goo blog サービス終了のお知らせ 

うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

田植えの時期

2016-05-05 16:15:13 | うたことば歳時記
 ゴールデンウィークの頃、我が家の周辺では田植えが行われます。地域によっては4月に済ませてしまうこともあるでしょうが、私くらいの高齢者にとっては、5月の田植えでも時期が早いと思ってしまいます。幼い頃の田植えの記憶では、田植えは梅雨の真っ最中のこと。9月初めの二百十日は稲の花の咲く時期に重なるため、暴風の多いとされる二百十日は農家の厄日とされていました。そして稲刈りは10月から11月のことでした。ですから11月23日の勤労感謝の日も、収穫を神様に感謝する日として、時期的にも素直に受け容れることができていました。ところが現在では、田植えが早まった結果、8月には稲刈りが始まり、9月中に終わってしまいます。

 いったいどうしてこんなに早まってしまったのでしょうか。いろいろ理由があると思いますが、私は稲の栽培をしたことのない農業の素人ですが、台風シーズンの前に稲刈りを終えてしまえば、台風の被害を避けることができるということが大きな理由でしょうか。またいち早く新米として出荷し、高い値段で買い取ってもらえるということもあるでしょう。早く収穫するためには、早い時期の田植えが必要です。しかし稲は本来は熱帯の植物ですから、自然のままに発芽させていたのでは田植えに間に合いません。稲の発芽温度は30度前後だそうですから、苗床の温度管理をしなければ、早期の田植えはできないわけです。このような栽培技術の発達や品種改良が、田植えに留まらず、稲の栽培時期の早期化を可能にしたのでしょう。

 また昔は田植えを早い時期にやろうとしてもできない事情があったようです。最大の理由は田植えに必要な水の確保という問題でしょう。我が家の周辺の水田では、水田のわきを流れる用水路を堰き止めて水位を上げ、水田に自然に水を導入しています。しかしそれは適度の幅の水路と水量のある用水路が発達していて初めてできることです。場所によってはポンプで汲み上げている水田もあります。しかしそれができない昔は、天然の雨に頼るしかありません。つまり梅雨時にしか田植えをすることができなかったのです。また裏作に麦を栽培している水田では、梅雨の晴れ間である五月晴れの日に麦を収穫し、その後代掻きをしてから田植えをすることになりますから、麦の収穫前に遡りようがないわけです。

 そういうわけで、五月雨の時期に田植えをしていることを詠んだ古歌がたくさんあります。
  ①五月雨は小田の水口手もかけで水の心にまかせてぞ見る   (金葉集 夏 139)
  ②いかばかり田子の裳裾もそほつらん雲間も見えぬころの五月雨(新古今 夏 227)
  ③五月雨の晴れぬ限りは早苗とる田子のさ衣乾く間ぞなき   (堀河百首 夏 444)
①は、五月雨の頃は水量が多いので、特に人手をかけなくとも自然に水口(みなぐち)から田に水が入る様子を見ている、というのです。②③はわかりやすい歌で、五月雨の中で田植えをする早乙女の衣が濡れることを詠んでいます。このように田植えの歌には「五月雨」という言葉が必ずと言ってよい程に、一緒に詠み込まれるのです。もちろん「五月雨」は旧暦五月の雨ですから、現在の梅雨のことです。梅雨の期間は年によって前後があるでしょうが、現在の新暦の六月は含まれていると言うことができるでしょう。

 『枕草子』に次のような面白い話があります。「賀茂(かも)へ参る道に、『田植(う)う』とて、女の・・・・いと多う立ちて、歌を唄(うた)ふ。・・・・郭公をいとなめう唄ふ聞くにぞ心憂(う)き。『郭公、おれ、かやつよ、おれ鳴きてこそ、我は田植(う)うれ』と唄(うた)ふを聞くも、いかなる人か『いたくな鳴きそ』とは言ひけむ」。清少納言が賀茂社参詣の途中、早乙女(さおとめ)たちが田植唄(うた)を歌いながら働いているのを見たときのことです。「郭公め、お前が鳴くので私は田植をせにゃならぬ」と郭公を馬鹿にして歌っているので、唯美鑑賞的に郭公を愛好する彼女は、その唄(うた)を気に入らないのです。平安京のあたりでは、ほととぎすの鳴く時期と田植えの時期が同じことがわかります。『栄華物語』にも「早苗植(う)うる折りにしも鳴く郭公しでの田長とうべも言ひけり」という歌が記されています。平安時代の人にとっては、田植えと五月雨とほととぎすは、同じ時期の風物詩だったのです。

有名な唱歌『夏は来ぬ』の二番には、「さみだれのそそぐ山田に 早乙女が裳裾ぬらして 玉苗ううる 夏は来ぬ」という歌詞があります。今までは何の疑問もなく歌っていましたが、よくよく考えると、おかしな歌詞です。「夏は来ぬ」というのですから、夏になったことの感動を歌っていると思っていたのですが、卯の花は夏卯月に咲きますからよいのですが、五月雨は旧暦の五月、新暦なら六月の露の頃です。すでに立夏を過ぎていて、今更「夏は来ぬ」でもあるまいしと思ってしまいました。まあこのことは今日の主題とはかけ離れていますが・・・・。それはともかく、この歌にもあるように、明治期の人の季節感でも、田植えは五月雨の降る梅雨時のことだったのです。

 現代ではもう田植えが始まっています。しかしほととぎすはまだ渡ってきません。私の住んでいるあたりでは、毎年5月下旬のこと。旧暦ならまだ卯月です。私は田植えが早まっていることを、まだほととぎすの鳴き声が聞こえないことに実感しているのです。

 「ほととぎす」ついでのことに、ほととぎすの「忍び音」とはほととぎすの初声や夜にこっそりと鳴く声と理解されることが多いのですが、とんでもない誤りです。私のブログ「うたことば歳時記」に「ほととぎすの忍び音」と題して考証を載せておきましたので、是非御覧下さい。

風の香り(風薫る)

2016-04-26 21:14:53 | うたことば歳時記
 新緑の美しい時期になると、「風薫る」という言葉をよく耳にするようになります。なかなか美しい言葉なのですが、生徒にどんな匂いがするのと質問され、はたと困ってしまいました。そう言われれば確かに匂いなどしません。普段何気なく使っていて、考えたこともありませんでした。私の知っている古歌の中には、新緑の頃の爽やかな風を「薫る」と形容した例が思い浮かびません。『国歌大観』あたりで検索すればあるのでしょうが、少なくとも人口に膾炙するほどの古歌には、例はないと思います。

 ただし梅の花や花橘の香を運ぶ風を詠んだ歌ならたくさんありそうです。まずは梅と春風の歌から。
①花の香を風の便りにたぐへてぞ鶯さそふしるべには遣る  (古今集 春 13)
②吹く風を何いとひけん梅の花散りくる時ぞ香はまさりける (拾遺集 春 30)
③梅が香をたよりの風や吹きつらん春めづらしく君が来ませる(後拾遺 春 50)
④かをる香のたえせぬ春は梅の花吹きくる風やのどけかるらむ(千載集 春 18)
①は梅の香のする風が鶯を誘い出すというもの。②は、花に吹く風は花を散らすので嫌われるのですが、梅の花の場合は、風が吹くと花の香がいよいよよくわかるという趣向です。③は、梅の花の香に誘われて、人が訪ねてくるというもの。④は梅の香が長く続くのは、風が(花を散らすほどに強くはなく)長閑に吹いてくるからだろう、というわけです。

 次に橘と風を詠んだ歌を。
⑤五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらん    (後拾遺 夏 214)
⑥五月やみ花橘に吹く風はたが里までかにほひゆくらん   (詞花集 夏 69)
⑦浮き雲のいざよふ宵のむら雨におひ風しるくにほふ橘   (千載集 夏 173)
古には、橘、つまりみかん類の花が咲くのは旧暦五月と決まっていました。現在では新暦五月に咲いてしまいます。この時間差はともかくとして、鬱陶しい五月雨や五月闇の中で、ほのかに橘の香が風に運ばれてくると、爽やかな気分になるものです。⑤では、橘の香に昔を懐かしく思い起こすという趣向ですが、橘の香を嗅ぐと懐旧の心が湧いてくるという、当時の共通理解があったのです。⑥は説明も不要でしょう。⑦は、浮き雲が漂う村雨の中で、風が吹いたあとに橘の香が漂ってくるという歌です。

 花の香が好んで詠まれるのはこの梅と橘くらいのもので、これ以外で花の香を詠む歌は極めて稀でした。いずれも実際に嗅覚に訴える香を詠んでいて、風はそれを運ぶ物であり、風そのものが主役になることは大変少ないることが共通しています。あまりにもよく知られているので省きましたが、菅原道真の「東風吹かば・・・・春な忘れさそ」の歌でも風は脇役です。

 少々脱線しますが、菅原道真が詠んだ花の香の歌といえば、次のような歌があります
  ⑧さくら花主を忘れぬものならば吹き来む風にことづてはせよ  (後撰集 春 57)
これには次のような詞書きが添えられています。「家より遠き所にまかる時、前栽(せんざい)の桜の花に結ひつけ侍ける」。道真は大宰府に左遷される際にも梅と別れを惜しむ歌を詠んでいますが、余程に庭の花々を愛でていたのでしょう。花に二人称で呼びかけていますね。この歌には桜の花の香が詠まれてはいませんが、言葉にはしなくても、そのような心があったのでしょう。

 すると桜の花に香はないのではと言われそうです。多くの桜の品種の中には、香のあるものもあるそうですが、一般的には桜の花に香はありません。しかし桜の花の香を風が運ぶという、次のような歌も詠まれています。
  ⑨霞立つ春の山辺は遠けれど吹きくる風は花の香ぞする   (古今集 春 103)
  ⑩風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢   (新古今 春 112)
桜の花に香があったとしても、⑨のように遠山桜の花の香が遠くまで風で運ばれることはあり得ません。⑩では、風に運ばれる花の香は、「春の夜の夢」に伴う一種の夢幻的な雰囲気を演出する役目を持っているのであって、実際に香がするわけではなく、風に運ばれる桜の花の香はあくまでも観念的なものなのです。  

 以上のようなことから、風に運ばれる花の香を詠んだ歌は大変多いのですが、梅や橘など、実際に芳香のある花について詠まれるのであって、桜のように香のない花の場合は、観念的に詠まれていること、また香が主役であって、それを運ぶ風はあくまでも脇役であると考察しました。

 なおここには『万葉集』からの歌があげられていませんが、『万葉集』には花の香を詠んだ歌は極めて少なく、118首も梅の花が詠まれていても、香が詠まれているのはわずかに1首、橘は68首詠まれていますが、香が詠まれているのはわずかに数首しかありません。万葉時代の人々は、どうも花の香に関心が薄かったようです。

 それなら「風薫る」という、より直接的な表現をした歌を探してみましょう。
⑪風薫る木の下風は過ぎやらで花にぞ暮らすしがの山越え  (続拾遺集 春 68)
 ⑫風薫る雲に宿とふゆふはやま花こそ春の泊りなりけれ   (続後拾遺 春 98)
  ⑬風薫る花のあたりに来てみれば雲もまがはす三吉野の山  (新千載集 春 95)
  ⑭またも来む花に暮らせる古郷の木の間の月に風薫るなり  (続後拾遺 春 129)
  ⑮明け渡る霞のをちはほのかにて軒の桜に風薫るなり    (新拾遺集 春 87)
  ⑯明け方は池の蓮も開くれば玉のすだれに風薫るなり    (長秋詠藻) 藤原俊成
  ⑰風薫る軒の橘年りてしのぶの露を袖にかけつる      (秋篠月清集)藤原良経
鎌倉期から室町期のこれらの歌集には、以上のように「風薫る」という表現をする歌がけっこう見つかりましたが、⑪~⑮はいずれも春の歌で、薫るはずのない桜を詠んでいます。⑯⑰がようやく夏の歌ですが、蓮や橘の花の香を運ぶ風を詠んでいます。いずれも今日の新緑の季節に使われる「風薫る」とは情趣がことなりますが、それはともかくとして、「風薫る」という表現が定着しつつあることは、注目してよいと思います。

 このあたりまで書いてきて、とうとう二進も三進も行かなくなり、あとはもうネット情報を頼りにしてしまいました。「風薫る」とは漢語の「薫風」を和らげた表現だそうです。どうりで古い和歌にはあまり見つからないはずです。江戸時代の俳諧では、初夏の季語としてたくさん登場しますから、新緑の頃の爽やかな風という意味での「風薫る」は、言葉としては新しいものなのですね。本来なら本場の漢詩で「薫風」がどのように詠まれているか、中国語で「薫」にはどのようなニュアンスが含まれているかを検証しなければなりません。「卯の花のにおう垣根に」の「におう」が、花の香ではなく、色が美しく映えていることを意味しているように、中国語の「薫」には、香りがすること以外に別の意味があるのかもしれません。そのような考証は、素人の私にはとてもできないことです。どうぞお許しください。

 「風薫る」といえば、唱歌『若葉』に「あざやかなみどりよ ・・・・かおる かおる わかばがかおる」という歌詞がありました。私も小学校?で習った記憶があります。ここでは風が薫るを飛び越えて、若葉が薫っています。まあ新緑の風が薫るという意味なのでしょうが、こうしてとりとめもなく書いてきて、風の香りにもいろいろ変遷があるものだと、つくづく思っている次第です。こんな駄文に最後までお付き合いくださりありがとうございます。

            平成28年 4月 26日







松の花

2016-04-23 10:24:30 | うたことば歳時記
松の花が咲く季節になりました。「松に花があるの?」と言われそうですが、松ぼっくりという立派な実があるのですから、花がないはずはありません。しかし「花が咲きます」と言いたいところですが、松の花には花びらがないので、「咲く」という表現が馴染まないかもしれません。中学校の生物の時間に、種子植物を被子植物と裸子植物の二つに分類し、裸子植物の代表として、松の花の観察をした記憶のある方もいることでしょう。私も習ったはずなのですが、何しろ半世紀以上も前のことですから、うろ覚えです。裸子植物は子房がなく、胚珠がむき出しになっているので、その名があるという程度しか覚えていません。裸子植物には子房がありませんから、果実の部分がなく、種子もむき出しのままになっています。裸子植物の代表としては、松の他に杉や銀杏や蘇鉄があるそうです。そうすると銀杏の臭い果肉の部分は子房ではなかったのでしょうか。てっきりそうだと思っていました。

 生物的な観察はともかくとして、この時期の松は新緑の若葉の色が美しく、十分に観賞に堪えるものです。松は一年中色を変えないところが愛でられるため、かえって注目しないのでしょうが、晩春から初夏にかけて、松の葉の緑色が、一際鮮やかになります。
①常盤なる松の緑も春くれば今ひとしほの色まさりけり   (古今集 春 24)
②春深き色にもあるかな住の江の底も緑に味る浜松     (後撰集 春 111)
 ①はそのような常盤松の新緑に注目した歌なのですが、「ひとしほ」という言葉を選んでいるところに作者の意図がありそうです。現代では「ひとしお」という言葉は「一層」とか「一段と」というように、程度が増す意味で使われています。古語の「ひとしほ」も同じことなのですが、漢字で表記すると「一入」と書き、もともとは染め物を染め汁の中に一度浸すことを意味していました。浸すごとに色が濃くなるので、「一段と」という意味になるのです。「一入」と言う時、自分で織った布を自分で染めることが当たり前だった古人にとっては、①の歌の「ひとしほの色まさりけり」という表現は、実に実体験に裏打ちされたものだったのです。現代人はもう「ひとしお」という言葉に、そのような語感を感じ取ることはなくなってしまいましたね。松の新緑は染められて濃くなってゆくのかなと、一瞬は思って愛でてみて下さい。
 ①は、住の江(住吉の海辺)の松は、深くなってきた春に相応しく、住吉の海の底も緑色に見えるほどに、深い色に見えることだ、という意味です。春の深さと松の新緑の深さを掛け、水に映る松の新緑を詠んだものです。手の込んだ歌ではありますが、要するに晩春の松の新緑の美しさを詠んでいます。

 古には、松の花は百年に一度咲き、それを十回繰り返すと理解されていたため、松の花は「十返りの花」(とかえりのはな)とも呼ばれていました。それで100年×10回=1000年というわけで、松の樹齢は千年に及ぶものと理解されていたのです。
➂松の花十かへり咲ける君が代に何を争ふ鶴のよはひぞ    (新後撰集 賀 1571)
  ④おしなべて木の芽も春のあさみどり松にぞ千代の色はこもれる(新古今 賀 735)
➂は、百年ごとに十回咲くという松と、同じく「鶴は千年」と言われる鶴の長寿をもって、千代の長寿を寿ぐ歌です。④は、春の松の新緑に、千年の長寿を見て取るという趣向です。➂も④も賀の歌であるように、松によって長寿を寿いでいるのですが、裏を返せば、それだけ平均寿命が短かったということであり、だからこそ長寿を寿ぐ歌がしきりに詠まれたわけなのです。長寿が当たり前になっている現代では、松を長寿のシンボルとみる発想はあまりなくなってしまいましたね。何しろ王朝時代は、四十歳から長寿の祝いが始まり、四十歳を「初老」と呼んでいたのですから。

 「千代の松」「千代松」という言葉は時々耳にしますね。唱歌『荒城の月』にも「千代の松が枝」という言葉がありますが、松と千とが結びつく背景には、「松の花は百年に一回咲くことを十回繰り返す」という、「十返りの花」という理解があったのです。千代の松はよく知られた表現ですが、十返りの花という言葉はもう忘れられています。この新緑の時期、改めて松の花を観察・観賞してみてください。

 よく見れば毎年咲いているのに、古人は百年に一回しか咲かないと思っていたのか、などと言われそうなので、もう少し補っておきましょう。本来なら百年に一回しか咲かないはずの松の花が、毎年咲いている。それこそ目出度いことではありませんか。そのように古人は感じていたのです。 
 




春くれなゐの岩つつじ

2016-04-19 14:31:02 | うたことば歳時記
夏も近付く今日この頃、里山には野生の躑躅(つつじ)が咲くようになりました。一般的には「山つつじ」と呼ばれているようです。品種改良されたつつじと異なり、野生のつつじは淡い紅色で、たまに白い花もあります。『万葉集』には「丹つつじ」や「白つつじ」という表現がありますから、はじめから紅白2色があったようです。

 初めから脱線してしまいますが、「紅白のつつじ」と言えば、ホオジロの鳴き声を思い浮かべますね。動物の鳴く声を人の言葉に置き換えて聞き取ることを「聞きなし」と言うのですが、ウグイスの「法、法華経」は誰でも知っています。ホオジロの聞きなしでよく知られているのは、「一筆啓上つかまつり候」というもので、実際そのように聞こえます。もう一つよく知られているのが「源平つつじ白つつじ」「源平つつじ茶つつじ」というものです。ホオジロは我が家の周辺にもたくさんいて、そのつもりになって耳を澄ますのですが、一筆啓上の先入観があるためか、源平つつじには聞こえませんでした。

 つつじを詠んだ古歌は『万葉集』では10首詠まれていて、美しい女性の比喩として詠まれることがあります。王朝和歌になるとその数は大変少なくなりますが、色がわかるのはほとんどが赤系となっています。つつじの本来の色は紅色と理解されていたのでしょう。

 また慣用的に「岩つつじ」と詠まれることが多いのですが、『万葉集』にも1例ありますから、早くから定着していたようです。「岩つつじ」と聞けば、すぐに思い浮かぶのは、『平家物語』大原御幸の場面です。大原の寂光院に隠棲している建礼門院を、後白河法皇が突然に訪ねた際に、建礼門院は山に花を採りに行って留守にしていました。法皇が「人やある」と呼んでも誰もいません。そのうち年老いた尼が現れて、法皇と話をしているうちに、建礼門院が山から降りてきます。

 上の山より濃墨染の衣着たる尼二人、岩の懸道を伝ひつつ下り煩はせ給ひけり。法皇御覧あつて、「あれは何者ぞ」と仰せければ、老尼涙を押さへて申しけるは、「花篋肱に懸け岩躑躅うち添へて持たせ給ひたるは女院にて渡らせ給ひ候ふなり。爪木に蕨折り具して候ふは、鳥飼中納言維実の娘、五条大納言国綱の養子、先帝の御乳母大納言典侍局」と申すも敢へず泣きけり。
 法皇も哀れげに思し召して、御涙塞き敢へさせ給はず
 女院も、「世を厭ふ御習ひといひながら、今かかる有様を見え参らせんずらん恥づかしさよ。消えも失せばや」と思し召せどもかひぞなき。
 宵々毎の閼伽の水結ぶ袂も萎るるに暁起きの袖の上山路の露も滋しくて絞りやかねさせ給ひけん山へも帰らせ給はず御庵室へも入らせおはしまさず、あきれて立たせましましたる所に内侍の尼参りつつ花篋をば賜はりけり。

 『平家物語』の原文を載せましたが、難しい部分もあるので、現代語訳も添えておきましょう。

 さて、上の山から濃墨染の衣を着た尼が二人、険しい岩道伝いを難儀しながら下りてこようとされていました。後白河法皇がご覧になって「あれは何者だ」と仰せになると、老尼は涙をこらえて、「花籠を肘に掛け、岩つつじを 添え持っておられるのが建礼門院さまでございます。薪と蕨をお持ちなのが鳥飼中納言・藤原伊実殿の娘で五条大納言・藤原邦綱殿の養子、先の安徳天皇の乳母でもあった大納言典侍局…」と言うこともままならずお泣きになりました。
 法皇も哀れに思われて、涙をお止めになることができませんでした。
 建礼門院も「世捨て人の常とは言いながら、今このようなありさまをお見せする恥ずかしさ。消えてしまいたい!」と思われたのですが、どうしようもありません。
 毎夜の仏前に供える水で袂は萎れているのに、早朝起きて山路を行くので、袖はたくさんの露に濡れ、露と涙で絞りかね、いまさら山へも帰られず、庵へも入られず、途方に暮れて立っていたところ、内侍の尼が参り、花籠を受け取られました。

 頃は「卯月二十日」の頃ということですから、もう夏になっていましたが、山奥のこととて、季節の移り変わりが少しばかり遅かったのでしょう。まだ山にはつつじが咲いていたようです。ここでも「岩つつじ」
と慣用的に呼ばれていますね。庭に植えることが当たり前になっている現代では、ピンと来ないかもしれませんが、岩山に咲く野生のヤマツツジを見る機会があれば、それだけで一幅の見ものであると思って下さい。

ヤマツツジが咲くのは、晩春から初夏にかけてのことです。その色は夕紅の空の色を思わせたのでしょう。次のような歌が詠まれています。
○入日さす夕くれなゐの色映えて山下照らす岩つつじかな   (金葉集 春 80)
これには「晩に躑躅を見るといへることを詠める」という詞書きが添えられています。「晩に」とは言うものの、「入日さす」というのですから、夕暮れのことなのでしょう。晩春の夕暮れは、一日の終わりだけでなく、春の終わること、春の暮れることを連想させます。この歌にはどこにも「春を惜しむ」とは詠まれていませんが、当時の人の感覚ならば、春の暮れる頃の夕暮れは、特別な情趣を感じさせるものでした。そのような暮春の夕暮れだからこそ、夕紅色の岩つつじをしみじみと歌に詠む心が湧いてきたのでしょう。

老いて惜しむ春

2016-04-14 15:44:56 | うたことば歳時記
 春も次第に終わりに近付き、往く春を惜しむことを「惜春」と言い、実に多くの惜春の歌が詠まれました。夏を惜しめば惜夏、秋を惜しめば惜秋、冬を惜しめば惜冬となりそうですが、理屈の上ではそうあっても、夏や冬を惜しむという古歌は詠まれませんでした。秋を惜しむ歌はある程度詠まれています。古人にとって春と秋は来るのが待たれる季節でしたから、往くのが惜しまれるのに対して、夏と冬は余りにも暑く、また寒いので歓迎されない季節でしたから、あえて夏と冬を惜しむ歌は詠まれなかったのでしょぅ。
 春と秋は過ごしやすい季節であり、桜や鶯、紅葉や月など、風流な景物が心を慰めてくれるものがたくさんあり、往くことが惜しまれる季節でありました。しかし同じ惜しまれる季節ですが、春と秋とでは微妙に惜しまれ方が異なっています。秋の場合は、もの悲しさや侘しさが特徴的なのですが、春の場合は寂しさや年老いることの悲しみが強調されるのです。
 春を惜しむ歌はたくさんあるのですが、老いの悲しみをも詠んだ歌をいくつか上げてみましょう。
  ①老いてこそ春の惜しさはまされけれ今いくたびも逢はじと思へば  (詞花集 春 49)
②鶯の鳴くに涙の落つるかなまたもや春にあはむとすらん      (詞花集 雑 358)
③命あらばまたもあひなむ春なれどしのびがたくて暮らす今日かな  (千載集 春 123)
④つねよりも今日の暮るるを惜しむかな今いくたびの春と知らねば  (千載集 春 134)
⑤老いぬれば春の暮るるも惜しきかな急ぐ日数も命ならずや     (続古今 春 180)
歌の意味は比較的わかりやすく、敢えて説明も要らないでしょう。若いときでも春の往くのは惜しまれるのですが、老い先の長くないことを自覚するようになると、更に惜しまれる。また翌年まで長生きして、再び春に逢うことができるかどうかわからないので、殊更に惜しまれるというのです。
 現代人は、それなら秋をも同じように惜しむのではないかと思ってしまいますが、古人の感覚は少々異なります。それは春には、新しく新春を迎えるごとに年齢が一つ重なって、寿命ということを否応なく感じさせられるからなのです。現代では誕生日に一歳加齢しますが、古には誕生日という発想はありません。年という言葉が365日という期間をわすと同時に、年齢をも表すように、新年(新春)を迎えることは、一歳長生きしたことを感じさせたのです。(そのあたりのことは、私のブログ「うたことば歳時記」の中の「正月とは何か、なぜめでたいのか」に詳しく書いておきましたので御覧下さい。) 
 私もすでに高齢者の仲間入りをしています。老いを感じないわけではありませんが、今は九十余歳の両親の介護をしていますので、自分が老いたなどと言っていられません。しかし遠からず両親も逝き、嫌でも私自身の老いを感じざるを得なくなるでしょう。そうなってからは、翌春にまた桜を眺めることができるかと、しみじみと思うことでしょう。

○待つよりも惜しむこころのまさるかな またの春にも逢ふと知らねば