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うたことば歳時記

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松の花

2016-04-23 10:24:30 | うたことば歳時記
松の花が咲く季節になりました。「松に花があるの?」と言われそうですが、松ぼっくりという立派な実があるのですから、花がないはずはありません。しかし「花が咲きます」と言いたいところですが、松の花には花びらがないので、「咲く」という表現が馴染まないかもしれません。中学校の生物の時間に、種子植物を被子植物と裸子植物の二つに分類し、裸子植物の代表として、松の花の観察をした記憶のある方もいることでしょう。私も習ったはずなのですが、何しろ半世紀以上も前のことですから、うろ覚えです。裸子植物は子房がなく、胚珠がむき出しになっているので、その名があるという程度しか覚えていません。裸子植物には子房がありませんから、果実の部分がなく、種子もむき出しのままになっています。裸子植物の代表としては、松の他に杉や銀杏や蘇鉄があるそうです。そうすると銀杏の臭い果肉の部分は子房ではなかったのでしょうか。てっきりそうだと思っていました。

 生物的な観察はともかくとして、この時期の松は新緑の若葉の色が美しく、十分に観賞に堪えるものです。松は一年中色を変えないところが愛でられるため、かえって注目しないのでしょうが、晩春から初夏にかけて、松の葉の緑色が、一際鮮やかになります。
①常盤なる松の緑も春くれば今ひとしほの色まさりけり   (古今集 春 24)
②春深き色にもあるかな住の江の底も緑に味る浜松     (後撰集 春 111)
 ①はそのような常盤松の新緑に注目した歌なのですが、「ひとしほ」という言葉を選んでいるところに作者の意図がありそうです。現代では「ひとしお」という言葉は「一層」とか「一段と」というように、程度が増す意味で使われています。古語の「ひとしほ」も同じことなのですが、漢字で表記すると「一入」と書き、もともとは染め物を染め汁の中に一度浸すことを意味していました。浸すごとに色が濃くなるので、「一段と」という意味になるのです。「一入」と言う時、自分で織った布を自分で染めることが当たり前だった古人にとっては、①の歌の「ひとしほの色まさりけり」という表現は、実に実体験に裏打ちされたものだったのです。現代人はもう「ひとしお」という言葉に、そのような語感を感じ取ることはなくなってしまいましたね。松の新緑は染められて濃くなってゆくのかなと、一瞬は思って愛でてみて下さい。
 ①は、住の江(住吉の海辺)の松は、深くなってきた春に相応しく、住吉の海の底も緑色に見えるほどに、深い色に見えることだ、という意味です。春の深さと松の新緑の深さを掛け、水に映る松の新緑を詠んだものです。手の込んだ歌ではありますが、要するに晩春の松の新緑の美しさを詠んでいます。

 古には、松の花は百年に一度咲き、それを十回繰り返すと理解されていたため、松の花は「十返りの花」(とかえりのはな)とも呼ばれていました。それで100年×10回=1000年というわけで、松の樹齢は千年に及ぶものと理解されていたのです。
➂松の花十かへり咲ける君が代に何を争ふ鶴のよはひぞ    (新後撰集 賀 1571)
  ④おしなべて木の芽も春のあさみどり松にぞ千代の色はこもれる(新古今 賀 735)
➂は、百年ごとに十回咲くという松と、同じく「鶴は千年」と言われる鶴の長寿をもって、千代の長寿を寿ぐ歌です。④は、春の松の新緑に、千年の長寿を見て取るという趣向です。➂も④も賀の歌であるように、松によって長寿を寿いでいるのですが、裏を返せば、それだけ平均寿命が短かったということであり、だからこそ長寿を寿ぐ歌がしきりに詠まれたわけなのです。長寿が当たり前になっている現代では、松を長寿のシンボルとみる発想はあまりなくなってしまいましたね。何しろ王朝時代は、四十歳から長寿の祝いが始まり、四十歳を「初老」と呼んでいたのですから。

 「千代の松」「千代松」という言葉は時々耳にしますね。唱歌『荒城の月』にも「千代の松が枝」という言葉がありますが、松と千とが結びつく背景には、「松の花は百年に一回咲くことを十回繰り返す」という、「十返りの花」という理解があったのです。千代の松はよく知られた表現ですが、十返りの花という言葉はもう忘れられています。この新緑の時期、改めて松の花を観察・観賞してみてください。

 よく見れば毎年咲いているのに、古人は百年に一回しか咲かないと思っていたのか、などと言われそうなので、もう少し補っておきましょう。本来なら百年に一回しか咲かないはずの松の花が、毎年咲いている。それこそ目出度いことではありませんか。そのように古人は感じていたのです。 
 





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