして「仏」があろうか。ただこの陰陽の働きにより万物が生まれるのであるが、これは奇妙のようであるが、決して奇妙ではなく、不思議のようであるが、決して不思議ではない。
 (生きているものには)自然の道理が具(そな)わっていて、それにより生命が営まれることを指して、古の聖人はこれを「神」と名付けたのである。これ以外に「神」というものはない。人が死ねばそれを「鬼」と呼ぶ。これまた死んでしまえば「性根(しようね)」もなく、「心志」もない。この「鬼」以外に、「鬼」など存在しないのである。全ての事は皆この道理に基づいている。これ以外に、いったい何を求め、追求しようというのか。(何もないではないか)。

解説
 『夢の代(ゆめのしろ)』は、大坂の升屋という米の仲買商の番頭である山片(やまがた)蟠桃(ばんとう)(1748~1821)が、晩年に著した随筆的思想書です。「蟠桃(ばんとう)」とは、「神仙の世界にある曲がりくねった桃の木」のことですが、「番頭」を掛けたとされています。書き始めたのは五五歳の享和二年(1802)で、視力がなくなった六十歳の頃にはほぼ脱稿しました。しかしその後も口述筆記により、文政四年(1821)に七四歳で亡くなるまで改訂し続けました。
 蟠桃はその序文の中で、大坂町人が共同で設立した懐徳堂で、中井竹山とその弟である中井履軒(りけん)に学んだことを、眠気を堪(こら)えながら書いたので『夢の代』と名付けたと書いています。またここに載せた「無鬼論」にも、「この書、外人(外(ほか)の人)に知らしむるにあらず。唯昼寝の代りに書置きて子孫にのこし、吾(わが)曾孫をして異端に陥らしめざるの警戒とするのみ」と記していますから、公表するつもりはありませんでした。
 具体的には、地動説・潮の干満・太陽暦採用・万有引力・西洋文字の能率性・世界地誌・地球上における日本の地理的位置・植民地主義批判・神代史批判・古代日中韓交流・源氏物語・土佐日記・太平記・刑罰と貨幣制度・冠婚葬祭・海外貿易・官位・度量衡・封建制と郡県制の優劣比較・農民の尊重・米価変動・備蓄米の必要性・四書五経・仏教批判・迷信排斥・健康法など、実に幅広い内容です。
 彼は学者ではありません。本職はあくまでも商人であり、仙台藩への大名貸の大金が返済されず、潰れそうになった升屋の経営と、仙台藩の財政再建に活躍しています。そのような激務の傍らに、懐徳堂で学んでいたのです。蟠桃は天文学者・数学者である麻田剛立(ごうりゆう)にも学び、蘭学者の志筑忠雄が訳述した天文・物理学書の『暦象新書(れきしようしんしよ)』も学んでいます。懐徳堂の学問はもちろん朱子学が中心であり、『夢の代』に記された全てを、懐徳堂で学んだというわけではありませんが、大坂商人共立学塾とも言うべき懐徳堂の、教育水準の高さは驚くべきものでした。
 ここに載せたのは、『夢の代』の中の「無鬼論」の一部です。「無鬼論」は全十二巻中二巻にわたっていて、太陽系外の恒星もそれぞれに惑星を持っていることを推論した「太陽明界の説」と「無鬼論」について、蟠桃は序文の中で、「太陽明界の説、及び無鬼の論に至りては、余が発明なきにしもあらず」と記していますから、かなりの確信を持っていました。
 「鬼」と言うと、いわゆる節分の鬼や地獄の獄吏(ごくり)を思い浮かべますが、蟠桃の言う「鬼」はdemonではありません。そもそも「鬼」とは、邪馬台国の卑弥呼が「鬼道に事(つか)へ」と記されているように、神秘的なことを表す言葉であり、また死者の霊魂を意味することもありました。「無鬼論」の「鬼」とは、「死」の概念を含んだ神秘的・霊的な概念の総称です。また「神」という言葉も盛んに使われていますが、信仰の対象となるgodではありません。それは人や動物を生成させる天地自然の道理、あるいはその神秘的な働きを指しています。ですから死んでしまえば「神なし」というわけです。前野良沢が『解体新書』を著す際に、あまりにも不可思議な働きを持つ故に訳しようがなく、「神経」と翻訳したのも、やはり「神」が神秘的なことを意味する言葉だったからです。要するに蟠桃は、自然を唯物論的、合理的に理解しているわけです。
 蟠桃は『夢の代』の末尾に次の歌を遺しています。「地獄なし極楽もなし我もなしただ有る物は人と万物」、「神仏(かみほとけ)化物(ばけもの)もなし世の中に奇妙不思議の事は猶(なお)なし」。これこそ『夢の代』の結論であり、蟠桃が最も主張したかったことでした。蟠桃が人智を超越する神秘を徹底否定したことは、彼が実利を重視する商人であったことと無関係ではないでしょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『夢の代』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。








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