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うたことば歳時記

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改訂 「懐旧のほととぎす」

2016-05-22 17:00:59 | うたことば歳時記
以前に「懐旧のほととぎす」と題して一文を公開してありますが、少々手直ししたので、改めて新規投稿します。かなりの部分が重複していますが、そういうわけですのでお許し下さい。

 昨日から比企丘陵にある我が家の周辺で、ほととぎすの声が聞かれるようになりました。平安時代の人のように、幾晩も徹夜しながら初声を待つことはありませんが、久しぶりに聞くその声は、やはり待ち焦がれていたものでした。ところでほととぎすの鳴き声を聞くと、現代人は何を連想するのでしょうか。おそらく特にこれと言ったこともなく、「ああ、ほととぎすが鳴いたなあ」で終わってしまうことでしょう。それ以下ではなくとも、それ以上でもなさそうです。しかし古人にとっては、ほととぎすの鳴き声を聞くと、必ず連想することがありました。それは懐旧の心、つまり昔が懐かしく思い出されるということでした。

 そのような「懐旧のほととぎす」という理解は、『万葉集』まで遡ります。
 ①いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く(万葉集 111) 
 ②いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が念へるごと(万葉集 112)
 ③大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとになき人思ほゆ(万葉集 1956)
 ④霍公鳥(ほととぎす)なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我(あ)を音(ね)し泣くも(万葉集 4437)

 ①は、詞書きによれば、持統天皇の吉野行幸にお供した弓削皇子が額田王に贈った歌です。①の「鳥」は、返歌である112番の歌から、ほととぎすであることがわかります。ほととぎすは昔の世に焦がれる鳥なのであろうか。この弓絃葉の井戸のあたりから鳴いて渡って行く、という意味です。「御井」と言うのですから、何か特別に神聖な井戸で、傍らには譲り葉の木があったのでしょう。吉野は若い頃の額田王には縁のあった懐かしいところでしょうから、既に六十代となっていた額田王は、吉野と聞くだけで、昔を懐かしく思い出したはずです。その吉野から、「懐旧の鳥」であるほととぎすが鳴きながら飛んで行くというのです。「弓絃葉の御井」には何か背景がありそうですが、よくはわかりません。②は額田王の返歌で、意味は、昔を懐かしく思って飛ぶという鳥はほととぎすですね。私が懐かしんでいるように、鳴いたかもしれませんね、ということでしょう。③では、ほととぎすの声を聞くたびに、故人が偲ばれることを詠んでいます。④は元正天皇の御製で、ほととぎすよもっと鳴いておくれ、あの人を思い出させて、わけもなく泣かせてくれるが、という意味です。「本つ人」とは昔なじみの人という意味で、早くに亡くなった父の草壁皇子か弟の文武天皇あたりでしょうか。ここではほととぎすの鳴き声を聞くと、単に昔を思い出すというだけではなく、おそらくは故人を思い出すというように理解できます。②にしても④にしても、背景はよくはわかりませんが、額田王の頃から、ほととぎすは昔を懐かしんで鳴くとか、その声を聞くと故人が偲ばれるという理解があったことを確認しておきましょう。

 『古今和歌集』以後の王朝和歌にも、「懐旧のほととぎす」はたくさん詠まれています。
 ⑤いそのかみ古き都の郭公声ばかりこそ昔なりけれ  (古今集 夏 143)
 ⑥郭公鳴く声聞けば別れにしふるさとさへも恋しかりける(古今集 夏 146)
 ⑦昔へや今も恋しき時鳥ふるさとにしも鳴きて来つらむ (古今集 夏 163)
 ⑧郭公今朝鳴く声におどろけば君を別れし時にぞありける (古今集 哀 849)
 ⑨なき人の宿に通はば郭公かけて音にのみ鳴くとつげなむ (古今集 哀 855)
 ⑩死出の山越えて来つらん郭公恋しき人の上語らなん (拾遺集 哀傷 1307)
 ⑪いにしへを恋ひつつ独り越えくればなきあふ山のほととぎすかな(千載集 夏 191) 
 ⑫一声も君に告げなんほととぎすこの五月雨は闇に迷ふと  (千載集 哀 555)  
 ⑬昔思ふ草の庵のよるの雨に涙な添へそ山ほととぎす (新古今 夏 201)
 ⑭郭公はなたちばなの香をとめてなくは昔の人や恋しき (新古今 夏 244)  

 ⑤は、奈良の都は荒れ果ててしまっても、郭公の声は昔のままであるという意味で、「いそのかみ」は「ふる」に掛かる枕詞です。⑥では、別れたふるさとさえ恋しいというのですが、「さえ」というのは、本当は別れた恋人だけではなく、その人と縁のあった所さえ恋しいというのです。当時の「ふるさと」とは、昔に縁のあった所という意味で、現代人のいう「故郷」とは少々ニュアンスが異なっています。⑦には「早く住みける所にて郭公の鳴きけるを聞きてよめる」という詞書きが添えられています。昔住んでいた所に来たところ、折しも郭公が鳴いたので、ただでさえ懐かしいところ、さらに懐かしくなったのでしょう。⑧は紀貫之の歌で、「藤原高経朝臣(基経の弟)のみまかりて又の年(翌年)の夏、郭公の鳴きけるを聞きてよめる」という詞書きが添えられています。時鳥の声を聞いたので、ちょうど一周忌であることに気付いた、というのです。⑨では、郭公を冥土と現世を通う鳥と理解して、故人に消息を伝えてほしいと思っているのです。⑧についても、郭公が冥土からやって来て一周忌であることを教えてくれたと理解しているのでしょう。
 
 ⑩には「生み奉りたりける親王の亡くなりての又の年、郭公を聞きて」という詞書があります。「親王」とは宇多天皇の子で、5歳か8歳で夭折したと言われています。愛する幼子を失った母(伊勢)が、その消息を聞かせてほしいと郭公に訴えているのです。「なん」とは、相手に対する願望を表します。「死出の山」とは、死者が冥土に行くときに越える険しい山のことで、『方丈記』にも「春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満り。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。」と記されているように、ほととぎすの声を聞くたびに、鴨長明は死出の山路の道案内をして欲しいと思ったのでした。⑪は昔を懐かしく思いながら独りで歩いていると、ほととぎすの声が聞こえたので、さらに懐かしい心が増幅されているのです。昔を思い出しているのは私だけではなく、ほととぎすよ、お前も懐かしくて鳴いているのか、というのでしょう。

 ⑫には「後一条院かくれさせ給うての年、ほととぎすの鳴きけるによませ給うける」という詞書きが添えられています。作者は後一条院の母である藤原道長の娘彰子で、冥土の我が子に伝言してほしいという。要するに子に後れて残された老母の哀しみを詠んだものです。我が子といっても後一条天皇は29歳だったのですが、突然の崩御でしたので、母の彰子の哀しみは大きなものでした。何歳になっても母は母、子は子なのでしょう。ちなみに母の彰子は87歳まで長生きします。

 ⑬は藤原俊成の歌で、五月雨の夜にほととぎすを聞いて、涙ながらに昔を偲んでいます。⑭は相性の良い郭公と花橘を共に詠んでいて、これはよく知られた歌です。郭公が花橘の香を求めて鳴くのは、昔の恋人が懐かしいからか、というのですが、花橘も懐旧の心を起こさせるものと理解されていましたから、相乗効果でさらに昔がより懐かしいのです。なお橘については、「懐旧の花橘」という題で既にブログに載せてありますので、そちらも御覧下さい。

 丁寧に探せば「懐旧のほととぎす」の歌はまだまだたくさんあるのでしょうが、きりがないのでこの程度にしておきます。そうせざるを得ないほど、懐旧の郭公の歌は多いのです。

 心情を直接述べるのではなく、自然のものに仮託して人の心を述べるのは、王朝和歌にはしばしば見られる手法です。ほととぎすに人と同じような感情があるわけではないのに、ほととぎすを擬人化して作者の心情を代弁させているのです。そして「鳴く」と「泣く」が同音であるために、鳴く生き物は泣きたい気持ちの人の心を代弁するのには、格好の材料となりました。そのなかでも特にほととぎすは夜も鳴くために、死出の山を越えて冥土の消息を持ってきてくれる鳥と理解され、「故人を偲ばせるほととぎす」と理解されたのでした。

 このようなほととぎすの理解を、現代人はすっかり失ってしまいました。しかしかろうじてその痕跡が唱歌『ほととぎす』に残っています。

1、おぐらき夜半を独りゆけば  雲よりしばし月はもれて  ひと声いずこ鳴くほととぎす 
  見かえる瞬間(ひま)に姿消えぬ 夢かとばかりなおもゆけば  またも行手にやみはおりぬ

2、別れし友よ今はいずこ 今宵の月に君を想えば 心は虚ろ思い出消えず
  悩める胸に返るは彼の日 星影たよりともに語りし 昔の言葉今ぞ偲ぶ

 1番は夜道で聞いたほととぎすを詠んでいますが、2番は一転して別れた旧友を偲ぶ内容になっています。一見して脈絡がないように見えますが、作詞者は「懐旧のほととぎす」をしっかりと理解していて、昔を懐かしむ歌にしたのです。そういう意味では、この歌は2番まで鑑賞しないと、本当に理解したことになりません。「ああ、ほととぎすが鳴いたなあ」で終わってしまう。この歌は単にほととぎすの歌ではないのです。


追記

 比企丘陵の我が家の周辺では、5月下旬から7月いっぱいは鳴き声を聞くことができます。夜、床で聞くほととぎすの声を聞くと、私は昔の人を偲んで、枕を濡らすことがしばしばあります。今時そんなことを感じるのは、私だけなのでしょうか。現代人は自然のものに仮託して人の心を表すことをすっかりしなくなってしまいました。まあそれは時代の流れですから、ある程度は仕方がないのでしょう。しかし古歌を学んでいた明治期の文化人たちは、みな当然のこととして承知していたのです。ですから、明治期の歌人・詩人が自然のものに仮託して人の心を詠んだ歌詞の場合は、そこまで読み取らなければ表面的な理解に留まり、本当の意味でその歌を理解したことにはならないのです。

 この際ですので一寸脱線しますが、その典型的な例が、唱歌『庭の千草』です。一般的には、初冬の庭に咲き残る白菊を歌ったものと理解されていますが、実は愛する伴侶に先立たれた後も、健気に生きる人の姿を歌ったものなのです。こんなことを説いているのは、全国で私くらいのものかもしれません。それ程、現代の日本人は、自然のものに人の心を仮託して歌を詠むということを完全に忘れてしまっているのです。細かい考察は、私のブログ「うたことば歳時記」の中に「庭の千草の秘密」と題してすでに公開してあります。これは是非とも御覧下さい。私の余生はそれ程長くはないでしょうが、このことだけは私にとっての「後世への最大遺物」の一つとして、この世に遺して逝きたいと思っているのです。


ほととぎすの忍び音  追記

2016-05-21 10:27:00 | うたことば歳時記
「うたことば歳時記」というブログに、「ほととぎすの忍び音」と題して一文を公開しましたが、世の中にはほととぎすの忍び音についての誤解が大手を振って歩いているので、書き足りなかったことを追記してみます。「ほととぎすの忍び音」をまだ御覧になっていない方は、まずそちらを先に御覧下さい。


 今日、平成28年5月21日の早朝、ほととぎすの鳴き声を今年初めて聞きました。例年5月下旬に聞きますので、今日くらいかなと思っていました。ブログ「ほととぎすの忍び音」に既に書きましたが、一般にはほととぎすの初声は「ほととぎすの忍び音」と理解されていることかせ多いようです。手許にある三省堂の『例解 古語辞典』で「忍び音」を検索すると、「ホトトギスの初音」と説明されています。またネット上では、「ホトトギスの声をひそめるような鳴き声」、「その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声」、「夜にこっそり鳴く声」、「まるで人がひそひそと話をしているように啼きます」、「まだ上手ではない不慣れな鳴き声」などという解説がありました。これらはすべてとんでもない誤りです。中には、「巣立ったばかりのほととぎすの鳴き声」という解説さえありました。ホトトギスは日本に来てからウグイスの巣に産卵するのですから、初夏に巣立って鳴くわけがありません。出鱈目もここまで来ると、呆れてしまいます。学研の『現代新国語辞典』には「陰暦四月ごろに鳴くホトトギスの声」という解説がありましたが、これが正解です。

 圧倒的に多いのが「初音」「初声」というものですが、「初」であるかどうかということは、たまたま聞いた人にとって初であるというだけで、ホトトギスが初めて鳴く声であるはずがありません。私はその時期には朝から晩まで連日一日中聞いているわけですが、都会から来た人にとっては、6月に聞こうと、7月に聞こうと、初めて聞けば初声なのです。私は今朝聞きましたが、私にとっては初声でも、既に昨日聞いた人にとっては初声ではありません。「初」はあくまでも聞く側の問題であって、ホトトギスにとっては全く関係ないのです。

 忍び音というと、何か特別な鳴き方をするような解説もたくさんあります。ひそひそ鳴くとかこっそり鳴くとか、声をひそめて鳴くとか、不慣れな鳴き声とか、いかにも聞いてきたかのように説明していますが、決してそんな声では鳴きません。どうも忍び音と忍び泣きを混同しているようです。上空を飛びながら鳴くので、けたたましくとまでは言いませんが、遠慮しがちな声ではありません。枝に止まって鳴いているのを近くで聞いたことがありますが、その場合は、びっくりするほど大きな声に聞こえます。このような説明をしてしまう理由は、「忍び泣き」の第一義である「人知れず泣くこと」「声を抑えて泣くこと」に引きずられたからにほかなりません。本来は叶わぬ恋や悲しみのために、じっと堪えるようにして人が泣くことでした。特別な鳴き方として理解し説明している人に尋ねてみたいものです。あなたは忍び音とそうでない普段の鳴き声とを、聞き分けたことがあるのですかと。辞書の執筆者と雖も、自分で聞いて確かめてはいないのです。ネットの投稿者も同様でしょう。もっとも辞書の解説が間違っているのですから、一般の投稿者の責任ではなく、すべて「専門家」の責任です。

 それなら本当の「ほととぎすの忍び音」とはどのようなことなのかと質問されるでしょう。細かい考察は上記のブログ「うたことば歳時記」の中の「ほととぎすの忍び音」を御覧いただくとして、結論だけを言えば、「旧暦四月の卯月に鳴くほととぎすの声」ということです。平安時代以降、ほととぎすは旧暦五月から鳴くものと人が勝手に決めて掛かり、それ以前、つまり卯月に来てしまったほととぎすは、大っぴらに鳴くことのできる五月が来るまで、その時を待ってこっそり鳴くものと理解されていたのです。ただし『万葉集』の時代には、立夏を過ぎたら、つまり卯月の内から鳴くものと理解されていました。

 今年の旧暦五月一日は新暦の6月5日です。今日、私は私にとっての「初声」を聞きました。今日は旧暦ではまだ卯月四月十五日ですから、今日聞いた声は、間違いなく忍び音だったわけです。その声はとてもとてもひそひそと鳴くような声ではありませんでした。散歩の道端には卯の花が満開に咲いていて、目には卯の花、耳にはほととぎすで、「夏は来ぬ」を満喫しています。



先日西行の『山家集』を読んでいたところ、忍び音の理解に関わるよい歌がありましたので、御紹介します。

 雨中郭公を待つといふことを
○ほととぎすしのぶ卯月も過ぎにしをなほ声惜しむ五月雨の空(山家集 夏 197)

忍び鳴くとされる卯月を過ぎてしまったのに、ほととぎすは五月雨の降る空で、まだ声を出し惜しみしている、という意味です。この歌でも、五月になるまで、つまり卯月の間は忍び音で鳴き、五月になったら忍ぶことなく鳴くはずであるという理解があったことがわかります。


蚊遣火(下に燃える恋)

2016-05-19 12:45:22 | うたことば歳時記
 我が家ではそろそろ蚊取り線香の出番となります。もっと新式の蚊除けもあるのですが、あの煙の匂いが夏を思わせ、棄てがたい魅力があります。あの渦巻形が登場したのは明治期以後なのでしょうが、古にはどのようにして蚊遣りをしていたのでしょう。原始時代も蚊はたくさんいたはずですから、当然のことながら、蚊遣りの苦労はあったはずです。当時は竪穴住居の中に炉を設け、煮炊きをしたのですから、家の中では煙が立ちこめることもあり、自然と煙が蚊遣りの効能を持つことを知ったことでしょう。

 『万葉集』には蚊遣り火を詠んだ歌があります。
 ①あしひきの山田守る翁(をぢ)置く蚊火(かび)の下焦れのみ我が恋ひ居らく   (万葉集 2649)
山の田を監視している老人がおこす蚊遣り火が燻っているように、私の恋も悶々として燻っている、という意味で、「蚊火」はその表記のように蚊除けの火と理解することができます。しかし『万葉集』の2265には「鹿火屋」、3818には「香火屋」という言葉があり、「蚊火」を「鹿火」と理解することも可能です。

 『古今和歌集』以後の歌には、明らかに蚊遣り火の歌があるのですが、それは後にして、12世紀の初め、歌人として有名な源俊頼の著した『俊頼髄脳』という歌論書に、蚊遣火について書かれているので、そちらを先に読んでみましょう。

 ②蚊遣火の心いまだ事きれず(解明されない)。一つには、蚊といへる虫は、煙にえ堪へぬ(弱い)ものにてあれば、この虫を人のあたりに寄せじとて、門に火をふすべて厭ふなり。いま一つの説には、もろもろの虫は、夜、暗きをわびて(嫌って)、火のある所へ飛ぶなり。されば人のあたりへ寄せじとて、宿のあたりをのけて(さけて)火を焚けば、火のあたりに集ひ来て、この人のあたりには来ざるなり。蚊遣火は夏するものなれば、宿の内は暑さに耐へで、のけて焚くなりと 言へば、これもことわりあり。されどなほ、ほか(他所)へ遣るぞ、まさりて聞こゆ。

 蚊遣火の本意はよくわからないというのです。蚊は煙が苦手なので、門口で煙を燻らせて、蚊が入らないようにするのか、虫というものは夜に火に集まってくるので、家から離れた所で火を焚いて、そっちに虫が行くように仕向け、家の中には虫が来ないようにするのか、二つの説がある、というわけです。かれは後者の説が有力であると言っていますが、蚊は火には集まらないので、前者の方が正解でしょう。それでも門口で蚊遣火を焚いていたことがわかる面白い史料です。

 俊頼も言うように、夏はただでさえ暑いのに、さらに煙でいぶされるのですから、さぞかし鬱陶しいことだったでしょう。
 ③柴の屋の入りの庭に置く蚊火の煙うるさき夏の夕暮     (堀河院百首 490)
 ④さらぬだに夏は伏屋の住み憂きに蚊火の煙の所狭(せ)きかな (堀河院百首 491)
③も④も夏の蚊遣火の煙が暑苦しいことを詠んでいますが、『堀河院百首』にはわざわざ夏の部の15の景物の中に「蚊遣火」という項目を設け、16首もの「蚊遣火」の歌を並べていますから、煙くて暑いと思いながらも、蚊遣火を夏の風物詩として感じ取っているのです。

 蚊遣火と言っても、炎が出るような酸化燃焼をさせたのでは煙が出ませんから、なるべく炎が出ないように火種の上を乾燥しきっていないもので覆い、外気を抑制しながら不完全燃焼させなければなりません。外から見ると燻っているばかりで炎は見えず、煙ばかりがもくもくと立ち上ります。このような燃え方を見ると、古人は、内心では焦がれるほどに熱いのに、外には平静を装いながらも、煙でそれが表に見えてしまう、苦しい恋心を連想しました。そのような焦がれる恋の歌をいくつかあげてみましょう。
 ⑤夏なれば宿にふすぶる蚊遣火のいつまでわが身下燃えをせむ  (古今集 恋 500)
 ⑥蚊遣火は物思ふ人の心かも夏の夜すがら下に燃ゆらん     (拾遺集 恋 769)
 ⑦蚊遣火の小夜ふけがたの下こがれ苦しやわが身人知れずのみ  (新古今 恋 1070)
⑤は、夏の蚊遣火がくすぶるように、私はいつまで心の中で人知れず思い焦がれることであろうか、という意味です。⑥も同じことですが、「夜すがら」というのですから、「夜もすがら」、つまり夜の間ずっと蚊遣火が燻り続けていたのでしょう。⑦も同じことです。「下燃え」「下焦がれ」とい表現が共通していますが、これは心の中で思い焦がれたり、思い悩んでいることの比喩として、古歌にはしばしば詠まれる常套的歌ことばです。「思ひ」の「ひ」が「火」と同音であることから、蚊遣火の他に埋み火、また火の縁語である煙などに絡めて詠まれました。また野焼きの後に若草が萌えでることから、「燃ゆ」と「萌ゆ」を懸けて、下に燃える心を詠むこともありました。

 今時には忍ぶ恋など流行らないのでしょう。また蚊取線香を見ながら、忍ぶ恋など連想する人はもういないのでしょう。そのうち蚊取線香自体が歴史的遺物となることでしょう。しかし蚊遣火が忍ぶ恋を連想させることについては、当時なりの理由もあります。蚊遣火が燻るのは主に夜の間ですが、当時は恋人の逢瀬も夜でしたから、男が訪ねてこなければ、夜すがら悶々と思い悩むことがあったのです。

現代人の夏の景物

2016-05-17 14:28:43 | うたことば歳時記
普段はあまり耳にしませんが、四季折々の自然の移ろいの趣を感じさせるものを「景物」といいます。語感が何か堅苦しいのですが、要するに季節を感じさせる自然の物ということでしょう。現代は個性が尊重されますから、感じ方は人それぞれですが、古には共通理解があり、おおむね決まっていました。勅撰和歌集の夏の部を順番に読めば、古人が何に夏を感じ取っていたかがわかります。

 もっとも一般的には四季の歌のなかでは夏が最も少なく、また景物も貧弱です。例えば『古今和歌集』だは、藤・郭公(ほととぎす)・花橘・五月雨・短夜・卯の花・蓮・露・夏の月・撫子(なでしこ)・涼風と景物が続いています。一首の中に景物が二つ以上あることもあるので、合計は34以上になるのですが、夏の歌全34首のうち、28首に郭公が読まれていて、著しく偏りがあります。古人にとっては、夏は歌を詠みたくなる景物が少ない季節であったわけです。中世になるにつれて次第に夏の景物にも幅が出ては来ますが、後の俳諧の季語と比較すると、比較にならない程貧弱でした。

 一方、現代人は何に夏を感じ取るのか、生徒のアンケート結果を御紹介します。これは平成11年にある女子高校の生徒90人にきいたものです。複数回答ですので、合計はかなりの数になります。多い順に並べてみましょう。○の数字は順位を表します。①ひまわり43、②蝉38、③西瓜29、④台風22、⑤海21、⑥雷14、⑦夕立10、⑦蚊10、⑨蛙9、⑩朝顔8、⑪鈴虫7、⑫梅雨6、⑬虹5、⑬胡瓜5、⑬トマト5、⑬入道雲5、⑰鮎4、⑱なす3、⑱とうもろこし3、⑱逃げ水3、以下、蛍・梨・短い夜・天の川・太陽が各2標、アジサイ・蛾が各1票という結果でした。

 また平成14年に、ある高校で私が主催した公開講座の受講者が選んだ夏の景物についても、参考までに御紹介します。ただアンケートの回収数が不明なので、あくまでも参考資料です。①夕立31、②雲・入道雲25、③蝉・ひぐらし24、④朝顔23、⑤ほととぎす16、⑥ひまわり15、⑦卯の花12、⑦蛍12、⑨雷8、⑩梅雨・五月雨7、⑩西瓜7、⑫みかんの花5、⑫菖蒲5、⑭蚊5、⑭かきつばた・花菖蒲・あやめ5、⑯ほおずき4、⑯夏衣・白い衣4、⑱あじさい3、⑱夕顔3、⑱さるすべり3、⑱百合3、⑱藤3、⑱海3、⑱浴衣3、⑱天の川3、⑱つばめ3、⑱風鈴3。以下、虹・短夜・とんぼ・蝶・かっこう・はも・金魚・蛙・月下美人・芙蓉・かんな・むくげ・のうぜんかずら・サルビア・はんげしょう・麦・からたち・牡丹・しゃくやく・ちがや・十薬・のいばら・なでしこ・蓮・ねむ・すいかづらなどが2~1票で続いていました。

 生徒たちが選んだ景物の中で、古歌の中にもよく詠まれているのは、蝉・台風(野分)・雷・夕立・鈴虫・梅雨(五月雨)・蛍・短夜・天の川・あじさいなどです。もちろんアンケートの回答数が少ないので、参考資料に過ぎませんが、古歌の景物と共通するものはそれ程多くはありません。また立秋過ぎの方が似合っているものもあり、季節の変わり目の認識がやはりずれていることがわかります。

 その点で公開講座受講者は私と同じか、より年上の世代ですから、生徒たちよりは古歌の景物と共通するものが多いようです。長い間に熟成されてきた日本の伝統的季節感を、何としても次の世代につなげていってほしいものです。また景物の幅が広く、長年の生活経験の蓄積があることがわかります。菖蒲とあやめを区別しているのはさすがですね。卯の花・ねむ・やむくげ・ちがや・すいかづらなどは、生徒たちでは上げられないでしょう。それでも七夕は夏のものになってしまっていますが、本来は立秋後の秋の祭でした。しかしそれは要求する方が無理なのでしょう。

忘れ草(萱草)

2016-05-12 14:59:11 | うたことば歳時記
 昨日、忘れな草のことを書きましたので、今日はその反対の忘れ草について書いてみます。

 忘れ草は、一般には中国名の「萱草」と呼ばれています。中国の古典文学ではしばしば「忘憂草」「憂えを忘れさせる花」として登場します。例えば530年頃に成立した中国の詩文選集である『文選』(もんぜん)には、いわゆる「竹林の七賢」の中の一人である嵆康(けいこう)の著作「養生論」が収録されていますが、その中に『合歓蠲忿(ごうかんけんふん)、萱草忘憂(けんそうぼうゆう)』という一節があります。合歓とは日本のネムノキのことで、それは怒りを除き、萱草は憂いを忘れさせる、という意味です。両方ともに、精神安定の効能があるというのでしょう。『文選』は遣唐使によって早くから日本に伝えられ、知識人たちは競って読んだものでした。そのため萱草が憂えをわすれさせるということは俗信として広まり『万葉集』には「忘れ草」の名で四首詠まれています。

それでは『万葉集』に詠まれた歌を読んでみましょう。
①忘草我が下紐(したひも)に着(つ)けたれど醜(しこ)の醜草(しこくさ)言(こと)にしありけり      (万葉集 727)
②忘草垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり     (万葉集 3062)
①は、恋の苦しみを忘れるという忘れ草を下紐に付けたけれど、効(き)き目がない。名前ばかりのつまらぬ草め、と悪態をついている歌。②も同じように、恋の苦しみを忘れたい余りに垣根に隙間(すきま)なく植えたのだが、この役立たずめ、なお恋しさは変わらない、という意味です。 

 このような詠み方はその後も受け継がれてゆきます。
③恋ふれども逢ふ夜のなきは忘草夢路にさへや生ひ茂るらむ    (古今集 恋 766)
④忘草枯れもやするとつれもなき人の心に霜は置かなむ      (古今集 恋 801)
③は、夢の中にさえ逢えないのは、夢の通い路にも忘れ草が茂っているからだろう、という意味。④は、(恋人がつれなくなったのは、心に忘れ草が生えたからであろうから、)あの人の心の中の忘れ草に霜が置いてほしい。ひょっとして枯れるかもしれないので、という意味です。①②では、実際に萱草の花を下紐に結んだり植えたのでしょう。「醜草(しこくさ)」という品のない言葉を使っていますが、それだけに素朴で率直な感じがします。③④では心の中の忘れ草ですから、観念的で説得力がありません。また「人を忘れる草」だけでなく、「人に忘れられる草」という理解に拡大されていることがわかります。

 このように萱草を詠む歌は専ら、恋の歌に仕立てられるのが普通で、「恋忘草(こひわすれぐさ)」という派生語も生まれます。また他には、悲しみを忘れるという意味で詠まれることもあります。
⑤亡き人を偲びかねては忘草多かる宿にやどりをぞする         (新古今 哀傷 853)
詞書によれば、喪中で他所の家に泊まったところ、その庭に忘れ草がたくさん生えていたので、その主におくった歌ということです。このように亡き人を忘れる草という理解は、その反対の効能をもつとされる紫苑と共に興味深い説話の素材となるのですが、詳しくは私のブログ「うたことば歳時記」に「紫苑(しおん)」と題して既に載せてありますので御覧下さい。

 花の説明が遅れてしまいましたね。萱草は夏に橙色の百合のような花を咲かせますが、日本ではその色を「萱草色」と呼ぶこともあります。一般には一重のノカンゾウと八重のヤブカンゾウがよく見られ、キスゲもこの仲間の一つです。またこの花を摘んで蒸してから乾燥させたものを「金針菜」と称し、中華料理ではよく知られた材料です。その若芽は早春の山菜として人気があり、私は毎年摘んでは黄身酢和えなどにして楽しんでいます。家内は吃驚するほど記憶力がよいのですが、私はもともと記憶力が悲しくなるほど弱いので、いつも叱られています。例えば、家内は一度利用した飲食店の定休日や利用した日の年月日など、克明に記憶しています。自然に記憶に残るそうです。それで私が忘れ草を食べ過ぎるからではと、いつもからかわれています。
                                   平成28年 5月 12日