大学を7年もかかって卒業した後、聖書の舞台を見てみたいと、しばらくイスラエルで生活していました。イスラエルと言っても春には緑の草原があるところもあれば、夏には草一本もない岩沙漠のようなところもあります。出エジプト記の背景も見たいと、シナイ半島の沙漠もあちこち放浪しました。
気温は何度あったのか、温度計を持っていなかったのでわかりません。そもそも気温は直射日光のもとでは正確に測れませんが、影らしいものは何しろ自分の影しかないのですから、測りようもありません。感覚的に40度以上になることもあったと思います。ただ湿度が極めて低いので、日陰なら耐えられないことはありませんでした。山裾のワジの日陰で野生の西瓜を発見した時は感動しましたね。迷わずかぶりつきましたが、余り甘くありませんでした。それでも「西の瓜」と書くことを納得したものです。
シナイ沙漠といっても、日本人が思い描くような砂丘はありません。どこまでも果てしなく広がる岩山だらけの岩沙漠です。そこでふと童謡『月の沙漠』を思い出しました。「こんな甘っちょろい歌なのは、本当の沙漠を知らない人が作詞したからだ」と、つくづく思ったことでした。
事実、帰国してから知ったことですが、作詞者の加藤まさを氏は、外国旅行はおろか、国内旅行もあまりしたことはないそうです。そしてその歌の舞台となったのは、千葉県の御宿の浜辺だということでした。そこで「ああ、やっぱりね」と一人で納得していました。別に歌の歌詞にケチをつけるのではありません。当時は沙漠でそう感じただけです。
以下、少々童謡「月の沙漠」について書きますが、あくまでも歌の考証ではなく、歌に触発されたとりとめもない沙漠の随想に過ぎません。脱線話が多くなりますが、お許し下さい。
まずは歌詞を載せておきましょう。
月の沙漠をはるばると 旅のラクダがゆきました 金と銀とのくら置いて 二つならんでゆきました
金のくらには銀のかめ 銀のくらには金のかめ 二つのかめにはそれぞれに ひもで結んでありました
先のくらには王子様 後のくらにはお姫様 乗ったふたりはおそろいの 白い上着を着てました
ひろい沙漠をひとすじに ふたりはどこへゆくのでしょう
おぼろにけぶる月の夜を 対のラクダはとぼとぼと 砂丘を越えてゆきました だまって越えてゆきました
まずは沙漠の月ですが、昼間の灼熱の太陽に比べ、穏やかな光は心を和ませることもありました。乾燥地帯の国で太陽をモチーフにした国旗がないのも、現地で納得したことです。それに対して月や星をモチーフにした国旗は大変に多く、三日月がイスラム教のシンボルと理解され、イスラム圏の救急車には、赤十字ではなく赤新月の社章がついています。もっともコーランに根拠があるわけではなく、オスマン帝国が北アフリカから東ヨーロッパ・中近東にまたがる大帝国となり、その国旗であった赤地に三日月と星の国旗が、そのままイスラム教のシンボルに横滑りしただけのことです。
歌詞には「おぼろにけぶる月」ということばがありますが、湿度が極端に低い沙漠では朧月はありえません。それこそ天球に孔が空いていて、そこから光が注いでいるかのように、煌々として輝く月ばかりでした。月の見えない時期には、天の河がくっきりと見え、それこそ宝石を砂の如くに散りばめたような夜空でした。作詞者は空想してイメージを膨らませたのでしょう。
童謡の挿絵を見ると、満月や欠けた月もありました。まあどちらでもよいでしょうが、右側が欠けた細い月は少々違和感を覚えました。そのような月は明け方に東の空低くみえますから、イメージがあわないのです。
次は駱駝について。西アジアにいる駱駝はヒトコブラクダです。それに対して中国やモンゴルなどの駱駝はフタコブラクダです。私が住んでいたところにいたのは、ヒトコブラクダでした。作詞者はアラブ圏の沙漠をイメージしたそうですから、ヒトコブラクダなのでしょう。挿絵を見ると明らかに二瘤というものはありませんので、それでよいと思います。沙漠では馬に代わる乗り物でしたが、一瘤の先端にまたがるので、乗る人の目の位置はかなり高いものでした。駱駝の四つ足を曲げて坐らせ、またがってから立たせるのですが、後ろ足を先に延ばすので、前のめりになります。つかまる物もなく、うっかりすると転げ落ちてしまいそうでした。
歌詞では駱駝には金銀の鞍が載せられ、これまた金銀の甕がくくりつけられているという設定です。まあ空想の世界ですから、これでよいのでしょう。もし実際であれば、あっという間に略奪されてしまいます。ただ金銀については現地で思うことがありました。エルサレムの旧市街の市場を歩くと、金銀の装飾品を扱う店が軒を連ねているのです。また沙漠の遊牧民の女性が、そのような装飾品を身に付けているのをたくさん見ました。貧乏暮らしの外国人留学生である私は、ただ冷やかしに覗くだけでしたが、余りの多さに圧倒されたものです。なぜこれ程までに沙漠の民は金銀宝飾にこだわりがあるのでしょうか。
沙漠の民にとっては、不動産は財産ではありません。水と草を求めて移動しますから、いざというときには全財産を身に付けたり抱えたりして、すぐにでも移動できなければなりません。そんなわけで、金銀宝飾が常に身近なところにあるのではないかと思いました。いつ迫害で追い立てられるかもしれなかったユダヤ人が、ダイヤモンド産業のネットワークをいまだに掌握しているのも、同じような理由でしょう。ユダヤ人にとって歴史的に財産となり得るものは、ポケットに入る金銀宝飾と、頭の中に入る教育だったのです。ユダヤ系の人にノーベル賞受賞者や世界的学者が多いのは、その様なことを背景に理解できます。
それに対してよくよく日本の歴史を思い返してみると、権力者と雖も金銀宝飾をジャラジャラと身に付けることはありませんでした。秀吉が金ぴかの茶室を作ったり、義満が金閣を作った程度でしょう。天皇陛下が外国の貴賓をお迎えになる部屋には、それらしき物は全くありません。あまりの簡素さに、これが「エンペラー」の部屋なのかと、驚くことでしょう。金銀宝飾に対する理解が、沙漠の遊牧民とは根本的に異なっていることを現地で痛感したものです。
それにしても金銀の鞍は理解できますが、金銀の甕はあり得ません。金箔や銀箔を貼った鞍はあり得ることです。しかし焼き物の甕に金箔を貼ることはあり得ません。貼ったら蒸散作用がなくなり、水温が上がってしまいます。まして本物の金銀なら重くなりますし、昼間は熱射で水が熱くなってしまいます。私が沙漠を旅した時はアルミの水筒を使っていましたが、遊牧民は羊の革袋を使っていました。
旅をしているのは「王子様とお姫様」ですが、これは空想の世界ですから、ロマンチックな設定としたのでしょう。要するに若い夫婦が二人きりで旅をしているわけです。実際には危険極まりない行為なのですが、そこは子供の世界のことですし、作詞者自身も考証をして作詞しているわけではありませんから、けちを付けることではありません。
最後に「沙漠」の表記ですが、現在では一般に「砂漠」と表記されます。本来は沙漠なのですが、砂を意味する「沙」の字が当用漢字ではないために、現代では「砂漠」と表記されています。童謡の題も本来の「沙漠」となっていますから、歌詞が「砂漠」となっているものは誤りです。また「沙」という字は「水が少ない」という文字構造なので、乾燥地帯を表すというネット情報がありましたが、そのような意味はありません。「沙」にも「砂」にも共通して「砂」という意味がありますが、「沙」には「砂原」というニュアンスを含んでいますので、本来の「沙漠」の方がぴったりくるように思います。童謡ゆかりの御宿の浜が海辺にあるので、氵のある「沙」にしたというネット情報もありましたが、これもどうかと思います。「漠は「漠然」と言う言葉があるように、砂原が広がり荒涼としている様子を表していますから、「沙漠」にはぴったりの言葉です。」 古代中国の文字構造事典である『説文』巻十一には、「水に従ひ少に従ふ。水に少しく沙見ゆる」と記されていますから、水と少の会意文字で、水が少ないために砂が見えると説明されています。古代中国の諸文献から「沙」の用例を探し出してみると、元の意味からさらに発展して、細かい砂とか砂地を意味するように用いられています。
この歌に触発されて、私も一首詠んでみました。「胡の姫も髪挿したるか金銀の鞍つなぎたる唐草の花」。ちょっと説明しないとわけがわからない、自己満足的な歌ですみません。これは初夏に白と黄色のらっぱ状の花をつけるスイカズラという花を詠んだものです。スイカズラは忍冬唐草(にんとうからくさ)とも呼ばれ、唐草模様のモチーフのもとになった蔓草とされています。咲き始めは白いのですが、何日か経つと次第に黄色く色づいて来ます。そのため「金銀花」という異名もあります。甘い香りが心地よく、子供の頃には花を採って蜜を吸って遊んだものです。スイカズラという名前も、そのことに拠っています。「胡」とはペルシアのことで、「胡の姫」は童謡『月の沙漠』の「お姫様」にイメージを重ねたもの。ペルシアの姫君も、きっとこのスイカズラの花を髪に挿したことでしょう。金と銀の鞍をつなげているように見える唐草(スイカズラ)であるなあ、という意味です。スイカズラは初夏には日当たりのよい里山でどこにでも見られますから、ネットで検索して探してみてください。私は花を乾燥させて、お茶に入れて楽しむこともあります。
気温は何度あったのか、温度計を持っていなかったのでわかりません。そもそも気温は直射日光のもとでは正確に測れませんが、影らしいものは何しろ自分の影しかないのですから、測りようもありません。感覚的に40度以上になることもあったと思います。ただ湿度が極めて低いので、日陰なら耐えられないことはありませんでした。山裾のワジの日陰で野生の西瓜を発見した時は感動しましたね。迷わずかぶりつきましたが、余り甘くありませんでした。それでも「西の瓜」と書くことを納得したものです。
シナイ沙漠といっても、日本人が思い描くような砂丘はありません。どこまでも果てしなく広がる岩山だらけの岩沙漠です。そこでふと童謡『月の沙漠』を思い出しました。「こんな甘っちょろい歌なのは、本当の沙漠を知らない人が作詞したからだ」と、つくづく思ったことでした。
事実、帰国してから知ったことですが、作詞者の加藤まさを氏は、外国旅行はおろか、国内旅行もあまりしたことはないそうです。そしてその歌の舞台となったのは、千葉県の御宿の浜辺だということでした。そこで「ああ、やっぱりね」と一人で納得していました。別に歌の歌詞にケチをつけるのではありません。当時は沙漠でそう感じただけです。
以下、少々童謡「月の沙漠」について書きますが、あくまでも歌の考証ではなく、歌に触発されたとりとめもない沙漠の随想に過ぎません。脱線話が多くなりますが、お許し下さい。
まずは歌詞を載せておきましょう。
月の沙漠をはるばると 旅のラクダがゆきました 金と銀とのくら置いて 二つならんでゆきました
金のくらには銀のかめ 銀のくらには金のかめ 二つのかめにはそれぞれに ひもで結んでありました
先のくらには王子様 後のくらにはお姫様 乗ったふたりはおそろいの 白い上着を着てました
ひろい沙漠をひとすじに ふたりはどこへゆくのでしょう
おぼろにけぶる月の夜を 対のラクダはとぼとぼと 砂丘を越えてゆきました だまって越えてゆきました
まずは沙漠の月ですが、昼間の灼熱の太陽に比べ、穏やかな光は心を和ませることもありました。乾燥地帯の国で太陽をモチーフにした国旗がないのも、現地で納得したことです。それに対して月や星をモチーフにした国旗は大変に多く、三日月がイスラム教のシンボルと理解され、イスラム圏の救急車には、赤十字ではなく赤新月の社章がついています。もっともコーランに根拠があるわけではなく、オスマン帝国が北アフリカから東ヨーロッパ・中近東にまたがる大帝国となり、その国旗であった赤地に三日月と星の国旗が、そのままイスラム教のシンボルに横滑りしただけのことです。
歌詞には「おぼろにけぶる月」ということばがありますが、湿度が極端に低い沙漠では朧月はありえません。それこそ天球に孔が空いていて、そこから光が注いでいるかのように、煌々として輝く月ばかりでした。月の見えない時期には、天の河がくっきりと見え、それこそ宝石を砂の如くに散りばめたような夜空でした。作詞者は空想してイメージを膨らませたのでしょう。
童謡の挿絵を見ると、満月や欠けた月もありました。まあどちらでもよいでしょうが、右側が欠けた細い月は少々違和感を覚えました。そのような月は明け方に東の空低くみえますから、イメージがあわないのです。
次は駱駝について。西アジアにいる駱駝はヒトコブラクダです。それに対して中国やモンゴルなどの駱駝はフタコブラクダです。私が住んでいたところにいたのは、ヒトコブラクダでした。作詞者はアラブ圏の沙漠をイメージしたそうですから、ヒトコブラクダなのでしょう。挿絵を見ると明らかに二瘤というものはありませんので、それでよいと思います。沙漠では馬に代わる乗り物でしたが、一瘤の先端にまたがるので、乗る人の目の位置はかなり高いものでした。駱駝の四つ足を曲げて坐らせ、またがってから立たせるのですが、後ろ足を先に延ばすので、前のめりになります。つかまる物もなく、うっかりすると転げ落ちてしまいそうでした。
歌詞では駱駝には金銀の鞍が載せられ、これまた金銀の甕がくくりつけられているという設定です。まあ空想の世界ですから、これでよいのでしょう。もし実際であれば、あっという間に略奪されてしまいます。ただ金銀については現地で思うことがありました。エルサレムの旧市街の市場を歩くと、金銀の装飾品を扱う店が軒を連ねているのです。また沙漠の遊牧民の女性が、そのような装飾品を身に付けているのをたくさん見ました。貧乏暮らしの外国人留学生である私は、ただ冷やかしに覗くだけでしたが、余りの多さに圧倒されたものです。なぜこれ程までに沙漠の民は金銀宝飾にこだわりがあるのでしょうか。
沙漠の民にとっては、不動産は財産ではありません。水と草を求めて移動しますから、いざというときには全財産を身に付けたり抱えたりして、すぐにでも移動できなければなりません。そんなわけで、金銀宝飾が常に身近なところにあるのではないかと思いました。いつ迫害で追い立てられるかもしれなかったユダヤ人が、ダイヤモンド産業のネットワークをいまだに掌握しているのも、同じような理由でしょう。ユダヤ人にとって歴史的に財産となり得るものは、ポケットに入る金銀宝飾と、頭の中に入る教育だったのです。ユダヤ系の人にノーベル賞受賞者や世界的学者が多いのは、その様なことを背景に理解できます。
それに対してよくよく日本の歴史を思い返してみると、権力者と雖も金銀宝飾をジャラジャラと身に付けることはありませんでした。秀吉が金ぴかの茶室を作ったり、義満が金閣を作った程度でしょう。天皇陛下が外国の貴賓をお迎えになる部屋には、それらしき物は全くありません。あまりの簡素さに、これが「エンペラー」の部屋なのかと、驚くことでしょう。金銀宝飾に対する理解が、沙漠の遊牧民とは根本的に異なっていることを現地で痛感したものです。
それにしても金銀の鞍は理解できますが、金銀の甕はあり得ません。金箔や銀箔を貼った鞍はあり得ることです。しかし焼き物の甕に金箔を貼ることはあり得ません。貼ったら蒸散作用がなくなり、水温が上がってしまいます。まして本物の金銀なら重くなりますし、昼間は熱射で水が熱くなってしまいます。私が沙漠を旅した時はアルミの水筒を使っていましたが、遊牧民は羊の革袋を使っていました。
旅をしているのは「王子様とお姫様」ですが、これは空想の世界ですから、ロマンチックな設定としたのでしょう。要するに若い夫婦が二人きりで旅をしているわけです。実際には危険極まりない行為なのですが、そこは子供の世界のことですし、作詞者自身も考証をして作詞しているわけではありませんから、けちを付けることではありません。
最後に「沙漠」の表記ですが、現在では一般に「砂漠」と表記されます。本来は沙漠なのですが、砂を意味する「沙」の字が当用漢字ではないために、現代では「砂漠」と表記されています。童謡の題も本来の「沙漠」となっていますから、歌詞が「砂漠」となっているものは誤りです。また「沙」という字は「水が少ない」という文字構造なので、乾燥地帯を表すというネット情報がありましたが、そのような意味はありません。「沙」にも「砂」にも共通して「砂」という意味がありますが、「沙」には「砂原」というニュアンスを含んでいますので、本来の「沙漠」の方がぴったりくるように思います。童謡ゆかりの御宿の浜が海辺にあるので、氵のある「沙」にしたというネット情報もありましたが、これもどうかと思います。「漠は「漠然」と言う言葉があるように、砂原が広がり荒涼としている様子を表していますから、「沙漠」にはぴったりの言葉です。」 古代中国の文字構造事典である『説文』巻十一には、「水に従ひ少に従ふ。水に少しく沙見ゆる」と記されていますから、水と少の会意文字で、水が少ないために砂が見えると説明されています。古代中国の諸文献から「沙」の用例を探し出してみると、元の意味からさらに発展して、細かい砂とか砂地を意味するように用いられています。
この歌に触発されて、私も一首詠んでみました。「胡の姫も髪挿したるか金銀の鞍つなぎたる唐草の花」。ちょっと説明しないとわけがわからない、自己満足的な歌ですみません。これは初夏に白と黄色のらっぱ状の花をつけるスイカズラという花を詠んだものです。スイカズラは忍冬唐草(にんとうからくさ)とも呼ばれ、唐草模様のモチーフのもとになった蔓草とされています。咲き始めは白いのですが、何日か経つと次第に黄色く色づいて来ます。そのため「金銀花」という異名もあります。甘い香りが心地よく、子供の頃には花を採って蜜を吸って遊んだものです。スイカズラという名前も、そのことに拠っています。「胡」とはペルシアのことで、「胡の姫」は童謡『月の沙漠』の「お姫様」にイメージを重ねたもの。ペルシアの姫君も、きっとこのスイカズラの花を髪に挿したことでしょう。金と銀の鞍をつなげているように見える唐草(スイカズラ)であるなあ、という意味です。スイカズラは初夏には日当たりのよい里山でどこにでも見られますから、ネットで検索して探してみてください。私は花を乾燥させて、お茶に入れて楽しむこともあります。
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