閑吟集』現代語戯訳 2(101~200番歌まで)
室町時代の小歌などの歌詞集である『閑吟集』を、私なりに現代語訳にしてみました。現代語訳はネット上にも多く、出版もされていますから、今さら古典文芸の専門家でもない私が訳す程のことはないので、今もそのまま歌の歌詞になるようにと、五音と七音を活かして訳してみました。その制約があるため、当然ながら大胆な意訳をせざるを得ず、正確な現代語訳にはなっていません。出版されている注釈書と異なることもありますが、もともとが歌ですから、人によって解釈に幅があるのはやむを得ません。高校の日本史の授業の教材研究の合間に、面白半分にやってみただけのことですから、お許し下さい。
〇は原文、◎は私の現代語訳、◇は私のコメントです。ただ所詮は素人ですから、解釈に誤りがあるかもしれませんし、日本史の教諭が私の本職ですから、目の付け所が文芸的ではありません。
書き足しているうちに、文字数上限の3万字を越えてしまいましたので、3つに分割しました。随時加筆訂正しています。
〇雨にさへ訪はれし仲の 月にさへなう 月によなう 106
◎雨の夜も 訪ねてくれた仲なのに まして月夜になぜ来ない ねえ なぜ来ない
◇かつては雨も厭わずに訪ねて来てくれたのに、月夜には来てくれないと、女が疎遠になった男を恨み辛みを言う場面で、大層わかりやすい歌です。古来、逢瀬の時間は夜と決まっていましたから、二人で共に眺める月夜は逢瀬の最高の舞台設定なのです。ですから美しい月夜なのに来てくれないと女が嘆くのはもっともなのですが、男にしてみれば、煌々と月が照る夜は、夜とはいえ仲が知られてしまう心配があるのかも知れません。
〇宇津の山辺の現(うつつ)にも 夢にも人の逢はぬもの 113番歌
◎宇津の山辺のうつつじゃないが うつつにさえも逢ってはくれぬ 私のことなどもう忘れたか 夢の中にも現れぬ
◇この歌は、『伊勢物語』第九段「東下り」にある「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」とほぼ同じで、『新古今和歌集』(904番歌)にも収められています。「東下り」の冒頭部には、「その男、身はようなきものに思ひなして」と記されていますが、「我が身は役に立たないものと思い込んで」という意味ですから、事情はわかりませんが、傷心を癒やすため、一時的に都を離れる旅だったのでしょう。「宇津の山辺」は静岡市の宇津ノ谷から藤枝市岡部坂下に抜ける山道です。「現」とは目が覚めている現実の状態のことですから、都に留まっている女性に逢えないのは当然のことです。当時の旅は命懸けですから、女性が共に出かけなかったのは無理もありません。ですからせめて夢の中にでも逢えないものかと、嘆いているわけです。恋しい人の夢を見たいという心は、現代人も普通に共有できますが、古歌において恋しい人の夢を見るということは、現代人とは少々事情が異なります。人が眠ると、魂が肉体から抜け出して、心惹かれる方にゆくという理解があったのです。「あこがれ」という言葉の語源ともなる「憧る」(あくがる)という言葉は、そのような強烈な心の状態を表しています。ですから夢の中にさえ逢えないことは、その女が自分のことをもう恋しいとは思ってくれていないのではないかという不安を意味しているわけです。『万葉集』には多くの夢の歌がありますが、恋に関わる歌が多く、そのような感性は古くからあったことがわかります。そしてそれは平安時代から鎌倉時代になっても継承されたわけです。まあ『伊勢物語』の東下りの話には、かきつばたや都鳥の有名な和歌が含まれていて、高校の古典の授業で学習することでしょう。ですから『閑吟集』のこの歌を見れば、東下りの場面を連想する現代人は少なくないはずです。しかし室町時代の庶民が共有していたとなると、その古典文芸の教養には、ただ驚くばかりです。
〇ただ人は情あれ 夢の夢の夢の 昨日は今日の古 今日は明日の昔 114
◎何はなくても思いやり 所詮この世は夢の夢 昨日(きのう)の今日はもうきのう 今日も明日にはもう昨日
◇「情」という言葉の意味は幅が広く、その意味は前後の文脈の中で理解されなければなりません。この歌の前後には「情」を主題とする歌が5つ並んでいて、それらを読み比べてみると、「情けをかける」の「情」ではなく、男女の「情愛」という意味に理解した方がよさそうです。過去・現世・来世の三世の中でも、思い返せば、辛かった過去は悔やまれることばかり。待ち焦がれる明るい未来は、いつになったら来るのやら、どうなるかわからぬ不安ばかり。一瞬にして過去になる現在は儚い夢のようなものだから、何はなくても情愛(愛情)だけは失わずにいたいものだ、といったところでしょうか。原歌の「古」を「昔」と訳すと、刹那に三世が移ろう面白さを表しきれませんので、一瞬首をかしげたくなるような現代語訳にしてみました。
〇情けは人のためならず よしなき人に 馴れそめて 出でし都も偲ばれぬほどになりにける 出でし都も偲ばれぬほどになりにける 118
◎情は人のためでなく 自分のためにもなるものね 縁もゆかりもない人に ついほだされて馴れそめて 遠く都を離れたが 偲ぶことさえなくなって 懐かしいとも思わない
◇「情けは人のためならず」という諺は、「誰かに情けを掛けると、巡りめぐって自分によい報いがある」という意味ですが、この場合の「情け」はその様な教訓的な意味ではなく、114番歌と同様に、男女の「情愛」のニュアンスがあると理解した方がよさそうです。現代語訳に「情に引かれて」という意味の「ほだされる」という言葉を選んだのも、「情愛」の印象があったからです。「よしなし」とは、「理由がない」とか「つまらない」という意味です。何か縁があって、「由なき人」に「情」をかけ、それが縁となって都から遠く離れた地方に移り住んだのでしょう。しかしその「情」は結局は自分にとってもよい結果となり、今さら都が懐かしいとも思わなくなった、と理解してみました。はじめは「由ある人」と思い込んで地方に下ったが、「由なき人」であったことが露顕して、「離れた都を懐かしむほどになった」という意味に理解する説もありますが、それなら原文が「偲ばるるほどに」「偲ばれぬるほどに」となっていなければなりませんから、その説は採りません。なお「情けは人のためならず」という諺は、私自身は原典では未確認ですが、鎌倉時代の仏教的説話集である『沙石集』にも見られるそうです。
〇ただ人には馴れまじものぢゃ 馴れての後に 離るるるるるるるるが 大事ぢゃるもの 119
◎人に馴染(なじ)むは考えものよ 一度馴染んでしまったらならば 離れられないらりるるるれろ いやじゃいやじゃと大騒ぎ
◇「離るる」を強調したいのでしょう。「るるるるるるるる」が何とも愉快なのですが、歌の歌詞だからこそこんなことができるのであって、『閑吟集』が歌謡の歌詞集であることがよくわかります。そう言えば「夜明けのスキャット」とかいう懐かしい歌謡曲に、「ララララララ・・・・・ルルルルル・・・・・」を延々と歌う歌詞がありました。意味のない音声をまるで楽器の音のように即興的に歌うことをスキャットと言うそうです。経験豊富な女がまだ若い女に、「安っぽく男を好きになるものではないよ」と恋の指南をしている場面なら、こんな会話もあったことでしょう。
〇何となる 身の果てやらん 塩(潮)に寄り候 片し貝 123
◎何とまあ ついには果てる我が身かも 鳴海の潮の寄る浜の 片割れかなしき片し貝
◇渚に打ち寄せられた片方だけの貝殻を見て、成ることのない片思いの行く末を予感し、自虐的に詠んだ場面でしょう。「なる身」は「鳴海」を掛けているのですが、鳴海は濃尾平野の東端にあった干潟のことで、干潟の千鳥で知られた歌枕です。鳴海は干満の潮の流れが速いことでも知られていましたから、渚には貝殻が沢山打ち寄せられていたのでしょう。片割れの貝殻が片思いを表すことは、平安時代末期に始まった貝合の遊びと関係あると思われますが、「鮑の片思い」は『万葉集』にも見られます。ただしアワビは一見して片貝に見えますが、分類上は巻き貝です。現代語訳の下句は、「の」と「か」の音を連ねて、語調を揃えてみました。
〇舟行けば岸移る 涙川の瀬枕 雲はやければ 月運ぶ 上の空の心や 上の空かやなにともな 127
◎舟が進めば岸移り 涙の川の瀬も速い 空を仰げば雲の川 流れも速く月運ぶ 私の心は上の空 空なる心を何としょう 何ともしようもないかもね
◇恋故に心が地に着かず、上の空になっていることを詠んでいますが、実際に月夜に雲が流れる空を仰いで、溜息をついた場面なのでしょう。「舟」は「涙川」の序詞となっており、「舟行けば岸移る 涙川の瀬枕 雲はやければ 月運ぶ」の部分は、「上の空」を導くための序となっています。また「涙川」や「枕」が恋を暗示しているなど、なかな手の込んだ歌となっています。作詞者は相当に歌ことばに慣れた人だったのでしょぅ。月を舟に、流れる雲を川になぞらえることは、古歌にしばしば見られます。「瀬枕」とは、早瀬の水が水中の石などに当たって盛り上がり、枕のように見える所のことですが、「瀬に枕する」と言えば舟中に寝ることを意味しますから、夜舟での感慨かもしれません。
〇歌へやうたへ 泡沫(うたかた)の あはれ昔の恋しさを 今も遊女の舟遊び 世を渡る一節(ひとふし)を うたひていざや遊ばん 128
◎歌えようたえ うたかたの はかない昔を偲びつつ 今も遊女は舟遊び 仮の宿りの世を渡る 歌を一節歌いつつ 遊び倒してさあ囃せ
◇この歌には長い長い背景があります。西行が摂津の天王寺に詣でる途中、俄に雨となり、淀川河口の港町として栄えていた江口で宿を借りようとしたことがありました。ところが対応した遊女「玅」(たえ)は、これをことわってしまいます。その時の歌の応答が『新古今和歌集』に収められていて、古くからよく知られていました。それは次の様な歌です。「世中を厭ふまでこそ難(かた)からめ かり(仮・借り)の宿りを惜しむ君かな」、「世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に 心留(と)むなと思ふばかりぞ」。西行の歌は、「世を厭い出家することまでは難しいかもしれませんが、宿を貸すことくらいはできそうなのに、あなたはそれさえ惜しむのですか」という意味です。それに応えた遊女の歌は、「世を厭い出家されたとうかがったものですから、世俗の我が家(遊女の家)などかえって申し訳なく、お気に留められませぬようにと思うばかりでございます」という意味です。そして室町時代の観阿弥が、この逸話を素材にして謡曲を創作し、それを息子の世阿弥が「江口」という謡曲に改作しました。ある旅の僧が、西行と同じく天王寺に参詣途中、江口で西行の故事を思ってその歌を口ずさむと、それを聞いたある女が、遊女(江口の君)が断った真意を説きます。それで僧がその女の素性を問うと、当の遊女の幽霊であると言って見えなくなってしまいました。それで僧が夜に遊女を弔っていると、遊女と二人の侍女の霊が船に乗って現れ、かつての華やかな舟遊びの様子を見せます。『閑吟集』に載せられたこの歌は、この場面の歌なのです。そして遊女は罪業の深い実でありながらも、執着を離れれば悟りを得ると説いて、普賢菩薩の姿に変身し、舟は普賢菩薩の乗り物とされている白い象に変化して、白雲にうち乗って西の空に消えていってしまったという粗筋です。現在、大阪市東淀川区南江口には、「江口の君堂」とも呼ばれる寂光寺があり、この逸話の故地とされています。
謡曲「江口」の中では悟りに至ることの前提となっていますが、そこから切り取られてしまえば、宴会の席では享楽的な歌として遊女達が歌い、客の男達が囃し立てたことでしょう。それは自然なことですが、当時の庶民の中に、謡曲の内容まで知っていた者がいることに驚きます。演歌歌手八代亜紀に「泡沫」(うたかた)という歌があります。「歌えや歌え うたかたの 夢幻や この世はざれごと 歌えば この世は中々よ・・・・」という歌詞なのですが、作詞者の野村 万之丞(まんのじょう)は和泉流の能楽師ですから、「江口」のこの歌を本歌として作詞したことは明白です。『閑吟集』は言わば現代のカラオケ歌詞集のような側面があったと言ってもよいと思っています。
冒頭部は「う」の頭韻が効いていますから、それを活かさざるを得ませんでした。
〇人買舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ船頭殿 131
◎私を買った人買舟は 波にもまれて沖を漕ぐ どうせ売られてしまう身なのよ せめて静かに漕いどくれ ねえ 船頭さん
◇貧民が借金を返せず、子女を手放すことによる人身売買は、古から現代に到るまで、世界中で行われてきています。律令時代には奴婢が売買されたことは、高校の日本史の授業でも学習します。『吾妻鏡』の延応元年(1239年)五月一日の条には、妻子や所従(下人)、果ては自分自身を売ることを禁止することが記されています。禁令が出されたということは、裏を返せば中世には普通に行われていたということなのでしょう。室町時代に流行した能楽の脚本である謡曲には、子供の身売りを主題とした「自然居士」 (じねんこじ)「隅田川」「桜川」などがあります。よく知られているところでは、「安寿と厨子王」の原話も室町時代に成立していました。買われた若い女性の中には、遊女のような職業に就かざるを得なかった者も少なくないはずです。宴席でこの歌を歌った女性自身の哀しい体験談かもしれません。「静に」という言葉には、運命とあきらめ、それを黙って受け容れざるを得ない寂しさが表れています。
〇沖の鴎は 梶とる舟よ 足を櫓にして 134
◎沖の鴎は 梶とる小舟 足を櫓にして 波越えて
◇あまりにも短くて、現代語訳に直しきれず、原歌とほとんど変わらなくなってしまいました。それでも都々逸と同じ七七七五の音数律にして、軽快さを際立たせてみました。「梶」も「櫓」も舟を漕ぐのに欠かせない道具で、水に浮かぶ鴎を小舟に見立てているわけです。海辺や舟の歌が続いているのですが、港は威勢のよい男達の仕事場であり、このような歌が好んで詠まれたのでしょう。・
〇また湊へ舟が入(い)るやらう 唐櫓(からろ)の音が ころりからりと 137
◎またも港へ舟が来る 唐艪の音をころがして からりころりと舟が来る
◇入津する舟の艪を漕ぐ音を、舟の男達を相手にする女達が聞きつけた場面でしょうか。唐櫓とは「中国風の櫓」と言うことなのでしょうが、具体的にどの様な櫓であるかはわかりませんでした。「からろ」の訓に合わせて「ころりからり」の句が選ばれているのは明らかです。このように音を大切にしている歌が多いのですが、それはもともと声に出して歌うものであったからで、決して文字で読む文芸ではありませんでした。現在では短歌などの伝統的文芸は、すっかり文字を目で追う文芸になってしまったのが残念です。
〇今憂きに 思ひくらべて古の せめては秋の暮もがな 恋しの昔や たちも返らぬ老いの波 いただく 雪の真白髪(ましらが)の 長き命ぞ恨みなる 長き命ぞ恨みなる 140
◎今の辛さを古と 思い比べてみるならば せめては秋の暮れ頃の 恋しい昔にもどりたい 寄せるばかりの老いの波 再び返すこともなく 頭に雪を積む程の 長い齢(よわい)が恨めしい 長い齢が恨めしい
◇人生はよく四季に喩えられます。ただしこれは四季の区別が明瞭な日本だからこその比喩で、諸外国ではどうなのか。興味のあるところです。作者はかなりの高齢なのでしょう。春や夏とまでは望まないが、せめて秋の暮れ頃に返す術はないものかと嘆いている場面で、「もがな」は願望を表す終助詞です。秋が暮れればあとは冬しかありませんから、現在を辛く寂しい人生の冬と感じているわけです。
〇葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 恨みながら恋しや 143
◎葛の葉よ 風に裏見せる葛の葉よ つれない人を葛の葉の 恨みはしてもうら恋し
◇葛は「真葛原」(まくずはら)と呼ばれるほどに、原野を一面に覆い尽くします。そこに秋風が渡ると、葉の裏が表よりやや白っぽいため、葉が裏に返って、風紋のように風の渡るのがわかります。王朝和歌にはこの様子を、秋風ならぬ飽きの風が吹くと恋心が裏返り、恨んでもなお恨めしく思うという情趣で詠まれていました。「秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな」(古今和歌集823)という歌は、それをよく表しています。要するに「葛の葉」は裏を見せることから、「恨み」を連想させたのです。また「うら寂し」「うら哀し」などの様に、「うら・・・・」を接頭語とする言葉を導くこともありました。この歌は、辛く当たる人を恨めしく思いながらも、恨みきれない微妙な女心を詠んだものでしょう。現代語訳の「うら恋し」という言葉は、もちろん「裏・恨」に引かれたものですが、もともと「心の中で恋しく思う」という意味です。
〇身は破れ笠よなう 着もせで 掛けて置かるる 149番歌
◎我が身は破れた笠なのよ ねえ 誰も着てはくれなくて 掛けたまんまで捨て置かれ
◇この歌は謎掛けになっています。我が「身」を「破れ笠」と解く。その心は、誰も「着」ることなく掛けて放置されている笠のように、誰も訪ねて来もせずに相手にされない我が身だから、というわけです。「着」が「来」を掛けているのはすぐにわかります。また「着」たり「掛け」たりする「笠」というのですから、umbrellaの傘ではなく、簑傘であることもわかります。誰も来てくれないというのですから、男の来訪を待つ女の歌というわけです。『閑吟集』には、「身は・・・・・」から始まる謎掛けの歌が他にもありますから(130・132・155番歌)、当時流行った小歌の型なのでしょう。この歌は寂しい心を慰めるように、独りで歌ったものではないと思います。それは「なう」という終助詞が、同意を求める時によく使われるからです。喩える物を替えれば、即興で無限に歌詞はできるのですから、宴席で聞いていた者達が気の利いた謎解きの心を聞いて、その場が盛り上がったかもしれません。
〇笠を召せ 笠も笠 浜田の宿(しゅく)にはやる 菅の白いとがり笠を 召せなう 召さねば お色の黒げに 150番歌
◎笠を召しませ 召しませ笠を 浜田の宿では大はやり 召しませ白いとんがり菅笠 召さねばお顔が黒くなる
◇笠を被ることを勧める歌ですから、山形県の花笠音頭のように、笠を持って踊る歌かもしれません。「浜田の宿」がどこか確定はできませんが、「宿」というのですから街道沿いの集落であり、現在の島根県浜田市の可能性があります。白っぽい菅笠を被れば、陽に焼けて肌が黒くならず、白いままで美しいというのでしょう。
〇ふてて一度言うてみう 嫌(いや)ならば 我もただそれを限りに 157
◎なるように なるから一度 言ってみよう ともかく言うだけ言ってみよう それでもいやと言うならば それですっきり諦める
◇「ふてて」の原形である「ふつ」は、現在の「ふて腐れる」にもつながる言葉で、不満があり、相手に逆らうような反抗的態度をとることです。中途半端な付き合いがだらだらと続いたのか、煮え切らない相手に対して、これが最後になるかも知れないと腹を括って、本心を問うてみようと決意した場面でしょうか。身に覚えのある人も少なくないことでしょう。『閑吟集』が古典的和歌集と異なり、現代でも多くの人に気軽に読まれているのは、現代人も共有できる心情が詠まれているからだと思います。
〇一夜馴れたが、名残惜しさに 出でて見たれば 奧中に 舟の速さよ 霧の深さよ 165
◎一夜の逢瀬の名残惜しさに 後ろ姿を見にでれば 沖へ漕ぎゆく舟の速さよ あれ 怨めしい朝霧よ
◇港の女が、早朝、一晩馴れ親しんだ男と別れた後、それでも名残惜しさに後ろ影だけでもと思って、舟に乗って帰る姿を遠くから見送る場面でしょう。舟の別れは、普通ならばいつまでも互いに視認できますが、秋の海霧が立ちこめているのでしょう。すぐに見えなくなってしまいました。こんな時の舟は、舟足が早く感じられるものです。167番歌には「後ろ影を見んとすれば 霧がなう朝霧が」という、同じ様な場面があります。また現代の歌謡曲にも霧中の別れの歌はいくつもありますから、古今を問わず、霧は別れを演出するのにうってつけのアイテムのようです。現代ならば霧笛が聞こえるというだけで歌になるのでしょうが・・・・。
〇めぐる外山に鳴く鹿は 逢うた別れか 逢はぬ怨みか 170
◎めぐる里山 小夜鳴く鹿は 逢えて別れを惜しむのか 逢えずにひとり怨むのか
◇鹿の鳴き声はまるで悲鳴のようで、遠くまでよく聞こえます。特に独り寝の床に聞こえる声は、その哀愁を帯びた声の印象も相俟って、妻問いの声と理解されていました。動物の鳴き声を人の言葉に置き換えて理解することを聞きなしというのですが、古歌では鹿の鳴き声は「甲斐よ」(かいよ)と詠まれることがあります。「秋の野に妻なき鹿の年を経てなぞわが恋のかひよとぞ鳴く」(古今集 1034)という歌は、妻のない鹿が、長い間恋い慕ってもその甲斐がないと嘆いて鳴いていると理解しているのです。私も何度も聞いたことがありますが、「カイヨー」と聞こうと思えば聞けないことはありませんでした。もともと聞きなしとは、聞きたいように聞こえるものなのでしょう。この歌は男の来訪を待っている女の歌で、別れを惜しむ鳴き声には羨み、逢えない悲しみの声には共感している場面と理解するのが自然です。
〇逢夜(おうよ)は人の手枕 来ぬ夜は己(おの)が袖枕 枕あまりに床(とこ)広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへ疎(うと)むか 171
◎逢う夜はあなたの腕枕 来ぬ夜は己(おのれ)の袖枕 一人寝の床(とこ)広過ぎて 枕に此方(こちら)と誘っても 枕も私を袖にする
◇共寝をする歓びを経験すればする程、独り寝の夜は寂しく、床の幅が広さがその寂しさを増幅します。その寂しさを枕に当たって紛らわしている場面でしょう。「枕も私を袖にする」という訳は、「袖枕」に引かれたものですが、原歌は寂しいながらもどこかユーモラスなので、現代語訳にもその雰囲気を活かしてみたわけです。「手枕」と「袖枕」の対比が効果的です。
〇人を松虫 枕にすだけど 寂しさのまさる 秋の夜すがら 176
◎夜もすがら 来ぬ人を待つ枕辺に 人待つ虫の 声の寂しさ
◇通ってこない男を待つ女が、松虫の声に寂しさを募らせている場面です。古歌では「鳴く」は「泣く」を掛けることが多く、実際に鳴いているのは虫であっても、人が泣いていると理解されました。古の松虫は現在のスズムシ、鈴虫は現在のマツムシであるという有力な説があります。その当否についてはここでは深入りせず、説の紹介に止めておきましょう。それはともかくとして、王朝和歌では「松」と「待つ」を掛けて、「人待つ虫」と詠まれるのが常套で、秋の夜長にね来るべき人の来ない寂しさや、人恋しい情趣が詠まれましたが、ここでもそのまま継承されています。現在ではスズムシやマツムシの声はすっかり珍しいものになってしまいましたが、外来種のアオマツムシなら、草むらではなく、樹上でうるさい程に鳴いています。しかし来ぬ人を待つ寂しさを感じさせる情趣はなさそうです。「すだく」は漢字では「集く」と表記し、本来は群がり集まることを意味しているのですが、そこから派生して虫が鳴くことをも表す様になりました。
〇咎(とが)もない尺八を 枕にかたりと投げ当てても 寂しやひとり寝 177
◎罪科(つみとが)のない尺八を 枕に打ち付け八つ当たり それでも気分は晴れなくて やっぱり独り寝寂しいわ
◇独り寝の寂しさを尺八に八つ当たりしている場面です。「咎もない」とわざわざ言うのですから、八つ当たりであることは本人も十分わかっています。それでもそうせざるを得ない程に寂しいということなのでしょう。次の178番歌にも枕に八つ当たりする歌がありますが、枕を訪ねて来ない男になぞらえていますから、男専用の枕があったようです。また「かたりと投げ当て」というのですから、枕は硬い木枕だったかもしれません。尺八を置いてあるというのですから、男はしばしば通ってきていたと思われます。ただ当時の尺八が現在の尺八と同じであったかどうかはわかりません。一般には尺八は16世紀末に、一節切(ひとよぎり)と呼ばれた竹の笛から生まれたことになっています。しかし一節切は竹の管の中間部を用いるため、長さは1尺少々しかなく、1尺8寸もありません。『閑吟集』が成立したのは1518年ということですから、時期が合わないのですが、その辺りのことになると、もう私の手には負えませんので御容赦下さい。
〇一夜来ねばとて 咎(とが)もなき枕を 縦投な投げに 横な投げに なよな枕よ なよ枕 178
◎たった一晩来ないといって あっちこっちに放り投げ 罪ない枕に八つ当たり ちょいと枕よ おい枕
◇場面の情景については説明は不要であり、何とも言えないユーモアが魅力です。ただし当時の枕は木製の箱枕であった可能性が高く、179番歌にもたぶん「木枕」が詠まれていますから、そんなに乱暴に放り投げたら壊れてしまいかねず、当たれば怪我もしそうです。枕に八つ当たりしたわけは、もちろん来るはずの男専用の枕がすぐ隣にあったからなのでしょうが、他にもわけがありそうです。それは181番歌にもあるように、枕は恋の行方を知っているものという理解があったからだと思います。
〇恋の行方を知るといへば 枕に問ふもつれなかりけり 181
◎恋の行方を知るという 枕に尋ねてみたけれど 枕は素知らぬふりをする
◇この歌を含めて、枕と恋を詠んだ歌が約十首も並んでいます。ここでは枕が恋の行方を知っているというのですが、そのような理解は早くも『古今和歌集』に詠まれています。「わが恋を人知るらめや敷玅の枕のみこそ知らば知るらめ」(504)という歌で、人は私の恋を知らなくても、枕こそは知っているという意味です。『閑吟集』の180番歌にも「来る来る来るとは 枕こそ知れ」という歌がありますから、枕と恋の関わりが古来受け継がれていることがわかります。「つれない」という言葉は現代では「冷淡な」という意味に理解されていますが、古語の「つれなし」は「何か尋ねても反応がない」という意味で、微妙にニュアンスが異なりますので、現代語訳でもそれを意識して訳してみました。
〇衣々(きぬぎぬ)の砧(きぬた)の音が 枕にほろほろ ほろほろと 別れを慕ふは 涙よなう 涙よなう 182
◎一夜限りの 衣々の 別れも迫る しののめの 砧の音が 枕辺に ほろほろほろろと 聞こえれば 堰きもあえない 我が涙 こぼれて濡らす 袖枕
◇砧とは、板の上で衣を槌で叩いて皺を伸ばしたり柔軟にしたり、また艶を出すための道具のことです。衣を砧で打つことは、特定の季節に限られる家事ではないのですが、古歌では、秋の長夜に、妻が不在の夫を案じたり、女が男の来訪を待ちながら打つという設定がかなりありますから、砧の音は恋に関わる歌ことばになるわけです。後朝(きぬぎぬ・衣々)の別れが近い時間にその音が聞こえると、次の逢瀬が不安になるというのでしょう。砧を打つ音を「ほろほろ」と聞いていますが、もちろんこれは涙を導くためです。「きぬ」の音の頭韻を、現代語には訳せないのが残念です。歌の末尾が「・・・・なう」という余情のある表現は、『閑吟集』にしばしば見られます。
〇君いかなれば旅枕 夜寒の衣うつつとも 夢ともせめてなど 思ひ知らずや怨めし 183
◎あなたは旅の草枕 私はひとり砧打ち あなたの衣を調える 現(うつつ)までとは思わぬが、せめても夢の中くらい 思いを馳せてくれないの 秋の夜寒が怨めしい
◇砧で衣を打つ歌が続きます。この歌は世阿弥作の謡曲「きぬた」の一節です。筑前にある夫婦が住んでいたのですが、夫は訴訟のために都に上り、そのまま3年間も妻の元に帰りません。夫は侍女に年末には帰郷すると言い含めて帰らせると、妻は一人暮らしの悲しさや生活の苦しさを訴えます。そこへどこからともなく、砧を打つ音が聞こえてきました。異国にいる夫を思いつつ妻が砧を打ったという中国の故事を聞き、妻も砧を打っては舞うのですが、そこへ年末にも帰れないとの知らせが届き、妻は夫の心変わりを嘆いて病となり、遂には死んでしまいます。その後帰郷した夫が妻を弔うと、妻の亡霊が現れ、『閑吟集』のこの歌を以て夫に詰め寄ってさめざめと泣きます。しかし夫が合掌すると、法華経の功徳により妻は成仏した、という粗筋です。 「衣うつつとも」の部分では、「うつ」が「打つ」と「現(うつつ)」をかけているのはすぐにわかります。法華経が誦経されるのは、法華経巻五は女人成仏を説いていると理解されていたからでしょう。
〇千里の道も 遠からず 逢はねば咫尺(しせき)も千里よなう 185
◎逢えるなら 千里の道も なんのその 逢えぬなら 近くにいても 遠いもの
◇これはもう下手な解説は不要でしょう。若い時には、誰もが似たような経験があったはず。年を重ねて振り返ってみると、少々気恥ずかしいものです。『枕草子』に「遠くて近きもの、極楽、舟の道、男女の仲」と記されていますが、男女の仲は遠いようでも近く、近いようでも遠いものなのでしょう。「咫」も「尺」も短い長さの単位で、「咫尺千里」は、近くにいても、心が通わなければ千里の遠さに感じられることを意味する四字熟語となっています。もともとは唐の詩人李白の詩の一節「高唐咫尺如千里」まで遡るのですが、それが五山僧に広まり、更に庶民に恋愛歌謡として受け容れられる様になったものです。禅僧が好んだ詩句であるのに宗教臭が稀薄なのは、もともとが宗教的真理とは無関係に、漢詩や朱子学の知識が禅僧の教養の一つであったことに拠っています。
〇君を千里に置いて 今日も酒を飲み ひとり心をなぐさめん 186
◎いとしい君は 千里のかなた 僕は寂しく独り酒 今宵も心を慰める
◇飲めば心が慰められるかと飲んではみるものの、かえって寂しさは募るもの。まるで歌謡曲のようなと思い探してみると、石川さゆりの「独り酒」、ぴんから兄弟の「ひとり酒」、伍代夏子の「ひとり酒」など、たくさんありました。歌詞を読んでみると、置かれた状況は異なっていますが、それでもこの歌に題を付けよと言われたら、誰もがみな同じく「ひとり酒」とするでしょう。既に何回もお話しましたが、『閑吟集』は現代もなお歌謡曲の歌詞のヒントになっているのです。
〇南陽県の菊の酒 飲めば命も 生く薬 七百歳を保ちても 齢(よわい)はもとの如くなり 187
◎南陽県の菊酒は 長寿の薬と言うけれど 七百歳になったとて 齢は何もかわらない
◇この歌は、田楽能「菊水」の一節そのままだそうです。平均寿命の短かった古は、誰もが長寿を請い願いました。しかしたとえ七百歳の長寿を得たとしても、老齢であることに変わりありません。「南陽県の菊酒」については、平安時代に唐文化に憧れた官僚達が、百科事典のように座右において重宝した『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という唐の書物の薬香草部の菊の条に、『風俗通』という書物を引用して、「南陽の酈県(なんようのりけん)に甘谷(かんこく)あり。谷水甘美なり。云ふ、其の山上大いに菊あり。水は山上より流れ、下は其の滋液(じえき)を得。谷中、三十余家あり。また井を穿(うが)たず。悉く此の水を飲む。上寿は百二三十、中寿は百余、下は七八十なり。之を大夭と名づく。菊華は身を軽くし気を益すが故なり」と記されています。菊水を飲めば長生きできるが、七八十歳は若く、百二三十歳で漸く長生きであるというのです。重陽の節句に、盃に菊の花を浮かべて菊酒を飲む風習がありましたが、それはこのような菊の理解に拠っています。また縁起のよい菊酒にあやかって、現在では「菊」の字を含む清酒の名前が、全国には数え切れない程あります。現在では菊の花は葬儀用の花という理解がありますが、かつては長寿を寿ぐ花だったのです。敬老の日の菊の花は、縁起でもないと忌避されることがあるそうなので、ついつい菊の花を応援したくなりました。
〇このほどは、人目を包む我が宿の 人目を包む我が宿の 垣穂(かきほ)の薄(すすき) 吹く風の 声をも立てず忍び音に 泣くのみなりし 身なれども 今は誰をか憚りの 有明の月の 夜ただとも 何か忍ばん時鳥(ほととぎす) 名をも隠さで 鳴く音かな 名をも隠さで鳴く音かな 194
◎これまでは 人目忍んで侘び住まい 人目忍んで侘び住まい 垣根のすすきにそよとさえ 音も立てない風のごと 忍んで泣いていたけれど 今は心の向くままに 有明月のほととぎす 誰に憚ることもなく 忍び音に鳴くこともなく 名前隠さず名乗り鳴く
◇歌の主人公がなぜこれ迄は忍び泣いていたのか、そして今後はそうではないのか、それなりの事情がありそうですが、蓋し、夫の喪に服す期間があけたのかも知れません。それは、王朝和歌には、家の側の荻(外見はすすきと酷似)の葉にそよ風が吹くということは、男が女を訪ねてくることを表すという設定の歌が数多くあること。時鳥は死出の山から越えて来るという理解が共有されていて、死を連想させること。また卯月にはひっそりと忍び音に鳴き、五月になると公然と鳴くものとされていましたから、喪があけたので忍ぶ必要がなくなったと理解できるからです。またホトトギスは夜も鳴くことから、有り明けの月と時鳥は相性のよいものとして共に歌に詠まれてきました。時鳥が「名をも隠さで鳴く」というのは、平安時代に、時鳥は自分の名前を名乗って鳴くと理解されていたこと、つまりその鳴き声が「ホトトギス」と聞きなされていたことに拠っています。ただし末尾の「す」の音は、きぎす・うぐいす・ほととぎす・からすなどに共通する様に、鳥であることを示す末尾語の可能性もあります。
〇せめて時雨よかし ひとり板屋のさびしきに 196
◎来ぬならば せめて時雨よ 降っとくれ 独りの寂しさ紛らわす 板屋打つ音 たたく音
◇「せめて時雨くらいは」というのですから、人を待っても訪ねて来ない状況であることがわかります。「時雨は降るのに、なぜあなたは来てくれないの」という気持ちなのでしょう。時雨は晩秋から初冬にかけて降る冷たい通り雨のことで、「過ぐる」という言葉から派生しました。ですから本来の時雨は、何日も降り続くような雨ではなく、急にパラパラと断続的に降ってくるものでした。「時雨」という表記は、「時鳥」と書いて「ほととぎす」と読み、夏の訪れを感じさせるように、「時雨」と表記されたのは、時雨が冬の到来を示すものと理解されていたからです。当時の家屋の屋根は、武士階級でも板葺きでしたから、決して粗末な家とは限りません。天井がなければ、夜に急にパラパラと降ってくる時雨が、板屋根や枯れた木の葉を打つ音はよく聞こえたようで、古歌にもそのような趣向の歌がたくさん詠まれています。静寂の支配する夜は聴覚が過敏になりますから、微かな時雨の音が、寂しさを増幅させるのでしょう。「ひとり板屋の」は「独り居」(ひとりゐ)を掛けています。板屋の「い」と独り居の「ゐ」は本来は異なる音ですが、室町時代には区別がなく統合されていますから、独り居の寂しさを時雨の音で紛らわしているわけです。
室町時代の小歌などの歌詞集である『閑吟集』を、私なりに現代語訳にしてみました。現代語訳はネット上にも多く、出版もされていますから、今さら古典文芸の専門家でもない私が訳す程のことはないので、今もそのまま歌の歌詞になるようにと、五音と七音を活かして訳してみました。その制約があるため、当然ながら大胆な意訳をせざるを得ず、正確な現代語訳にはなっていません。出版されている注釈書と異なることもありますが、もともとが歌ですから、人によって解釈に幅があるのはやむを得ません。高校の日本史の授業の教材研究の合間に、面白半分にやってみただけのことですから、お許し下さい。
〇は原文、◎は私の現代語訳、◇は私のコメントです。ただ所詮は素人ですから、解釈に誤りがあるかもしれませんし、日本史の教諭が私の本職ですから、目の付け所が文芸的ではありません。
書き足しているうちに、文字数上限の3万字を越えてしまいましたので、3つに分割しました。随時加筆訂正しています。
〇雨にさへ訪はれし仲の 月にさへなう 月によなう 106
◎雨の夜も 訪ねてくれた仲なのに まして月夜になぜ来ない ねえ なぜ来ない
◇かつては雨も厭わずに訪ねて来てくれたのに、月夜には来てくれないと、女が疎遠になった男を恨み辛みを言う場面で、大層わかりやすい歌です。古来、逢瀬の時間は夜と決まっていましたから、二人で共に眺める月夜は逢瀬の最高の舞台設定なのです。ですから美しい月夜なのに来てくれないと女が嘆くのはもっともなのですが、男にしてみれば、煌々と月が照る夜は、夜とはいえ仲が知られてしまう心配があるのかも知れません。
〇宇津の山辺の現(うつつ)にも 夢にも人の逢はぬもの 113番歌
◎宇津の山辺のうつつじゃないが うつつにさえも逢ってはくれぬ 私のことなどもう忘れたか 夢の中にも現れぬ
◇この歌は、『伊勢物語』第九段「東下り」にある「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」とほぼ同じで、『新古今和歌集』(904番歌)にも収められています。「東下り」の冒頭部には、「その男、身はようなきものに思ひなして」と記されていますが、「我が身は役に立たないものと思い込んで」という意味ですから、事情はわかりませんが、傷心を癒やすため、一時的に都を離れる旅だったのでしょう。「宇津の山辺」は静岡市の宇津ノ谷から藤枝市岡部坂下に抜ける山道です。「現」とは目が覚めている現実の状態のことですから、都に留まっている女性に逢えないのは当然のことです。当時の旅は命懸けですから、女性が共に出かけなかったのは無理もありません。ですからせめて夢の中にでも逢えないものかと、嘆いているわけです。恋しい人の夢を見たいという心は、現代人も普通に共有できますが、古歌において恋しい人の夢を見るということは、現代人とは少々事情が異なります。人が眠ると、魂が肉体から抜け出して、心惹かれる方にゆくという理解があったのです。「あこがれ」という言葉の語源ともなる「憧る」(あくがる)という言葉は、そのような強烈な心の状態を表しています。ですから夢の中にさえ逢えないことは、その女が自分のことをもう恋しいとは思ってくれていないのではないかという不安を意味しているわけです。『万葉集』には多くの夢の歌がありますが、恋に関わる歌が多く、そのような感性は古くからあったことがわかります。そしてそれは平安時代から鎌倉時代になっても継承されたわけです。まあ『伊勢物語』の東下りの話には、かきつばたや都鳥の有名な和歌が含まれていて、高校の古典の授業で学習することでしょう。ですから『閑吟集』のこの歌を見れば、東下りの場面を連想する現代人は少なくないはずです。しかし室町時代の庶民が共有していたとなると、その古典文芸の教養には、ただ驚くばかりです。
〇ただ人は情あれ 夢の夢の夢の 昨日は今日の古 今日は明日の昔 114
◎何はなくても思いやり 所詮この世は夢の夢 昨日(きのう)の今日はもうきのう 今日も明日にはもう昨日
◇「情」という言葉の意味は幅が広く、その意味は前後の文脈の中で理解されなければなりません。この歌の前後には「情」を主題とする歌が5つ並んでいて、それらを読み比べてみると、「情けをかける」の「情」ではなく、男女の「情愛」という意味に理解した方がよさそうです。過去・現世・来世の三世の中でも、思い返せば、辛かった過去は悔やまれることばかり。待ち焦がれる明るい未来は、いつになったら来るのやら、どうなるかわからぬ不安ばかり。一瞬にして過去になる現在は儚い夢のようなものだから、何はなくても情愛(愛情)だけは失わずにいたいものだ、といったところでしょうか。原歌の「古」を「昔」と訳すと、刹那に三世が移ろう面白さを表しきれませんので、一瞬首をかしげたくなるような現代語訳にしてみました。
〇情けは人のためならず よしなき人に 馴れそめて 出でし都も偲ばれぬほどになりにける 出でし都も偲ばれぬほどになりにける 118
◎情は人のためでなく 自分のためにもなるものね 縁もゆかりもない人に ついほだされて馴れそめて 遠く都を離れたが 偲ぶことさえなくなって 懐かしいとも思わない
◇「情けは人のためならず」という諺は、「誰かに情けを掛けると、巡りめぐって自分によい報いがある」という意味ですが、この場合の「情け」はその様な教訓的な意味ではなく、114番歌と同様に、男女の「情愛」のニュアンスがあると理解した方がよさそうです。現代語訳に「情に引かれて」という意味の「ほだされる」という言葉を選んだのも、「情愛」の印象があったからです。「よしなし」とは、「理由がない」とか「つまらない」という意味です。何か縁があって、「由なき人」に「情」をかけ、それが縁となって都から遠く離れた地方に移り住んだのでしょう。しかしその「情」は結局は自分にとってもよい結果となり、今さら都が懐かしいとも思わなくなった、と理解してみました。はじめは「由ある人」と思い込んで地方に下ったが、「由なき人」であったことが露顕して、「離れた都を懐かしむほどになった」という意味に理解する説もありますが、それなら原文が「偲ばるるほどに」「偲ばれぬるほどに」となっていなければなりませんから、その説は採りません。なお「情けは人のためならず」という諺は、私自身は原典では未確認ですが、鎌倉時代の仏教的説話集である『沙石集』にも見られるそうです。
〇ただ人には馴れまじものぢゃ 馴れての後に 離るるるるるるるるが 大事ぢゃるもの 119
◎人に馴染(なじ)むは考えものよ 一度馴染んでしまったらならば 離れられないらりるるるれろ いやじゃいやじゃと大騒ぎ
◇「離るる」を強調したいのでしょう。「るるるるるるるる」が何とも愉快なのですが、歌の歌詞だからこそこんなことができるのであって、『閑吟集』が歌謡の歌詞集であることがよくわかります。そう言えば「夜明けのスキャット」とかいう懐かしい歌謡曲に、「ララララララ・・・・・ルルルルル・・・・・」を延々と歌う歌詞がありました。意味のない音声をまるで楽器の音のように即興的に歌うことをスキャットと言うそうです。経験豊富な女がまだ若い女に、「安っぽく男を好きになるものではないよ」と恋の指南をしている場面なら、こんな会話もあったことでしょう。
〇何となる 身の果てやらん 塩(潮)に寄り候 片し貝 123
◎何とまあ ついには果てる我が身かも 鳴海の潮の寄る浜の 片割れかなしき片し貝
◇渚に打ち寄せられた片方だけの貝殻を見て、成ることのない片思いの行く末を予感し、自虐的に詠んだ場面でしょう。「なる身」は「鳴海」を掛けているのですが、鳴海は濃尾平野の東端にあった干潟のことで、干潟の千鳥で知られた歌枕です。鳴海は干満の潮の流れが速いことでも知られていましたから、渚には貝殻が沢山打ち寄せられていたのでしょう。片割れの貝殻が片思いを表すことは、平安時代末期に始まった貝合の遊びと関係あると思われますが、「鮑の片思い」は『万葉集』にも見られます。ただしアワビは一見して片貝に見えますが、分類上は巻き貝です。現代語訳の下句は、「の」と「か」の音を連ねて、語調を揃えてみました。
〇舟行けば岸移る 涙川の瀬枕 雲はやければ 月運ぶ 上の空の心や 上の空かやなにともな 127
◎舟が進めば岸移り 涙の川の瀬も速い 空を仰げば雲の川 流れも速く月運ぶ 私の心は上の空 空なる心を何としょう 何ともしようもないかもね
◇恋故に心が地に着かず、上の空になっていることを詠んでいますが、実際に月夜に雲が流れる空を仰いで、溜息をついた場面なのでしょう。「舟」は「涙川」の序詞となっており、「舟行けば岸移る 涙川の瀬枕 雲はやければ 月運ぶ」の部分は、「上の空」を導くための序となっています。また「涙川」や「枕」が恋を暗示しているなど、なかな手の込んだ歌となっています。作詞者は相当に歌ことばに慣れた人だったのでしょぅ。月を舟に、流れる雲を川になぞらえることは、古歌にしばしば見られます。「瀬枕」とは、早瀬の水が水中の石などに当たって盛り上がり、枕のように見える所のことですが、「瀬に枕する」と言えば舟中に寝ることを意味しますから、夜舟での感慨かもしれません。
〇歌へやうたへ 泡沫(うたかた)の あはれ昔の恋しさを 今も遊女の舟遊び 世を渡る一節(ひとふし)を うたひていざや遊ばん 128
◎歌えようたえ うたかたの はかない昔を偲びつつ 今も遊女は舟遊び 仮の宿りの世を渡る 歌を一節歌いつつ 遊び倒してさあ囃せ
◇この歌には長い長い背景があります。西行が摂津の天王寺に詣でる途中、俄に雨となり、淀川河口の港町として栄えていた江口で宿を借りようとしたことがありました。ところが対応した遊女「玅」(たえ)は、これをことわってしまいます。その時の歌の応答が『新古今和歌集』に収められていて、古くからよく知られていました。それは次の様な歌です。「世中を厭ふまでこそ難(かた)からめ かり(仮・借り)の宿りを惜しむ君かな」、「世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に 心留(と)むなと思ふばかりぞ」。西行の歌は、「世を厭い出家することまでは難しいかもしれませんが、宿を貸すことくらいはできそうなのに、あなたはそれさえ惜しむのですか」という意味です。それに応えた遊女の歌は、「世を厭い出家されたとうかがったものですから、世俗の我が家(遊女の家)などかえって申し訳なく、お気に留められませぬようにと思うばかりでございます」という意味です。そして室町時代の観阿弥が、この逸話を素材にして謡曲を創作し、それを息子の世阿弥が「江口」という謡曲に改作しました。ある旅の僧が、西行と同じく天王寺に参詣途中、江口で西行の故事を思ってその歌を口ずさむと、それを聞いたある女が、遊女(江口の君)が断った真意を説きます。それで僧がその女の素性を問うと、当の遊女の幽霊であると言って見えなくなってしまいました。それで僧が夜に遊女を弔っていると、遊女と二人の侍女の霊が船に乗って現れ、かつての華やかな舟遊びの様子を見せます。『閑吟集』に載せられたこの歌は、この場面の歌なのです。そして遊女は罪業の深い実でありながらも、執着を離れれば悟りを得ると説いて、普賢菩薩の姿に変身し、舟は普賢菩薩の乗り物とされている白い象に変化して、白雲にうち乗って西の空に消えていってしまったという粗筋です。現在、大阪市東淀川区南江口には、「江口の君堂」とも呼ばれる寂光寺があり、この逸話の故地とされています。
謡曲「江口」の中では悟りに至ることの前提となっていますが、そこから切り取られてしまえば、宴会の席では享楽的な歌として遊女達が歌い、客の男達が囃し立てたことでしょう。それは自然なことですが、当時の庶民の中に、謡曲の内容まで知っていた者がいることに驚きます。演歌歌手八代亜紀に「泡沫」(うたかた)という歌があります。「歌えや歌え うたかたの 夢幻や この世はざれごと 歌えば この世は中々よ・・・・」という歌詞なのですが、作詞者の野村 万之丞(まんのじょう)は和泉流の能楽師ですから、「江口」のこの歌を本歌として作詞したことは明白です。『閑吟集』は言わば現代のカラオケ歌詞集のような側面があったと言ってもよいと思っています。
冒頭部は「う」の頭韻が効いていますから、それを活かさざるを得ませんでした。
〇人買舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ船頭殿 131
◎私を買った人買舟は 波にもまれて沖を漕ぐ どうせ売られてしまう身なのよ せめて静かに漕いどくれ ねえ 船頭さん
◇貧民が借金を返せず、子女を手放すことによる人身売買は、古から現代に到るまで、世界中で行われてきています。律令時代には奴婢が売買されたことは、高校の日本史の授業でも学習します。『吾妻鏡』の延応元年(1239年)五月一日の条には、妻子や所従(下人)、果ては自分自身を売ることを禁止することが記されています。禁令が出されたということは、裏を返せば中世には普通に行われていたということなのでしょう。室町時代に流行した能楽の脚本である謡曲には、子供の身売りを主題とした「自然居士」 (じねんこじ)「隅田川」「桜川」などがあります。よく知られているところでは、「安寿と厨子王」の原話も室町時代に成立していました。買われた若い女性の中には、遊女のような職業に就かざるを得なかった者も少なくないはずです。宴席でこの歌を歌った女性自身の哀しい体験談かもしれません。「静に」という言葉には、運命とあきらめ、それを黙って受け容れざるを得ない寂しさが表れています。
〇沖の鴎は 梶とる舟よ 足を櫓にして 134
◎沖の鴎は 梶とる小舟 足を櫓にして 波越えて
◇あまりにも短くて、現代語訳に直しきれず、原歌とほとんど変わらなくなってしまいました。それでも都々逸と同じ七七七五の音数律にして、軽快さを際立たせてみました。「梶」も「櫓」も舟を漕ぐのに欠かせない道具で、水に浮かぶ鴎を小舟に見立てているわけです。海辺や舟の歌が続いているのですが、港は威勢のよい男達の仕事場であり、このような歌が好んで詠まれたのでしょう。・
〇また湊へ舟が入(い)るやらう 唐櫓(からろ)の音が ころりからりと 137
◎またも港へ舟が来る 唐艪の音をころがして からりころりと舟が来る
◇入津する舟の艪を漕ぐ音を、舟の男達を相手にする女達が聞きつけた場面でしょうか。唐櫓とは「中国風の櫓」と言うことなのでしょうが、具体的にどの様な櫓であるかはわかりませんでした。「からろ」の訓に合わせて「ころりからり」の句が選ばれているのは明らかです。このように音を大切にしている歌が多いのですが、それはもともと声に出して歌うものであったからで、決して文字で読む文芸ではありませんでした。現在では短歌などの伝統的文芸は、すっかり文字を目で追う文芸になってしまったのが残念です。
〇今憂きに 思ひくらべて古の せめては秋の暮もがな 恋しの昔や たちも返らぬ老いの波 いただく 雪の真白髪(ましらが)の 長き命ぞ恨みなる 長き命ぞ恨みなる 140
◎今の辛さを古と 思い比べてみるならば せめては秋の暮れ頃の 恋しい昔にもどりたい 寄せるばかりの老いの波 再び返すこともなく 頭に雪を積む程の 長い齢(よわい)が恨めしい 長い齢が恨めしい
◇人生はよく四季に喩えられます。ただしこれは四季の区別が明瞭な日本だからこその比喩で、諸外国ではどうなのか。興味のあるところです。作者はかなりの高齢なのでしょう。春や夏とまでは望まないが、せめて秋の暮れ頃に返す術はないものかと嘆いている場面で、「もがな」は願望を表す終助詞です。秋が暮れればあとは冬しかありませんから、現在を辛く寂しい人生の冬と感じているわけです。
〇葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 恨みながら恋しや 143
◎葛の葉よ 風に裏見せる葛の葉よ つれない人を葛の葉の 恨みはしてもうら恋し
◇葛は「真葛原」(まくずはら)と呼ばれるほどに、原野を一面に覆い尽くします。そこに秋風が渡ると、葉の裏が表よりやや白っぽいため、葉が裏に返って、風紋のように風の渡るのがわかります。王朝和歌にはこの様子を、秋風ならぬ飽きの風が吹くと恋心が裏返り、恨んでもなお恨めしく思うという情趣で詠まれていました。「秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな」(古今和歌集823)という歌は、それをよく表しています。要するに「葛の葉」は裏を見せることから、「恨み」を連想させたのです。また「うら寂し」「うら哀し」などの様に、「うら・・・・」を接頭語とする言葉を導くこともありました。この歌は、辛く当たる人を恨めしく思いながらも、恨みきれない微妙な女心を詠んだものでしょう。現代語訳の「うら恋し」という言葉は、もちろん「裏・恨」に引かれたものですが、もともと「心の中で恋しく思う」という意味です。
〇身は破れ笠よなう 着もせで 掛けて置かるる 149番歌
◎我が身は破れた笠なのよ ねえ 誰も着てはくれなくて 掛けたまんまで捨て置かれ
◇この歌は謎掛けになっています。我が「身」を「破れ笠」と解く。その心は、誰も「着」ることなく掛けて放置されている笠のように、誰も訪ねて来もせずに相手にされない我が身だから、というわけです。「着」が「来」を掛けているのはすぐにわかります。また「着」たり「掛け」たりする「笠」というのですから、umbrellaの傘ではなく、簑傘であることもわかります。誰も来てくれないというのですから、男の来訪を待つ女の歌というわけです。『閑吟集』には、「身は・・・・・」から始まる謎掛けの歌が他にもありますから(130・132・155番歌)、当時流行った小歌の型なのでしょう。この歌は寂しい心を慰めるように、独りで歌ったものではないと思います。それは「なう」という終助詞が、同意を求める時によく使われるからです。喩える物を替えれば、即興で無限に歌詞はできるのですから、宴席で聞いていた者達が気の利いた謎解きの心を聞いて、その場が盛り上がったかもしれません。
〇笠を召せ 笠も笠 浜田の宿(しゅく)にはやる 菅の白いとがり笠を 召せなう 召さねば お色の黒げに 150番歌
◎笠を召しませ 召しませ笠を 浜田の宿では大はやり 召しませ白いとんがり菅笠 召さねばお顔が黒くなる
◇笠を被ることを勧める歌ですから、山形県の花笠音頭のように、笠を持って踊る歌かもしれません。「浜田の宿」がどこか確定はできませんが、「宿」というのですから街道沿いの集落であり、現在の島根県浜田市の可能性があります。白っぽい菅笠を被れば、陽に焼けて肌が黒くならず、白いままで美しいというのでしょう。
〇ふてて一度言うてみう 嫌(いや)ならば 我もただそれを限りに 157
◎なるように なるから一度 言ってみよう ともかく言うだけ言ってみよう それでもいやと言うならば それですっきり諦める
◇「ふてて」の原形である「ふつ」は、現在の「ふて腐れる」にもつながる言葉で、不満があり、相手に逆らうような反抗的態度をとることです。中途半端な付き合いがだらだらと続いたのか、煮え切らない相手に対して、これが最後になるかも知れないと腹を括って、本心を問うてみようと決意した場面でしょうか。身に覚えのある人も少なくないことでしょう。『閑吟集』が古典的和歌集と異なり、現代でも多くの人に気軽に読まれているのは、現代人も共有できる心情が詠まれているからだと思います。
〇一夜馴れたが、名残惜しさに 出でて見たれば 奧中に 舟の速さよ 霧の深さよ 165
◎一夜の逢瀬の名残惜しさに 後ろ姿を見にでれば 沖へ漕ぎゆく舟の速さよ あれ 怨めしい朝霧よ
◇港の女が、早朝、一晩馴れ親しんだ男と別れた後、それでも名残惜しさに後ろ影だけでもと思って、舟に乗って帰る姿を遠くから見送る場面でしょう。舟の別れは、普通ならばいつまでも互いに視認できますが、秋の海霧が立ちこめているのでしょう。すぐに見えなくなってしまいました。こんな時の舟は、舟足が早く感じられるものです。167番歌には「後ろ影を見んとすれば 霧がなう朝霧が」という、同じ様な場面があります。また現代の歌謡曲にも霧中の別れの歌はいくつもありますから、古今を問わず、霧は別れを演出するのにうってつけのアイテムのようです。現代ならば霧笛が聞こえるというだけで歌になるのでしょうが・・・・。
〇めぐる外山に鳴く鹿は 逢うた別れか 逢はぬ怨みか 170
◎めぐる里山 小夜鳴く鹿は 逢えて別れを惜しむのか 逢えずにひとり怨むのか
◇鹿の鳴き声はまるで悲鳴のようで、遠くまでよく聞こえます。特に独り寝の床に聞こえる声は、その哀愁を帯びた声の印象も相俟って、妻問いの声と理解されていました。動物の鳴き声を人の言葉に置き換えて理解することを聞きなしというのですが、古歌では鹿の鳴き声は「甲斐よ」(かいよ)と詠まれることがあります。「秋の野に妻なき鹿の年を経てなぞわが恋のかひよとぞ鳴く」(古今集 1034)という歌は、妻のない鹿が、長い間恋い慕ってもその甲斐がないと嘆いて鳴いていると理解しているのです。私も何度も聞いたことがありますが、「カイヨー」と聞こうと思えば聞けないことはありませんでした。もともと聞きなしとは、聞きたいように聞こえるものなのでしょう。この歌は男の来訪を待っている女の歌で、別れを惜しむ鳴き声には羨み、逢えない悲しみの声には共感している場面と理解するのが自然です。
〇逢夜(おうよ)は人の手枕 来ぬ夜は己(おの)が袖枕 枕あまりに床(とこ)広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへ疎(うと)むか 171
◎逢う夜はあなたの腕枕 来ぬ夜は己(おのれ)の袖枕 一人寝の床(とこ)広過ぎて 枕に此方(こちら)と誘っても 枕も私を袖にする
◇共寝をする歓びを経験すればする程、独り寝の夜は寂しく、床の幅が広さがその寂しさを増幅します。その寂しさを枕に当たって紛らわしている場面でしょう。「枕も私を袖にする」という訳は、「袖枕」に引かれたものですが、原歌は寂しいながらもどこかユーモラスなので、現代語訳にもその雰囲気を活かしてみたわけです。「手枕」と「袖枕」の対比が効果的です。
〇人を松虫 枕にすだけど 寂しさのまさる 秋の夜すがら 176
◎夜もすがら 来ぬ人を待つ枕辺に 人待つ虫の 声の寂しさ
◇通ってこない男を待つ女が、松虫の声に寂しさを募らせている場面です。古歌では「鳴く」は「泣く」を掛けることが多く、実際に鳴いているのは虫であっても、人が泣いていると理解されました。古の松虫は現在のスズムシ、鈴虫は現在のマツムシであるという有力な説があります。その当否についてはここでは深入りせず、説の紹介に止めておきましょう。それはともかくとして、王朝和歌では「松」と「待つ」を掛けて、「人待つ虫」と詠まれるのが常套で、秋の夜長にね来るべき人の来ない寂しさや、人恋しい情趣が詠まれましたが、ここでもそのまま継承されています。現在ではスズムシやマツムシの声はすっかり珍しいものになってしまいましたが、外来種のアオマツムシなら、草むらではなく、樹上でうるさい程に鳴いています。しかし来ぬ人を待つ寂しさを感じさせる情趣はなさそうです。「すだく」は漢字では「集く」と表記し、本来は群がり集まることを意味しているのですが、そこから派生して虫が鳴くことをも表す様になりました。
〇咎(とが)もない尺八を 枕にかたりと投げ当てても 寂しやひとり寝 177
◎罪科(つみとが)のない尺八を 枕に打ち付け八つ当たり それでも気分は晴れなくて やっぱり独り寝寂しいわ
◇独り寝の寂しさを尺八に八つ当たりしている場面です。「咎もない」とわざわざ言うのですから、八つ当たりであることは本人も十分わかっています。それでもそうせざるを得ない程に寂しいということなのでしょう。次の178番歌にも枕に八つ当たりする歌がありますが、枕を訪ねて来ない男になぞらえていますから、男専用の枕があったようです。また「かたりと投げ当て」というのですから、枕は硬い木枕だったかもしれません。尺八を置いてあるというのですから、男はしばしば通ってきていたと思われます。ただ当時の尺八が現在の尺八と同じであったかどうかはわかりません。一般には尺八は16世紀末に、一節切(ひとよぎり)と呼ばれた竹の笛から生まれたことになっています。しかし一節切は竹の管の中間部を用いるため、長さは1尺少々しかなく、1尺8寸もありません。『閑吟集』が成立したのは1518年ということですから、時期が合わないのですが、その辺りのことになると、もう私の手には負えませんので御容赦下さい。
〇一夜来ねばとて 咎(とが)もなき枕を 縦投な投げに 横な投げに なよな枕よ なよ枕 178
◎たった一晩来ないといって あっちこっちに放り投げ 罪ない枕に八つ当たり ちょいと枕よ おい枕
◇場面の情景については説明は不要であり、何とも言えないユーモアが魅力です。ただし当時の枕は木製の箱枕であった可能性が高く、179番歌にもたぶん「木枕」が詠まれていますから、そんなに乱暴に放り投げたら壊れてしまいかねず、当たれば怪我もしそうです。枕に八つ当たりしたわけは、もちろん来るはずの男専用の枕がすぐ隣にあったからなのでしょうが、他にもわけがありそうです。それは181番歌にもあるように、枕は恋の行方を知っているものという理解があったからだと思います。
〇恋の行方を知るといへば 枕に問ふもつれなかりけり 181
◎恋の行方を知るという 枕に尋ねてみたけれど 枕は素知らぬふりをする
◇この歌を含めて、枕と恋を詠んだ歌が約十首も並んでいます。ここでは枕が恋の行方を知っているというのですが、そのような理解は早くも『古今和歌集』に詠まれています。「わが恋を人知るらめや敷玅の枕のみこそ知らば知るらめ」(504)という歌で、人は私の恋を知らなくても、枕こそは知っているという意味です。『閑吟集』の180番歌にも「来る来る来るとは 枕こそ知れ」という歌がありますから、枕と恋の関わりが古来受け継がれていることがわかります。「つれない」という言葉は現代では「冷淡な」という意味に理解されていますが、古語の「つれなし」は「何か尋ねても反応がない」という意味で、微妙にニュアンスが異なりますので、現代語訳でもそれを意識して訳してみました。
〇衣々(きぬぎぬ)の砧(きぬた)の音が 枕にほろほろ ほろほろと 別れを慕ふは 涙よなう 涙よなう 182
◎一夜限りの 衣々の 別れも迫る しののめの 砧の音が 枕辺に ほろほろほろろと 聞こえれば 堰きもあえない 我が涙 こぼれて濡らす 袖枕
◇砧とは、板の上で衣を槌で叩いて皺を伸ばしたり柔軟にしたり、また艶を出すための道具のことです。衣を砧で打つことは、特定の季節に限られる家事ではないのですが、古歌では、秋の長夜に、妻が不在の夫を案じたり、女が男の来訪を待ちながら打つという設定がかなりありますから、砧の音は恋に関わる歌ことばになるわけです。後朝(きぬぎぬ・衣々)の別れが近い時間にその音が聞こえると、次の逢瀬が不安になるというのでしょう。砧を打つ音を「ほろほろ」と聞いていますが、もちろんこれは涙を導くためです。「きぬ」の音の頭韻を、現代語には訳せないのが残念です。歌の末尾が「・・・・なう」という余情のある表現は、『閑吟集』にしばしば見られます。
〇君いかなれば旅枕 夜寒の衣うつつとも 夢ともせめてなど 思ひ知らずや怨めし 183
◎あなたは旅の草枕 私はひとり砧打ち あなたの衣を調える 現(うつつ)までとは思わぬが、せめても夢の中くらい 思いを馳せてくれないの 秋の夜寒が怨めしい
◇砧で衣を打つ歌が続きます。この歌は世阿弥作の謡曲「きぬた」の一節です。筑前にある夫婦が住んでいたのですが、夫は訴訟のために都に上り、そのまま3年間も妻の元に帰りません。夫は侍女に年末には帰郷すると言い含めて帰らせると、妻は一人暮らしの悲しさや生活の苦しさを訴えます。そこへどこからともなく、砧を打つ音が聞こえてきました。異国にいる夫を思いつつ妻が砧を打ったという中国の故事を聞き、妻も砧を打っては舞うのですが、そこへ年末にも帰れないとの知らせが届き、妻は夫の心変わりを嘆いて病となり、遂には死んでしまいます。その後帰郷した夫が妻を弔うと、妻の亡霊が現れ、『閑吟集』のこの歌を以て夫に詰め寄ってさめざめと泣きます。しかし夫が合掌すると、法華経の功徳により妻は成仏した、という粗筋です。 「衣うつつとも」の部分では、「うつ」が「打つ」と「現(うつつ)」をかけているのはすぐにわかります。法華経が誦経されるのは、法華経巻五は女人成仏を説いていると理解されていたからでしょう。
〇千里の道も 遠からず 逢はねば咫尺(しせき)も千里よなう 185
◎逢えるなら 千里の道も なんのその 逢えぬなら 近くにいても 遠いもの
◇これはもう下手な解説は不要でしょう。若い時には、誰もが似たような経験があったはず。年を重ねて振り返ってみると、少々気恥ずかしいものです。『枕草子』に「遠くて近きもの、極楽、舟の道、男女の仲」と記されていますが、男女の仲は遠いようでも近く、近いようでも遠いものなのでしょう。「咫」も「尺」も短い長さの単位で、「咫尺千里」は、近くにいても、心が通わなければ千里の遠さに感じられることを意味する四字熟語となっています。もともとは唐の詩人李白の詩の一節「高唐咫尺如千里」まで遡るのですが、それが五山僧に広まり、更に庶民に恋愛歌謡として受け容れられる様になったものです。禅僧が好んだ詩句であるのに宗教臭が稀薄なのは、もともとが宗教的真理とは無関係に、漢詩や朱子学の知識が禅僧の教養の一つであったことに拠っています。
〇君を千里に置いて 今日も酒を飲み ひとり心をなぐさめん 186
◎いとしい君は 千里のかなた 僕は寂しく独り酒 今宵も心を慰める
◇飲めば心が慰められるかと飲んではみるものの、かえって寂しさは募るもの。まるで歌謡曲のようなと思い探してみると、石川さゆりの「独り酒」、ぴんから兄弟の「ひとり酒」、伍代夏子の「ひとり酒」など、たくさんありました。歌詞を読んでみると、置かれた状況は異なっていますが、それでもこの歌に題を付けよと言われたら、誰もがみな同じく「ひとり酒」とするでしょう。既に何回もお話しましたが、『閑吟集』は現代もなお歌謡曲の歌詞のヒントになっているのです。
〇南陽県の菊の酒 飲めば命も 生く薬 七百歳を保ちても 齢(よわい)はもとの如くなり 187
◎南陽県の菊酒は 長寿の薬と言うけれど 七百歳になったとて 齢は何もかわらない
◇この歌は、田楽能「菊水」の一節そのままだそうです。平均寿命の短かった古は、誰もが長寿を請い願いました。しかしたとえ七百歳の長寿を得たとしても、老齢であることに変わりありません。「南陽県の菊酒」については、平安時代に唐文化に憧れた官僚達が、百科事典のように座右において重宝した『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という唐の書物の薬香草部の菊の条に、『風俗通』という書物を引用して、「南陽の酈県(なんようのりけん)に甘谷(かんこく)あり。谷水甘美なり。云ふ、其の山上大いに菊あり。水は山上より流れ、下は其の滋液(じえき)を得。谷中、三十余家あり。また井を穿(うが)たず。悉く此の水を飲む。上寿は百二三十、中寿は百余、下は七八十なり。之を大夭と名づく。菊華は身を軽くし気を益すが故なり」と記されています。菊水を飲めば長生きできるが、七八十歳は若く、百二三十歳で漸く長生きであるというのです。重陽の節句に、盃に菊の花を浮かべて菊酒を飲む風習がありましたが、それはこのような菊の理解に拠っています。また縁起のよい菊酒にあやかって、現在では「菊」の字を含む清酒の名前が、全国には数え切れない程あります。現在では菊の花は葬儀用の花という理解がありますが、かつては長寿を寿ぐ花だったのです。敬老の日の菊の花は、縁起でもないと忌避されることがあるそうなので、ついつい菊の花を応援したくなりました。
〇このほどは、人目を包む我が宿の 人目を包む我が宿の 垣穂(かきほ)の薄(すすき) 吹く風の 声をも立てず忍び音に 泣くのみなりし 身なれども 今は誰をか憚りの 有明の月の 夜ただとも 何か忍ばん時鳥(ほととぎす) 名をも隠さで 鳴く音かな 名をも隠さで鳴く音かな 194
◎これまでは 人目忍んで侘び住まい 人目忍んで侘び住まい 垣根のすすきにそよとさえ 音も立てない風のごと 忍んで泣いていたけれど 今は心の向くままに 有明月のほととぎす 誰に憚ることもなく 忍び音に鳴くこともなく 名前隠さず名乗り鳴く
◇歌の主人公がなぜこれ迄は忍び泣いていたのか、そして今後はそうではないのか、それなりの事情がありそうですが、蓋し、夫の喪に服す期間があけたのかも知れません。それは、王朝和歌には、家の側の荻(外見はすすきと酷似)の葉にそよ風が吹くということは、男が女を訪ねてくることを表すという設定の歌が数多くあること。時鳥は死出の山から越えて来るという理解が共有されていて、死を連想させること。また卯月にはひっそりと忍び音に鳴き、五月になると公然と鳴くものとされていましたから、喪があけたので忍ぶ必要がなくなったと理解できるからです。またホトトギスは夜も鳴くことから、有り明けの月と時鳥は相性のよいものとして共に歌に詠まれてきました。時鳥が「名をも隠さで鳴く」というのは、平安時代に、時鳥は自分の名前を名乗って鳴くと理解されていたこと、つまりその鳴き声が「ホトトギス」と聞きなされていたことに拠っています。ただし末尾の「す」の音は、きぎす・うぐいす・ほととぎす・からすなどに共通する様に、鳥であることを示す末尾語の可能性もあります。
〇せめて時雨よかし ひとり板屋のさびしきに 196
◎来ぬならば せめて時雨よ 降っとくれ 独りの寂しさ紛らわす 板屋打つ音 たたく音
◇「せめて時雨くらいは」というのですから、人を待っても訪ねて来ない状況であることがわかります。「時雨は降るのに、なぜあなたは来てくれないの」という気持ちなのでしょう。時雨は晩秋から初冬にかけて降る冷たい通り雨のことで、「過ぐる」という言葉から派生しました。ですから本来の時雨は、何日も降り続くような雨ではなく、急にパラパラと断続的に降ってくるものでした。「時雨」という表記は、「時鳥」と書いて「ほととぎす」と読み、夏の訪れを感じさせるように、「時雨」と表記されたのは、時雨が冬の到来を示すものと理解されていたからです。当時の家屋の屋根は、武士階級でも板葺きでしたから、決して粗末な家とは限りません。天井がなければ、夜に急にパラパラと降ってくる時雨が、板屋根や枯れた木の葉を打つ音はよく聞こえたようで、古歌にもそのような趣向の歌がたくさん詠まれています。静寂の支配する夜は聴覚が過敏になりますから、微かな時雨の音が、寂しさを増幅させるのでしょう。「ひとり板屋の」は「独り居」(ひとりゐ)を掛けています。板屋の「い」と独り居の「ゐ」は本来は異なる音ですが、室町時代には区別がなく統合されていますから、独り居の寂しさを時雨の音で紛らわしているわけです。
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