goo blog サービス終了のお知らせ 

うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

開拓使のシンボル

2015-06-21 21:08:59 | 歴史
 明治維新早々の明治2年7月、北海道の開拓のために開拓使が置かれた。そもそも「北海道」という名称が付けられたのはその翌月のことである。江戸時代には「蝦夷島」「蝦夷地」と呼ばれていたが、それは華夷思想に基づくもので、新時代に相応しい名称を付けることになった。そこで幕末から「蝦夷地」を探査してアイヌと交流のあった松浦武四郎は、新政府に、日高見・北加伊・海北・東北・千島・海島など、六つの候補名を建白した。このうち「北加伊」の「加伊」は、アイヌが「蝦夷島」を「カイ」と自称していたとによるという。もっともアイヌ語の研究者として名高い金田一京助によれば、そのような事実はないそうである。結局、律令制的名称である東海道・南海道・西海道を参考に松浦案を折衷し、8月15日の太政官布告により「北海道」と名付けた。
 さて「開拓使」のことであるが、「使」という職名は、勘解由使・検非違使・押領使・追部使など、領外官に多くの例がある「使」と同じで、独自に臨時的な任務を持つ律令的官職名であった。開拓史が設置された3年後の明治5年、北海道の船艦の旗章が定められた。海外に渡航する船には、国旗の他に、所属官庁の旗を掲げなければならなかったからである。
 青地に赤色の五稜星をあしらった意匠で、星は「北晨星」、すなわち北極星(北辰ともいう)を表すものとされた。考案したのは蛯子(えびこ)末次郎という人物で、開拓使が所有する船の船長をしていた。この意匠にはどのような意図があるのだろうか。船乗りにとって、北極星は大海原における方位の手掛かりであり、青色は海であろう。また北の大地を開拓
しようとする人々にとって、北極星は究極の目標の象徴でもあったであろう。末次郎が航海術を学んだ蘭学者武田斐三郎は、函館五稜郭の設計者としても知られているが、末次郎の脳裏には、師の設計した五稜郭もかすめたことであろう。
 制定されて以来、この赤い五稜星は、開拓使の建造物のあちらこちらに掲げ描かれた。現在も残る開拓使由来の建造物には、あちらこちらにこの五稜星が見られる。旧札幌農学校演武場である札幌市時計台は、その好い例である。
 開拓推進の中心になったのは、薩摩出身の黒田清隆である。明治3年には開拓使次官、明治7年からは同長官となり、明治15年に及んだ。黒田の建議により、明治4年に開拓使十年計画が決定されていたが、その満期も近い明治14年、有名な開拓使官有物払下げ事件が起きた。この時払い下げられた物件の中に、開拓使麦酒醸造所が含まれていた。
 そもそも開拓使が麦酒醸造所を設立したのは、明治9年の事である。そして明治19年には大蔵喜八郎の大倉組商会に払い下げられ、翌年には浅野総一郎・渋沢栄一らがこれを買い取って札幌麦酒会社を設立した。その後、いく度かの合併や変遷を経て、現在のサッポロビール株式会社につながるのである。そして開拓使のシンボルマークであった赤い五稜星は、そのままサッポロビールのシンボルとして、今に受け継がれている。ただし商品によっては金色の星になっている。飲食店で提供されるサッポロラガービールには、赤い五稜星が描かれ、「赤星」と通称されている。余談であるが、昭和42年、北海道百年を記念して、北海道の旗が制定された。紺の地色に赤い七稜星が描かれ、星の周囲は白色で囲まれている。紺は北の海や空を、白は光輝と風雪を、七光星は道民の不屈のエネルギーを、光芒は未来への発展を意味しているということである。考案したのはデザイナーの栗谷川健一氏であるが、氏の脳裏には開拓使の赤い五稜星が浮かんでいたことであろう。
 


コメントを投稿