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うたことば歳時記

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真夏のナデシコ(常夏)

2016-06-02 20:42:16 | うたことば歳時記
 ナデシコと言えば、万葉集以来秋の七草に数えられていますから、6月ではまだその季節ではないと思われるでしょう。しかし古人にとっての秋の始まりは、現代人の感じるような暑さの収まった季節ではなく、8月上旬の熱い真っ盛りの立秋のあとのことですから、秋の七草と言っても印象が全く異なります。実際、『万葉集』には次のような歌があるのです。
 ①秋さらば見つつ偲べと妹が植ゑし屋前(やど)の石竹(なでしこ)咲きにけるかも (万葉集 464)
 ②野辺見れば瞿麦(なでしこ)の花咲きにけりわが待つ秋は近づくらしも(万葉集 1972)

①の「秋さらば」は「秋が去ってしまったら」という意味ではなく、反対に「秋が来たら」という意味です。
②は「秋が近づく」というのですから、晩夏の頃でしょう。『万葉集』の頃から、秋に咲くとも夏に咲くとも理解されていたわけです。地域によって咲く時期はまちまちでしょうが、実際、我が家の庭では、7月には咲き始め、9月まで咲いていますから、夏から秋にかけて咲くわけで、万葉時代と同じ時期と言うことができます。

 『古今和歌集』以後の八代集に収められたナデシコの歌を全て並べてみると、夏の部に収められている歌が圧倒的に多く、秋の部にはほんのわずかし(私の資料ではわずか2首)しかありません。しかもそのうちの1首は七夕に絡めて詠まれていますから、8月半ばの歌です。そういうわけで、王朝和歌の時代には、ナデシコは暑い盛りの花と理解されていたことがわかります。

 そうすると、思い当たる節があるのです。ナデシコは『万葉集』では「瞿麦」や「石竹」と表記されていますが、『古今和歌集』以後は「常夏」と表記されることがあるのです。他には「撫子」という表記も多いのですが、これについては別の機会にお話しすることとして、それは晩夏から初秋にかけての最も暑い時期に咲くことによるのだと思います。

 ③人知れずわがしめし野のとこなつは花咲きぬべき時ぞ来にける (後撰集 夏 198)
 ④常夏のにほへる庭は唐国に織れる錦もしかじとぞ見る (後拾遺 夏 225)
③は、私がこっそりと大切に育てているなでしこの花が、咲くべき季節になったことだ、という意味です。④は、なでしこが一面に咲き乱れる庭は、唐伝来の錦の織物も及ばぬほどに美しい、という意味です。当時の貴族階級が、大切にしていた花であることがわかります。もちろん野辺には野生のナデシコが生えていたのでしょうが、庭に移し植えて楽しんでいたのでしょう。③も④も、夏の部に収められていることに注目してください。

 ネット情報では「四季咲きの性格から”常夏”と呼ばれていた」とか、春から秋にかけて長い期間咲いているからという説明がありましたが、いくら何でもそれは無理なのではと思います。春に咲いていたという古歌や文献は見当たりません。四季咲きであるのは、近世以降の品種改良の結果であって、現代のナデシコがそうであるからと言って、往時もそうであったとは言えません。もしどうしても四季咲きであったから「常夏」と呼ばれたと主張したいなら、四季に咲いていたという文献史料を揃えなければなりません。

 ナデシコは暑い盛りに咲いてこそ、本来の姿なのです。
 

夏の夜の月

2016-05-31 20:10:40 | うたことば歳時記
 月を愛でるのに相応しい季節はと問えば、多くの人が秋と答えることでしょう。もっともなことと思います。しかし月の美しさは四季それぞれであり、春は霞む朧月、秋は鏡のように澄んだ名月、冬は空高く冴えわたる寒月が、みなそれぞれに趣をもっています。そして夏の月はというと、多くの人は「さて・・・・?」と一瞬考え込んでしまうことでしょう。あらためて振り返ってみると、現代人は、夏の月をしげしげと眺めることはあまりないのではと思います。しかし古歌の世界では、夏の月を詠んだ歌は、秋の名月には及ばないものの、決して少ないわけではありません。

 それでは夏の月を詠んだ歌をいくつか並べてみましょう。
①夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ  (古今集 夏 166)
②夏の夜も涼しかりけり月影は庭しろたへの霜と見えつつ  (後拾遺 夏 224)
③夏の夜の庭にふりしく白雪は月の入るこそ消ゆるなりけれ  (金葉集 夏 141)
④夕立のまだはれやらぬ雲間より同じ空とも見えぬ月かな  (千載集 夏 297)
⑤我が心いかにせよとてほととぎす雲間の月の影に鳴くらむ  (新古今 夏 210)
⑥五月雨の雲の絶え間をながめつつ窓より西に月を待つかな  (新古今 夏 233)
⑦五月雨の雲間の月のはれゆくをしばし待ちけるほととぎすかな  (新古今 夏 237)
⑧庭の面はまだかわかぬに夕立の空さりげなくすめる月かな  (新古今 夏 267)
⑨むすぶ手に涼しき影を慕ふかな清水に宿る夏の夜の月  (山家集 夏 244)
⑩影さえて月しもことに澄みぬれば夏の池にもつららゐにけり (山家集 夏 247)
⑪夕立の晴るれば月ぞ宿りける玉ゆり据うる蓮の浮き葉に  (山家集 夏 249) 

探せばもっとあるのですが、余り多くなるので、取り敢えずはこのくらいにしておきます。①は百人一首にも収められていて、よく知られていますね。「月の面白かりける夜、あか月方によめる」という詞書きが添えられています。宵とは日没後からだいたい夜中までの時間を指すのが一般的ですが、厳密な定義があるわけでもなさそうです。まだ宵のうちと思っているうちに夜が明けてしまったので、月は沈む間もなく、雲のどのあたりにあるのだろうか、という意味です。夜更かしをしているうちに暁になってしまうと、有明の月が見えることがあります。有明月は何も夏のものというわけではありませんが、夜が短いので殊更に注目されるのでしょう。

 夏の夜が短いといえば、東京の夏至を例にとると、日の出は午前4時25分頃、日の入りは午後7時頃ですから、本当に暗い時間は8時間しかありません。寝たかと思えば、すぐに明るくなってしまいます。そこで「夏の夜の臥すかとすればほととぎす鳴く一声に明くるしいののめ」(古今集 夏 156)という歌があります。これは月を詠んでいるわけではありませんが、夏の月にはほととぎすが相性のよいものとされ、秋の名月と雁の取り合わせのように、絵画にもよく描かれたものでした。唱歌『ほととぎす』にも歌われていますが、若い世代の方はご存じないでしょうから、私のブログで「唱歌『ほととぎす』」をご覧下さい。⑤はそのような歌で、唱歌『ほととぎす』の作詞者が参考にした歌の一つでしょう。夏の月は雲の隙間からわずかに見え、ちょうどその時、ほととぎすが鳴き過ぎていったというのです。夜のほととぎすの声はしばしば聞いていますが、私は残念ながらその姿を視認できたことはありません。雲間から月影が漏れたときにほととぎすが鳴き、その姿が見えるというのは、おそらく想像上のことなのでしょう。⑦でも月とほととぎすがセットで詠まれています。とにかく夏の月はほととぎすと相性がよかったことを確認しておきます。

 ②と③はわかりやすい歌で、月の光を霜や雪に見立てています。③では月が沈むと月影が見えませんから、雪も消えてしまったといいます。現代人には大げさな比喩としか見えないでしょうが、電気の明かりなどない時代、月が出ていなければ野外は真っ暗でしたから、月の光の明るさには、現代人以上に感じ取っていたはずです。また当時は月の光を白と感じ取ることが共通理解されていましたから、霜や雪に見立てることは、常套的なことでした。⑩では水面に映る月影を氷(古語のつららは、現代の氷を意味する)のに見立てています。夏の夜の涼しさを、冬の景物である霜や雪や氷に見立てることによって、涼しさを表しているとも考えられるでしょう。

 ④⑤⑥⑦では、いずれも雲間の月が詠まれています。おそらく五月雨の時期なのでしょう。その雨が止み、雲が途切れると、わずかにその隙間から月が見える。これが夏の月の情趣であると理解されていたことがわかります。

 ④⑧⑪では、夕立の後の月が詠まれています。⑧は、夕立の後でまだ庭が濡れているのに、月がさも何もなかったように澄んでいるという意味で、「さりげなく」という捕らえ方がユニークです。⑪では、蓮の葉に月が宿るというのですから、蓮の葉に露の玉が乗っていて、月の光を映して光ってい見えたのでしょう。夕立が降る日は、昼間は猛暑だったのでしょう。しかし降った後は急に涼しくなります。この涼しげな月が、夏の月のもう一つの情趣と理解されていたわけです。

 夏の夜の月は、秋の名月ほどに注目されることはありませんが、五月雨や夕立の後、雲の切れ間からわずかに月影が漏れ、涼しさを演出してくれます。もしそんなときにほととぎすが鳴いて飛びすぎていく瞬間に出会えたら、それこそ最高の「夏の夜の月」なのです。

私の夏の移ろい

2016-05-30 13:01:48 | うたことば歳時記
 夏も卯月の一日(ついたち)に、花色衣脱ぎ捨てて、薄い単衣(ひとえ)に衣更え。暑さはそれほどでもないが、白く眩しい夏衣、空にも白い雲が浮き、いよいよ夏が来たようだ。春と夏との岸隔て、千歳をかねる池の辺の、松を頼りに藤波は、水底深い紫の,色を映して揺れている。遙かに見れば来迎の、弥陀の誓いの雲の色。卯月卯の花咲き初める、卯の花垣は白波か。卯の花月夜に眺めれば、季節外れの雪の色。思わず憂えもどこへやら。
 夏立つしるしの卯の花が、咲けば心は郭公(ほととぎす)。遠く深山(みやま)を出で立って、五月(さつき)五月雨(さみだれ)降るまでは、忍びの丘に隠れ鳴く。早く初音を聞きたいと、連日連夜起き明かし、眠気をさます暁の、一声聞けば夏の月、雲間に隠れる短夜は、早白々と明け初める。古(いにしえ)を恋う声聞けば、過ぎた昔が懐かしい。
 月も照らさぬ闇の中、山郭公の宿と言う、橘の香の漏れくれば、秋の月夜も及ぶまい。昔の人の袖の香を、思い出させる橘の、香りをかげば懐かしく、優しい母を思い出す。散る卯の花を腐らせて、降るは五月雨梅雨の雨、水をはり田に早乙女が、早苗を植える姿なく、今は機械が田植えする。花の少ない梅雨時の、狭庭(さにわ)を一際爽やかに、あぢさゐの花の七変化、水の器のあぢさゐは、洗われるほどに色勝る。
 五月五日の節の日は、泥の沼から引き抜いて、滴も香るあやめ草、蓬(よもぎ)も添えて軒に葺き、積もる憂えの邪気祓う。水かさまさる川辺には、螢の影も今はまれ、星に紛いて飛ぶ様は、遠い昔のこととなる。恋の思いに燃えつつも、声もたてずに堪え忍び、僅か葉末に縋り付き、明日には消える露のごと、螢の命の儚さよ。
 明かりをとれば夏の虫、飛んで火に入る「火」はないが、草子の上を跳び歩き、「らうたきもの」(可愛らしい)と誰か言う。夏も盛りの野山には、分け入ることが出来ぬほど、夏草深く茂り合う。蔭に隠れて深草の、白百合楚々と咲く見ては、見初めし頃の君思う。野辺に咲くのは萱草の、憂えをすぐに忘れ草。摘んで挿してはみるものの、本に効き目があるのやら。
 涙の梅雨が明ける頃、我が撫子の花が咲く。幼い日より慈しみ、育んできた愛し子の、花と咲く日は何時の事。
泥の中から咲き出るは、弥陀の浄土の蓮の花、露遊ばせる蓮葉を、揺らし水面を風わたる。暑さ極まる昼下がり、一天俄にかき曇り、雷鳴天地を轟かす。篠つく雨は程もなく、遠くなる神駆け抜けて、軒端に下がる風鈴の、音夕涼(ゆうすず)の風に聞く。
 日は山の端に傾いて、秋呼ぶという蜩(ひぐらし)の、声涼しげに聞こえくる。宵ともなれば雨後の月、空さりげなくあらわれて、庭の梢や葉の末の、すがる滴に影宿す。夏の終わりの水無月も、かくするうちに末となり、夏越しの祓えの茅の環潜り。暑さはまだまだ厳しいが、御手洗(みたらし)わたる涼風は、明日立つ秋のしるしとか。


五月闇

2016-05-27 11:28:59 | うたことば歳時記
 ただ何となくネットを検索していて、どうにも納得できない解説を見つけました。それは「五月闇」についての解説です。『角川類語国語辞典』には五月闇の解説として、「梅雨のころの夜の暗いこと。また、そのころの薄暗い空模様。」、『三省堂おしゃれ季語辞典』には、「連歌書『産衣』に、『「五月闇は夜分にあらず』と示されているとおり、本来は、昼なお暗き空間を指す言葉であったが、最近では雲の垂れこめた夜の闇の陰鬱さにも用いられつつある。」と書かれているというのです。また山本健吉『基本季語五〇〇選』には、「【五月闇】五月雨の降るころの空が曇りがちで、陰鬱として、昼なお暗いのも、月の出ぬ闇夜をも言う。」と記されているというのです。あいにく手許にそれらの本がないので、この目で確認したわけではありません。ネット情報だけで判断するのは危険ですが、この場合は間違いなさそうです。

 私は今日の今日まで、五月雨の降る頃の、月も星も見えない真っ暗な夜とばかり思っていましたから、とても驚きました。「本来は、昼なお暗き空間を指す言葉であったが、」という解説に至ってはどうにも信じられなく、さっそくいろいろ調べてみました。昼間の暗いことをも意味するという解説の根拠は、1698年に成立した連歌の書物である『産衣』(うぶぎぬ)に載せられた、上記の記述のようです。それ以外にはどうしても探し出すことはできませんでした。しかしそれが本来の五月闇とまで断言されると、このまま引き下がるわけにはいきません。私が知っている五月闇を詠んだ歌は、全て夜の暗さを詠んでいるのですから。そこで国歌大観と首っ引きで調べてみました。

 結論から言えば、「本来は、昼なお暗き空間を指す言葉であったが、」という解説は誤りであると言わざるを得ません。歌の意味からして、夜の暗さを詠んだ歌が圧倒的に多く、明らかに昼間の薄暗さを詠んでいると断定できる歌は一首もないのです。もし「本来は」と断言するなら、五月闇を詠んだ古い歌の大半が昼間であるはずです。それが全く見つかりません。辞書の編集者や山本健吉氏は、五月闇を詠んだ古歌を片っ端から調べた上で書いていない証拠です。山本健吉と言えば、歳時記については相当な権威者ですから、同氏の説を疑う人はまずいないでしょう。俳句の歳時記を調べるほどの人なら、山本氏の著書を愛用しているでしょうから、私のような素人の考察など、誰も本気では信じてくれません。しかしそれなら、本来は昼間の薄くらいことであった根拠を示してほしいものです。『産衣』に載っていると言っても、それは元禄年間のこと。古代・中世の文献から指摘しなければ、本来そうであったという証拠になりません。あるいは私が見落としている歌があるかもしれません。しかし「本来は」とまで言うのならば、一つや二つそのような歌があっても、説得力は全くありません。何しろ、夜の暗さを詠んだ五月闇の古歌はたくさんあるのですから。江戸時代の初期には、本来は五月雨の時期の暗い夜を意味した五月闇が、昼間の薄暗いことも表すように意味が拡大されたというならまだわかります。もっとも『産衣』の説も、同じような意味で使われている文献で補強しなければ、どこまで信用できるかわかりません。たった一例では不十分です。そして江戸期の俳諧から、昼間の五月闇を詠んだ句をいくつも上げられなければなりません。そのような考証を経ずして、「本来は昼間の・・・・」などと言ってはなりません。山本健吉や辞書という権威に裏打ちされて、「本来」とことなる五月闇が、いずれ定着してしまうのでしょうか。根拠を実証的に示していないネット情報は、まずは疑ってみなければなりません。

そこで明らかに夜の暗さを詠んでいる歌を載せておきましょう。
①五月闇花たちばなのありかをば風のつてにぞ空に知りける(金葉集 夏 148)
②五月闇みじかき夜半のうたたねに花橘の袖にすずしき(新古今 夏 242)
③五月闇狭山が峰にともす火は雲のたえまの星かとぞ見る(堀河院百首 421)

 ①②は、暗闇の中でも花橘の香が漂ってくることを詠んでいます。暗いために視覚が効きません。そのためかえって嗅覚が研ぎ澄まされるわけです。暗闇の中の花の香を詠むことは梅にもよくあることで、古歌では常套的な詠み方でした。③は山中にともされた焚き火が星のようだというのですから、これも明らかに夜の五月闇を詠んでいます。近い例では、唱歌『夏は来ぬ』にも「五月闇ほたるとびかい・・・・」と歌われていますが、これももちろん夜の闇です。

 それにしてもいくら薄暗いといっても、昼間の暗さですから、それを「闇」と表現することは、どう見ても不自然だと思うのですが・・・・。


追記(平成28年5月29日)

 五月雨について書いたので、ついでに五月晴について。国語辞典には、五月晴れは五月雨の頃の雨が途切れた短い晴れ間と説明されていますが、近年は新暦5月の爽やかに晴れ渡った天気という誤用が定着しているようにも説明されています。かなり前に、誤用であるとNHKに抗議したことがあるのですが、全く相手にされませんでした。まあ言葉は時の流れによって少しずつ変化するので、仕方がないのかもしれませんが、少なくとも私自身は正しい言葉を使いたいと思っています。(その割には、しょっちゅう言葉を間違えたり、変換ミスをしているので、大きなことは言えないのですが)。どうしても新暦5月の晴天の意味で使い場合は、「ごがつばれ」と読むようにしています。

 五月雨という言葉は『万葉集』には詠まれていませんが、『古今集』以後にはたくさん歌に詠まれるようになります。その五月雨の合間の晴れ間である五月晴という言葉も、同じように古くから使われていると思いきや、少なくとも勅撰和歌集には見当たりません。江戸期の俳諧には詠まれていますから、言葉の歴史としては、かなり新しいと言うことができるでしょう。


遊離魂の螢

2016-05-26 15:41:21 | うたことば歳時記
 そろそろ螢のことが気になる頃となりました。我が家の周辺では数年前までヘイケボタルを見ることがあったのですが、暗い水辺は危ないので、敢えて見に行こうとしないからか、最近は全く見ていません。本気になって探せば、まだきっと見ることができるのでしょう。

 螢を見ると何を連想するのか、螢を詠んだ古歌をずらりと並べてみると、篝火(かがりび)、砂金、漁り火、星などに見立てられるのが常套でした。まあ素直な比喩と言えるでしょう。しかし螢は時に人の霊魂に見立てることがあり、少々ドキッとさせられます。数はそれほど多くはないのですが、それでも有名な歌人の歌であるため、よく知られています。

①物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る(後拾遺 神祇 1162)
②おぼえぬをたがたましひの来たるらむと思へばのきに螢とびかう(夫木抄)
③澤水にほたるのかげのかずぞそふ我がたましひやゆきて具すらむ(夫木抄)
④思ひ余り恋しき君が魂とかける螢をよそへてぞ見る(夫木抄)

①は情熱的恋で知られる和泉式部の歌で、「男に忘られて侍りける頃、貴船に参りて御手洗川の螢の飛び侍りけるを見て詠める」という詞書きが添えられています。「男」とは二人目の夫である藤原保昌のことで、何かの事情で疎遠になったのでしょう。思い悩んでいると、沢のあたりを飛んでいる螢が、私の身から抜け出した魂ではないかと見える、という意味です。貴船神社のあたりは昼間でも鬱蒼と樹木が茂り、森厳な雰囲気が漂っています。まして当時の夜ならなおさらだったでしょう。「あくがる」「あこがる」という古語は、魂が身体から抜け出してしまうほどに強烈に心が惹かれることを表しています。現代語なら「憧れる」ということになるのですが、それは、自分の願望や理想に強く心が惹かれることを表していますから、心のエネルギーとしては、現代の「憧れる」より古語の「あこがる」の方がはるかに強いエネルギーを持っているわけです。和泉式部が、その霊魂が抜け出してしまいそうなほどに思い悩んでいた理由は、その前書きからして恋に関わることだったのでしょうが、詳細は不明です。

 一寸脱線しますが、私のブログ「うたことば歳時記」の中に「夢と憧れ」と題して一文を公表し、夢と憧れの違いについて述べていますので、是非ご覧下さい。

 ②③は『山家集』には収められてはいませんが、西行の歌です。②は、はっきりはわからないが、誰の魂が来たのかと思っていると、それは軒に飛び交う螢であった、という意味です。おそらく①の歌を意識して詠んだものなのでしょう。③は、沢水に螢の光の数が増し加わっているが、私の魂が行って伴うのだろうか、という意味です。④は、恋い慕う余りに、螢を恋人の魂と見てしまう、という意味です。

 遊離魂などと言うと、現代人は人魂を連想し、何か不気味で恐ろしげに感じるかもしれません。しかしこれらの歌からは、そのような雰囲気は感じ取れません。まあそれは、恋の歌であったり、西行という人物の人柄によるのかもしれません。