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うたことば歳時記

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藤紫の雲

2016-04-11 12:57:47 | うたことば歳時記
 王朝時代、藤は寝殿造の庭園の水際の松に絡めて植えられることが多く、藤の花房が風に揺れる様は、水との縁で「藤浪・藤波」と表現されたものでした。しかし藤の花がたくさん咲いている様子は、遠くから眺めると紫色の雲に見立てられることがありました。
①藤の花宮の内には紫の雲かとのみぞあやまたれける     (拾遺集 雑夏 1067)
②紫の雲とぞ見ゆる藤の花いかなる宿のしるしなるらん    (拾遺集 雑夏 1069)
③九重に咲けるを見れば藤の花濃き紫の雲ぞ立ちける     (千載集 春 119)
 ①は宮中で咲く藤の花を、紫の雲に見立てています。現代人にとって紫色は多くの色の中の一つに過ぎませんが、古代における紫色は、最も高貴な色と理解されていました。例えば、蘇我蝦夷が子の入鹿に対して紫冠を授けたという記録があり、隋の冠位制では紫冠が五品以上の高位者に与えられていたり、『源氏物語』に光源氏の理想的女性の名が「紫の上」であったことなどは、そのような理解が背景にあると見てよいでしょう。ただし推古朝に定められた冠位十二階の最上位が紫冠であると一般に理解されていることは、事実に反しています。『日本書紀』には冠位と色との対応について記述はありません。ただ後々、紫が最高位であるという説が伝えられていたという事実はありますが、あくまでも憶測に過ぎないことを確認しておきます。
 ②は、藤の花は紫色の雲に見えるが、いったいどの家の瑞祥なのであろうか、という意味です。詞書きによれば、藤原道長の娘である彰子が、中宮として入内する際の調度品とされた屏風に書かれていた賀の歌です。「紫の雲」とは皇后を意味する言葉で(『後拾遺和歌集』460参照)、『能因歌枕』という書物にも、「紫の雲とは后のことをいふ」と記されています。ですから、藤原氏の娘である彰子が入内することを祝賀する意味が込められていると理解できます。
 ③の「九重」は宮中・内裏を表す言葉で、表向きは、内裏で幾重にも藤の花が咲いているのを見ると、濃い紫色の瑞雲が立っているように目出度いことだ、という意味です。そしてこの「紫の雲」も皇后を指していると考えられ、藤原氏の象徴である藤を紫色の雲に見立てることは、藤原氏の娘が入内することに対する祝賀の意味が込められているわけです。このように藤の花は紫色の雲に見立てられ、藤原氏の繁栄の象徴とも見なされたのでした。
 また紫色の雲には皇后という意味の他に、瑞雲という意味もありました。瑞祥が現れる際にその予兆として紫色の雲がたなびくという理解があったのです。紫色の瑞雲の中でも最もよく知られているのは、阿弥陀如来が臨終者を極楽浄土に迎えるために来迎する際にたなびく雲でしょう。現代人の感覚では、縁起でもないと怒られそうですが、「厭離穢土・欣求浄土」、つまり汚れた地獄を厭い、極楽浄土に往生することを何よりの喜びとして希求した往時の人にとっては、阿弥陀来迎の瑞雲は憧れの対象でもありました。
④柴の庵の西の高嶺の藤の花明け暮れ願ふ雲かとぞ見る    (堀河院百首 284)
粗末な庵の西の方に高い山があり、そこに藤の花が見えるのでしょう。その花が明け暮れとなく願っている極楽浄土から来迎する、阿弥陀如来の紫の雲と思って眺めている、という意味です。極楽浄土は西の彼方とされていますから、西の山に見える藤の花をそれに見立てたわけです。実際、野生の藤は掛かっている樹木の樹冠にまで這い上がり、遠くから見ると木の上に紫色の雲が懸かっているようにも見えるものです。これは野生の藤でなければわかりませんが、もしそのような藤の花を見ることがあれば、瑞雲に見立てた古人の感じ方を追体験してみて下さい。

松に絡む藤

2016-04-07 20:37:03 | うたことば歳時記
 藤を詠んだ古歌をずらりと並べてみると、面白いことに気が付きます。それは、松と一緒に詠まれることが多いということです。藤は蔓性の植物ですから、必ず何かに絡まって生長します。たまたまそこに松があれば松に絡まるでしょうし、楢があれば楢に絡まるでしょう。我が家の側の野生の藤は、白膠木(ぬるで)と小楢に絡まっています。藤にとっては何でもよいわけです。ところが古歌の中で藤が絡まっている樹木の種類が判明するのは、どれもこれも松ばかりなのですどうも、藤は松に絡まるべきものという共通理解があったようです。まずはそのような歌を上げてみましょう。
①水底の色さへ深き松が枝に千歳をかねて咲ける藤波       (後撰集 春 124) 
②夏にこそ咲きかかりけれ 藤の花松にとのみも思ひけるかな    (拾遺集 夏 83)
③藤波は君が千歳の松にこそかけて久しく見るべかりけれ     (金葉集 賀 326)
④年ふれどかはらぬ松をたのみてやかかりそめけむ池の藤波    (千載集 春 120)
  ⑤春日山松にたのみをかくるかな藤のすゑ葉の数ならねども    (千載集 雑 1077)
①は、水が深いだけでなく、水面に映る色さえ深く見える長寿の松にあやかって、千歳の繁栄を予見するように咲いている藤の花であることだ、という意味です。表向きは叙景歌ですが、王朝時代には、藤は藤原氏の比喩でしたから、藤原氏の末永い繁栄を祈る賀の歌でもあります。そして藤原氏の藤が寄り掛かる松といえば、それは皇室に他なりません。藤原氏が繁栄した要因には様々なことが上げられますが、何と言っても皇室との姻戚関係が最大の要因です。長寿の松にあやかり、藤の長寿を寿ぐのです。このように藤と松とをセットにして、常套的に藤原氏の繁栄を寿ぐ賀の歌はたくさん詠まれています。常套的であるだけに、歌としては面白くないのですが、そもそも賀の歌とは、そのようなものなのです。②は、藤は松に掛かって咲くものとばかり思っていたが、春から夏にかけて咲いている、という意味なのですが、松に掛かって咲くこものということが前提となっています。実際、藤は晩春から初夏にかけて咲いています。③は、藤の花は、君の千歳を約束している松に掛かってこそ、幾久しく見ることができるだろう、という意味で、「君」は天皇を暗示していて、①と同じ趣向です。④は表面的には、年を経ても変わることのない松を頼りとして、池の辺の藤波はその松に懸かっているのだろうか、という意味で、これもまた同様です。⑤は右兵衛督藤原公行という人物が、官位昇進を願う心を詠んだもので、「春日山」は藤原氏の氏神である春日神社を指しています。「藤のすゑ葉」とは藤原氏の末裔を意味しています。全体としては、春日山の松に官位昇進の願いをかけることである。私は藤原氏の末裔としては、ものの数にも入らない存在ではあるが、という意味になるのでしょう。ここでは松は皇室を指しているほど直接的な表現ではありませんが、皇室に拠ることが藤原氏の繁栄の基であることを暗示しています。以上のように、藤原氏の繁栄を詠むときには、松と藤との取り合わせによって詠むことが常套となっていたわけです。
 『枕草子』に「めでたきもの、唐錦、飾り太刀・・・・・色合ひよく花房長く咲きたる藤の花の松に掛かりたる」という一節があります。「めでたきもの」とは「賞すべき立派なもの」という意味なのですが、清少納言がそのように感じた背景には、皇室と藤原氏との関係を、千歳の松とそれに掛かる藤に喩えるといすう共通理解があったのです。
 また①と④のように池の水際に植えられていることにも注目したいものです。藤原氏の有力者の邸宅は寝殿造で、庭には池が掘られるのが普通でした。その池の水際には松が植えられ、また意図して藤を絡ませていたことでしょう。その花房が水面に映ることに賞されたものと思われます。風に吹かれて波のように揺れる藤の花房を「藤波」「藤浪」と表現しますが、藤が水際に植えられることが多かったからこそ、「波」「浪」という言葉が選ばれたと言えましょう。辞書にはそこまでの言及はないのですが、私はそのように確信しています。もしどこかで池の辺の松の木に藤が絡み、花の色が水面に映っているような場面を見ることがあれば、それはそれは素晴らしい見ものであると思って下さい。

藤の咲く時期

2016-04-05 09:12:59 | うたことば歳時記
我が家の周辺には野生の藤がたくさんあり、花のつぼみが膨らみつつあります。毎日少しずつ大きくなるのが目に見えてわかるので、とても楽しみにしています。藤の花は春に咲きますか、それとも夏に咲きますか、と問われると、はてと一瞬考えてしまいます。古歌の世界では、藤は春から夏にかけて咲くと理解されていました。
①いづかたににほひますらん藤の花春と夏との岸を隔てて   (千載集 春 118)
②夏にこそ咲きかかりけれ藤の花松にとのみも思ひけるかな  (拾遺集 夏 83)
③我が宿の池の藤波咲きにけり山郭公いつか来鳴かむ     (古今集 夏 135) 
  ④ 藤波の咲き行く見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり   (万葉集 4042)
  ⑤藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ    (万葉集 4210)
①では、藤が小川の岸を跨ぐように咲いていたのでしょうか。両岸を春と夏とに見立てて詠んだのかもしれません。ここでは一応春の部に入れられています。②では、藤は松に懸かるようにして咲くとばかり思っていたが、(春から)夏に懸かって咲いている、という意味です。ここでは夏の部に入れられています。また松に懸かって咲くとされていますが、これは藤の歌の常套で、藤と松との関係については、いずれ近いうちに
書くつもりです。とりあえず、藤と松は特別な関係があることを確認しておきましょう。詳細は後日。③では、作者の家の庭に池があり、その辺に藤が咲いています。花の影が水面に映っていまるのでしょう。「藤波」「藤浪」は藤の花が風に靡く様子を波に見立てた表現ですが、池の辺に植えられ、花の影が水面に映ることからの発想だと思います。また藤は好んで池の辺に植えられました。もし現在、藤の花が水面に映るほどの水辺に咲いているのを見ることがあれば、それは価値ある場面であると思って下さい。話がそれてしまいましたが、池の辺の藤が咲いたので、山郭公(やまほととぎす)が来て鳴くことが待たれる、というわけです。③は『古今集』の夏の歌の巻頭歌ですから、夏の鳥である郭公の声を期待する歌が巻頭に置かれているのでしょう。郭公が特に藤を好むという理解があるわけではありませんが、藤が咲いたので夏、夏になったので郭公、というように、連想が連続しているのでしょう。④⑤も同じことで、藤の花が咲くと、郭公の来ることを期待しているのです。
 ついでのことですが、古人は郭公が渡り鳥であることを知らず、春の間は深山にいて、夏になると里にやって来ると理解していました。その夏になるまで山にいる郭公のことを本来は「山郭公」と呼んでいたのです。里に下りてきた郭公を「山郭公」と呼んでいる歌も少しあるため、「本来は」とことわっておきましょう。
 とにかく、藤は春を惜しませる花であり、夏の到来を告げる花であり、郭公を期待させる花であったのです。

つばめの赤い糸

2016-04-04 09:43:11 | うたことば歳時記
 つばめが古歌に詠まれることは大変少ないのですが、つばめについて、現代人の知らない、実に感動的な伝承的理解がありました。平安時代末期の歌論書『俊頼髄脳』に、次のような説話が伝えられています。昔、夫に死に別れた女がいました。その親が心配して再婚させようとするのですが、娘はよい返事をしません。それでも強いて迫ると、娘はある条件を示しました。家に巣を掛けているつばめのつがいの雄を殺して、雌の首に赤い糸を結んで放し、翌年別の雄つばめと共に還って来るなら再婚しましょう、というのです。果たして翌年、雌は赤い糸を付けたまま一羽で還ってきたので、両親もようやく諦めたのでした。(この説話は『今昔物語集』にも「夫死女人後不嫁他夫語」と題して載せられています)。
  ①かぞいろはあはれと見らむ燕すら二人は人に契らぬものを        (俊頼髄脳 281)
  ②つばくらめあはれに見けるためしかな変はる契りは習ひなる世に    (夫木抄 燕 1056)
①の「かぞいろは」、あるいは「かぞいろ」とは両親のことです。これらの歌はいずれもこの説話に基づいたもので、この説話が広く知られ、つばめは生涯つがう相手を替えないものという共通理解があったことをうかがわせます。燕の子育てを見ていると、なるほど仲睦まじく、このような説話が伝えられたのも故あることと思いました。それなら実際には、つばめは一度つがいになったら、他との組み合わせはないのでしょうか。このことについては、ないという説とあるという説があり、素人の私には判断しかねます。
 この説話で私が興味をもったことは、「赤い糸」のことです。この説話では単なる目印として付けられていますが、動物とはいえ男女の関係に関わっているだけに、伴侶を結び付ける因縁の象徴であるいわゆる「運命の赤い糸」を連想させるからです。この「赤い糸」が文学上いつ頃から現れるのか、詳しいことは知りません。しかし神話の中に思い当たる節があります。『古事記』の説話なのですが、崇神天皇頃、活玉依毘売(いくたまよりひめ)という美しい女がいましたが、毎晩通ってくる男がいて、妊娠しました。姫の両親はこれを怪しんでわけを聞くと、名もわからない男が毎晩通ってくるので妊娠したといいます。そこで両親はその男の素性を知ろうとして、娘に知恵を授けました。赤土(はに)を寝床の前に撒き散らし、糸を針に通して男の衣の裾に縫い付けさせました。翌朝糸を辿って行くと、三輪山の神社に着いたので、男が三輪の神である大物主神(おおものぬしのかみ)であることを知った、という話です。
 この「赤い糸」の話が日本独自のものではなさそうです。私はまだ直接読んでいませんが、前漢以来の奇談を集めた北宋時代の『太平広記』という書物の「定婚」や、唐代に書かれた「続幽怪録」という説話集には、夫婦となる男女が赤い縄で結ばれるという話があるそうです。その気になって探せば、世界には他にも同様な説話があることでしょう。私にはその力がありませんが、つばめの赤い糸も、何らかの関係があるのではないかと、御紹介するに留めておきましょう。
 それはともかくとして、つばめの夫婦の睦まじさや子育てには、人は学ぶものがありそうです


つばめ来る

2016-04-02 19:12:05 | うたことば歳時記
 地域によって多少の前後はあるでしょうが、桜が満開になると、そろそろツバメの姿を見かけるようになります。二十四節気の清明の初候が「玄鳥至」で、四月上旬に当たります。「玄鳥」とはもちろんつばめのこと。ちょうど桜の咲いている時期ですね。桜とつばめを同時に見ることがあれば、古来からの暦そのままと思って下さい。
 我が家には営巣してくれませんが、前に住んでいた家には毎年来てくれて、雛を育てる様子を見ることができました。学校の正面玄関にも営巣していたのですが、糞が汚いと、校長が叩き落としてしまったことがあり、生徒たちが「糞害」くらいよいではないかと、憤慨したことがありました。子育てする様子は実に微笑ましいものです。その様子は今も昔も変わらないはずですから、それでさぞかし歌に詠まれていると思いきや、それが何と『万葉集』にはたった一首。その後もそれほど多くはありません。雀や烏の歌が極端に少ないように、あまりにも卑近な市井の鳥と見なされたのでしょう。古人の美意識の及ばなかったものは歌に詠まれることがなかったわけですから、ツバメは関心の対象ではなかったようです。
  ①つばめ来る時になりぬと雁がねは国偲びつつ雲隠り鳴く  (万葉集 4144)
  ②珍しくつばめ軒端に来馴るれば霞隠れに雁帰るなり    (夫木抄 燕 1053)
  ③つばくらめ急ぎやすらん天の原雲路の雁の声聞こゆなり  (堀河院百首 雁 694)
いずれの歌もつばめを単独で詠んだものではなく、雁と入れ替わりになることを詠んでいます。むしろ雁の方にポイントがあり、つばめは比較として詠まれているに過ぎません。①と②は、燕が来るのと入れ違いに雁が帰ることを、③はその逆で、雁が渡って来るのと入れ違いに燕が帰ることを詠んでいます。どちらにせよ、燕と雁は渡りの時季が正反対であると理解され、旧暦八月は、「燕去月」(つばめさりづき)「雁来月」(かりくづき)と呼ばれることもあるわけです。その逆の「燕来月」「雁去月」という呼称はあればよいのですが、どうもなさそうです。現在では雁とつばめが入れ替わりになるという理解は、雁が飛来しない我が家の周辺ではもう追体験できません。それで私は、雁を鴨に置き換えて、周辺の貯水池の鴨の姿を観察しています。