以前に「懐旧のほととぎす」と題して一文を公開してありますが、少々手直ししたので、改めて新規投稿します。かなりの部分が重複していますが、そういうわけですのでお許し下さい。
昨日から比企丘陵にある我が家の周辺で、ほととぎすの声が聞かれるようになりました。平安時代の人のように、幾晩も徹夜しながら初声を待つことはありませんが、久しぶりに聞くその声は、やはり待ち焦がれていたものでした。ところでほととぎすの鳴き声を聞くと、現代人は何を連想するのでしょうか。おそらく特にこれと言ったこともなく、「ああ、ほととぎすが鳴いたなあ」で終わってしまうことでしょう。それ以下ではなくとも、それ以上でもなさそうです。しかし古人にとっては、ほととぎすの鳴き声を聞くと、必ず連想することがありました。それは懐旧の心、つまり昔が懐かしく思い出されるということでした。
そのような「懐旧のほととぎす」という理解は、『万葉集』まで遡ります。
①いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く(万葉集 111)
②いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が念へるごと(万葉集 112)
③大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとになき人思ほゆ(万葉集 1956)
④霍公鳥(ほととぎす)なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我(あ)を音(ね)し泣くも(万葉集 4437)
①は、詞書きによれば、持統天皇の吉野行幸にお供した弓削皇子が額田王に贈った歌です。①の「鳥」は、返歌である112番の歌から、ほととぎすであることがわかります。ほととぎすは昔の世に焦がれる鳥なのであろうか。この弓絃葉の井戸のあたりから鳴いて渡って行く、という意味です。「御井」と言うのですから、何か特別に神聖な井戸で、傍らには譲り葉の木があったのでしょう。吉野は若い頃の額田王には縁のあった懐かしいところでしょうから、既に六十代となっていた額田王は、吉野と聞くだけで、昔を懐かしく思い出したはずです。その吉野から、「懐旧の鳥」であるほととぎすが鳴きながら飛んで行くというのです。「弓絃葉の御井」には何か背景がありそうですが、よくはわかりません。②は額田王の返歌で、意味は、昔を懐かしく思って飛ぶという鳥はほととぎすですね。私が懐かしんでいるように、鳴いたかもしれませんね、ということでしょう。③では、ほととぎすの声を聞くたびに、故人が偲ばれることを詠んでいます。④は元正天皇の御製で、ほととぎすよもっと鳴いておくれ、あの人を思い出させて、わけもなく泣かせてくれるが、という意味です。「本つ人」とは昔なじみの人という意味で、早くに亡くなった父の草壁皇子か弟の文武天皇あたりでしょうか。ここではほととぎすの鳴き声を聞くと、単に昔を思い出すというだけではなく、おそらくは故人を思い出すというように理解できます。②にしても④にしても、背景はよくはわかりませんが、額田王の頃から、ほととぎすは昔を懐かしんで鳴くとか、その声を聞くと故人が偲ばれるという理解があったことを確認しておきましょう。
『古今和歌集』以後の王朝和歌にも、「懐旧のほととぎす」はたくさん詠まれています。
⑤いそのかみ古き都の郭公声ばかりこそ昔なりけれ (古今集 夏 143)
⑥郭公鳴く声聞けば別れにしふるさとさへも恋しかりける(古今集 夏 146)
⑦昔へや今も恋しき時鳥ふるさとにしも鳴きて来つらむ (古今集 夏 163)
⑧郭公今朝鳴く声におどろけば君を別れし時にぞありける (古今集 哀 849)
⑨なき人の宿に通はば郭公かけて音にのみ鳴くとつげなむ (古今集 哀 855)
⑩死出の山越えて来つらん郭公恋しき人の上語らなん (拾遺集 哀傷 1307)
⑪いにしへを恋ひつつ独り越えくればなきあふ山のほととぎすかな(千載集 夏 191)
⑫一声も君に告げなんほととぎすこの五月雨は闇に迷ふと (千載集 哀 555)
⑬昔思ふ草の庵のよるの雨に涙な添へそ山ほととぎす (新古今 夏 201)
⑭郭公はなたちばなの香をとめてなくは昔の人や恋しき (新古今 夏 244)
⑤は、奈良の都は荒れ果ててしまっても、郭公の声は昔のままであるという意味で、「いそのかみ」は「ふる」に掛かる枕詞です。⑥では、別れたふるさとさえ恋しいというのですが、「さえ」というのは、本当は別れた恋人だけではなく、その人と縁のあった所さえ恋しいというのです。当時の「ふるさと」とは、昔に縁のあった所という意味で、現代人のいう「故郷」とは少々ニュアンスが異なっています。⑦には「早く住みける所にて郭公の鳴きけるを聞きてよめる」という詞書きが添えられています。昔住んでいた所に来たところ、折しも郭公が鳴いたので、ただでさえ懐かしいところ、さらに懐かしくなったのでしょう。⑧は紀貫之の歌で、「藤原高経朝臣(基経の弟)のみまかりて又の年(翌年)の夏、郭公の鳴きけるを聞きてよめる」という詞書きが添えられています。時鳥の声を聞いたので、ちょうど一周忌であることに気付いた、というのです。⑨では、郭公を冥土と現世を通う鳥と理解して、故人に消息を伝えてほしいと思っているのです。⑧についても、郭公が冥土からやって来て一周忌であることを教えてくれたと理解しているのでしょう。
⑩には「生み奉りたりける親王の亡くなりての又の年、郭公を聞きて」という詞書があります。「親王」とは宇多天皇の子で、5歳か8歳で夭折したと言われています。愛する幼子を失った母(伊勢)が、その消息を聞かせてほしいと郭公に訴えているのです。「なん」とは、相手に対する願望を表します。「死出の山」とは、死者が冥土に行くときに越える険しい山のことで、『方丈記』にも「春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満り。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。」と記されているように、ほととぎすの声を聞くたびに、鴨長明は死出の山路の道案内をして欲しいと思ったのでした。⑪は昔を懐かしく思いながら独りで歩いていると、ほととぎすの声が聞こえたので、さらに懐かしい心が増幅されているのです。昔を思い出しているのは私だけではなく、ほととぎすよ、お前も懐かしくて鳴いているのか、というのでしょう。
⑫には「後一条院かくれさせ給うての年、ほととぎすの鳴きけるによませ給うける」という詞書きが添えられています。作者は後一条院の母である藤原道長の娘彰子で、冥土の我が子に伝言してほしいという。要するに子に後れて残された老母の哀しみを詠んだものです。我が子といっても後一条天皇は29歳だったのですが、突然の崩御でしたので、母の彰子の哀しみは大きなものでした。何歳になっても母は母、子は子なのでしょう。ちなみに母の彰子は87歳まで長生きします。
⑬は藤原俊成の歌で、五月雨の夜にほととぎすを聞いて、涙ながらに昔を偲んでいます。⑭は相性の良い郭公と花橘を共に詠んでいて、これはよく知られた歌です。郭公が花橘の香を求めて鳴くのは、昔の恋人が懐かしいからか、というのですが、花橘も懐旧の心を起こさせるものと理解されていましたから、相乗効果でさらに昔がより懐かしいのです。なお橘については、「懐旧の花橘」という題で既にブログに載せてありますので、そちらも御覧下さい。
丁寧に探せば「懐旧のほととぎす」の歌はまだまだたくさんあるのでしょうが、きりがないのでこの程度にしておきます。そうせざるを得ないほど、懐旧の郭公の歌は多いのです。
心情を直接述べるのではなく、自然のものに仮託して人の心を述べるのは、王朝和歌にはしばしば見られる手法です。ほととぎすに人と同じような感情があるわけではないのに、ほととぎすを擬人化して作者の心情を代弁させているのです。そして「鳴く」と「泣く」が同音であるために、鳴く生き物は泣きたい気持ちの人の心を代弁するのには、格好の材料となりました。そのなかでも特にほととぎすは夜も鳴くために、死出の山を越えて冥土の消息を持ってきてくれる鳥と理解され、「故人を偲ばせるほととぎす」と理解されたのでした。
このようなほととぎすの理解を、現代人はすっかり失ってしまいました。しかしかろうじてその痕跡が唱歌『ほととぎす』に残っています。
1、おぐらき夜半を独りゆけば 雲よりしばし月はもれて ひと声いずこ鳴くほととぎす
見かえる瞬間(ひま)に姿消えぬ 夢かとばかりなおもゆけば またも行手にやみはおりぬ
2、別れし友よ今はいずこ 今宵の月に君を想えば 心は虚ろ思い出消えず
悩める胸に返るは彼の日 星影たよりともに語りし 昔の言葉今ぞ偲ぶ
1番は夜道で聞いたほととぎすを詠んでいますが、2番は一転して別れた旧友を偲ぶ内容になっています。一見して脈絡がないように見えますが、作詞者は「懐旧のほととぎす」をしっかりと理解していて、昔を懐かしむ歌にしたのです。そういう意味では、この歌は2番まで鑑賞しないと、本当に理解したことになりません。「ああ、ほととぎすが鳴いたなあ」で終わってしまう。この歌は単にほととぎすの歌ではないのです。
追記
比企丘陵の我が家の周辺では、5月下旬から7月いっぱいは鳴き声を聞くことができます。夜、床で聞くほととぎすの声を聞くと、私は昔の人を偲んで、枕を濡らすことがしばしばあります。今時そんなことを感じるのは、私だけなのでしょうか。現代人は自然のものに仮託して人の心を表すことをすっかりしなくなってしまいました。まあそれは時代の流れですから、ある程度は仕方がないのでしょう。しかし古歌を学んでいた明治期の文化人たちは、みな当然のこととして承知していたのです。ですから、明治期の歌人・詩人が自然のものに仮託して人の心を詠んだ歌詞の場合は、そこまで読み取らなければ表面的な理解に留まり、本当の意味でその歌を理解したことにはならないのです。
この際ですので一寸脱線しますが、その典型的な例が、唱歌『庭の千草』です。一般的には、初冬の庭に咲き残る白菊を歌ったものと理解されていますが、実は愛する伴侶に先立たれた後も、健気に生きる人の姿を歌ったものなのです。こんなことを説いているのは、全国で私くらいのものかもしれません。それ程、現代の日本人は、自然のものに人の心を仮託して歌を詠むということを完全に忘れてしまっているのです。細かい考察は、私のブログ「うたことば歳時記」の中に「庭の千草の秘密」と題してすでに公開してあります。これは是非とも御覧下さい。私の余生はそれ程長くはないでしょうが、このことだけは私にとっての「後世への最大遺物」の一つとして、この世に遺して逝きたいと思っているのです。
昨日から比企丘陵にある我が家の周辺で、ほととぎすの声が聞かれるようになりました。平安時代の人のように、幾晩も徹夜しながら初声を待つことはありませんが、久しぶりに聞くその声は、やはり待ち焦がれていたものでした。ところでほととぎすの鳴き声を聞くと、現代人は何を連想するのでしょうか。おそらく特にこれと言ったこともなく、「ああ、ほととぎすが鳴いたなあ」で終わってしまうことでしょう。それ以下ではなくとも、それ以上でもなさそうです。しかし古人にとっては、ほととぎすの鳴き声を聞くと、必ず連想することがありました。それは懐旧の心、つまり昔が懐かしく思い出されるということでした。
そのような「懐旧のほととぎす」という理解は、『万葉集』まで遡ります。
①いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く(万葉集 111)
②いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が念へるごと(万葉集 112)
③大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとになき人思ほゆ(万葉集 1956)
④霍公鳥(ほととぎす)なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我(あ)を音(ね)し泣くも(万葉集 4437)
①は、詞書きによれば、持統天皇の吉野行幸にお供した弓削皇子が額田王に贈った歌です。①の「鳥」は、返歌である112番の歌から、ほととぎすであることがわかります。ほととぎすは昔の世に焦がれる鳥なのであろうか。この弓絃葉の井戸のあたりから鳴いて渡って行く、という意味です。「御井」と言うのですから、何か特別に神聖な井戸で、傍らには譲り葉の木があったのでしょう。吉野は若い頃の額田王には縁のあった懐かしいところでしょうから、既に六十代となっていた額田王は、吉野と聞くだけで、昔を懐かしく思い出したはずです。その吉野から、「懐旧の鳥」であるほととぎすが鳴きながら飛んで行くというのです。「弓絃葉の御井」には何か背景がありそうですが、よくはわかりません。②は額田王の返歌で、意味は、昔を懐かしく思って飛ぶという鳥はほととぎすですね。私が懐かしんでいるように、鳴いたかもしれませんね、ということでしょう。③では、ほととぎすの声を聞くたびに、故人が偲ばれることを詠んでいます。④は元正天皇の御製で、ほととぎすよもっと鳴いておくれ、あの人を思い出させて、わけもなく泣かせてくれるが、という意味です。「本つ人」とは昔なじみの人という意味で、早くに亡くなった父の草壁皇子か弟の文武天皇あたりでしょうか。ここではほととぎすの鳴き声を聞くと、単に昔を思い出すというだけではなく、おそらくは故人を思い出すというように理解できます。②にしても④にしても、背景はよくはわかりませんが、額田王の頃から、ほととぎすは昔を懐かしんで鳴くとか、その声を聞くと故人が偲ばれるという理解があったことを確認しておきましょう。
『古今和歌集』以後の王朝和歌にも、「懐旧のほととぎす」はたくさん詠まれています。
⑤いそのかみ古き都の郭公声ばかりこそ昔なりけれ (古今集 夏 143)
⑥郭公鳴く声聞けば別れにしふるさとさへも恋しかりける(古今集 夏 146)
⑦昔へや今も恋しき時鳥ふるさとにしも鳴きて来つらむ (古今集 夏 163)
⑧郭公今朝鳴く声におどろけば君を別れし時にぞありける (古今集 哀 849)
⑨なき人の宿に通はば郭公かけて音にのみ鳴くとつげなむ (古今集 哀 855)
⑩死出の山越えて来つらん郭公恋しき人の上語らなん (拾遺集 哀傷 1307)
⑪いにしへを恋ひつつ独り越えくればなきあふ山のほととぎすかな(千載集 夏 191)
⑫一声も君に告げなんほととぎすこの五月雨は闇に迷ふと (千載集 哀 555)
⑬昔思ふ草の庵のよるの雨に涙な添へそ山ほととぎす (新古今 夏 201)
⑭郭公はなたちばなの香をとめてなくは昔の人や恋しき (新古今 夏 244)
⑤は、奈良の都は荒れ果ててしまっても、郭公の声は昔のままであるという意味で、「いそのかみ」は「ふる」に掛かる枕詞です。⑥では、別れたふるさとさえ恋しいというのですが、「さえ」というのは、本当は別れた恋人だけではなく、その人と縁のあった所さえ恋しいというのです。当時の「ふるさと」とは、昔に縁のあった所という意味で、現代人のいう「故郷」とは少々ニュアンスが異なっています。⑦には「早く住みける所にて郭公の鳴きけるを聞きてよめる」という詞書きが添えられています。昔住んでいた所に来たところ、折しも郭公が鳴いたので、ただでさえ懐かしいところ、さらに懐かしくなったのでしょう。⑧は紀貫之の歌で、「藤原高経朝臣(基経の弟)のみまかりて又の年(翌年)の夏、郭公の鳴きけるを聞きてよめる」という詞書きが添えられています。時鳥の声を聞いたので、ちょうど一周忌であることに気付いた、というのです。⑨では、郭公を冥土と現世を通う鳥と理解して、故人に消息を伝えてほしいと思っているのです。⑧についても、郭公が冥土からやって来て一周忌であることを教えてくれたと理解しているのでしょう。
⑩には「生み奉りたりける親王の亡くなりての又の年、郭公を聞きて」という詞書があります。「親王」とは宇多天皇の子で、5歳か8歳で夭折したと言われています。愛する幼子を失った母(伊勢)が、その消息を聞かせてほしいと郭公に訴えているのです。「なん」とは、相手に対する願望を表します。「死出の山」とは、死者が冥土に行くときに越える険しい山のことで、『方丈記』にも「春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満り。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。」と記されているように、ほととぎすの声を聞くたびに、鴨長明は死出の山路の道案内をして欲しいと思ったのでした。⑪は昔を懐かしく思いながら独りで歩いていると、ほととぎすの声が聞こえたので、さらに懐かしい心が増幅されているのです。昔を思い出しているのは私だけではなく、ほととぎすよ、お前も懐かしくて鳴いているのか、というのでしょう。
⑫には「後一条院かくれさせ給うての年、ほととぎすの鳴きけるによませ給うける」という詞書きが添えられています。作者は後一条院の母である藤原道長の娘彰子で、冥土の我が子に伝言してほしいという。要するに子に後れて残された老母の哀しみを詠んだものです。我が子といっても後一条天皇は29歳だったのですが、突然の崩御でしたので、母の彰子の哀しみは大きなものでした。何歳になっても母は母、子は子なのでしょう。ちなみに母の彰子は87歳まで長生きします。
⑬は藤原俊成の歌で、五月雨の夜にほととぎすを聞いて、涙ながらに昔を偲んでいます。⑭は相性の良い郭公と花橘を共に詠んでいて、これはよく知られた歌です。郭公が花橘の香を求めて鳴くのは、昔の恋人が懐かしいからか、というのですが、花橘も懐旧の心を起こさせるものと理解されていましたから、相乗効果でさらに昔がより懐かしいのです。なお橘については、「懐旧の花橘」という題で既にブログに載せてありますので、そちらも御覧下さい。
丁寧に探せば「懐旧のほととぎす」の歌はまだまだたくさんあるのでしょうが、きりがないのでこの程度にしておきます。そうせざるを得ないほど、懐旧の郭公の歌は多いのです。
心情を直接述べるのではなく、自然のものに仮託して人の心を述べるのは、王朝和歌にはしばしば見られる手法です。ほととぎすに人と同じような感情があるわけではないのに、ほととぎすを擬人化して作者の心情を代弁させているのです。そして「鳴く」と「泣く」が同音であるために、鳴く生き物は泣きたい気持ちの人の心を代弁するのには、格好の材料となりました。そのなかでも特にほととぎすは夜も鳴くために、死出の山を越えて冥土の消息を持ってきてくれる鳥と理解され、「故人を偲ばせるほととぎす」と理解されたのでした。
このようなほととぎすの理解を、現代人はすっかり失ってしまいました。しかしかろうじてその痕跡が唱歌『ほととぎす』に残っています。
1、おぐらき夜半を独りゆけば 雲よりしばし月はもれて ひと声いずこ鳴くほととぎす
見かえる瞬間(ひま)に姿消えぬ 夢かとばかりなおもゆけば またも行手にやみはおりぬ
2、別れし友よ今はいずこ 今宵の月に君を想えば 心は虚ろ思い出消えず
悩める胸に返るは彼の日 星影たよりともに語りし 昔の言葉今ぞ偲ぶ
1番は夜道で聞いたほととぎすを詠んでいますが、2番は一転して別れた旧友を偲ぶ内容になっています。一見して脈絡がないように見えますが、作詞者は「懐旧のほととぎす」をしっかりと理解していて、昔を懐かしむ歌にしたのです。そういう意味では、この歌は2番まで鑑賞しないと、本当に理解したことになりません。「ああ、ほととぎすが鳴いたなあ」で終わってしまう。この歌は単にほととぎすの歌ではないのです。
追記
比企丘陵の我が家の周辺では、5月下旬から7月いっぱいは鳴き声を聞くことができます。夜、床で聞くほととぎすの声を聞くと、私は昔の人を偲んで、枕を濡らすことがしばしばあります。今時そんなことを感じるのは、私だけなのでしょうか。現代人は自然のものに仮託して人の心を表すことをすっかりしなくなってしまいました。まあそれは時代の流れですから、ある程度は仕方がないのでしょう。しかし古歌を学んでいた明治期の文化人たちは、みな当然のこととして承知していたのです。ですから、明治期の歌人・詩人が自然のものに仮託して人の心を詠んだ歌詞の場合は、そこまで読み取らなければ表面的な理解に留まり、本当の意味でその歌を理解したことにはならないのです。
この際ですので一寸脱線しますが、その典型的な例が、唱歌『庭の千草』です。一般的には、初冬の庭に咲き残る白菊を歌ったものと理解されていますが、実は愛する伴侶に先立たれた後も、健気に生きる人の姿を歌ったものなのです。こんなことを説いているのは、全国で私くらいのものかもしれません。それ程、現代の日本人は、自然のものに人の心を仮託して歌を詠むということを完全に忘れてしまっているのです。細かい考察は、私のブログ「うたことば歳時記」の中に「庭の千草の秘密」と題してすでに公開してあります。これは是非とも御覧下さい。私の余生はそれ程長くはないでしょうが、このことだけは私にとっての「後世への最大遺物」の一つとして、この世に遺して逝きたいと思っているのです。