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童謡『みかんの花咲く丘』

2019-02-14 11:00:22 | 唱歌

 童謡『みかんの花咲く丘』は、昭和21年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶラジオの「二元放送」で発表されたもので、12歳の川田正子が歌って大ヒットとなりました。作詞者の加藤省吾が取材のために作曲家の海沼実の家をたまたま訪ねた時、翌日に伊東市で行われるのラジオの生放送で、川田正子が歌う曲がまだできていないので、何か詩を書いてほしいと言われ、その場で20分で書いた詩に、海沼が伊東に向かう列車の中で曲をつけたそうです。

 1、みかんの花が咲いている  思い出の道丘の道
   はるかに見える青い海  お船がとおく霞んでる

 2、黒い煙をはきながら  お船はどこへ行くのでしょう
   波に揺られて島のかげ  汽笛がぼうと鳴りました

 3、何時か来た丘母さんと  一緒に眺めたあの島よ
   今日もひとりで見ていると  やさしい母さん思われる

 みかんの花が咲くのは、新暦5月から6月の初夏のことです。歌の中の作者はみかん畑のある丘にたたずみ、遙か海の沖を眺めています。作詞者がそのような設定にしたのは、海沼自身が、「伊東の丘に立って海に島を浮かべ、船には黒い煙を吐かせてほしい」という注文をしたためでした。

 1番と2番は絵画的な場面で、これだけでも十分に美しいのですが、3番の歌詞があることがこの歌をさらに素晴らしいものにしました。注目したいのは3番の「やさしい母さん 思われる」の部分です。この歌詞だけからは、「母さん」は既に故人であるかどうかは判断できませんが、自分が幼い頃の母を懐かしく思い起こしているのです。

 作詞者の体験としては、小学校5年生の時に、父が相場に手を出して失敗し、両親が4人の子供を残して失跡してしまい、一家離散となってしまったそうです。のちに彼は両親と再会し、母を引き取って最後まで介護したそうですが、この歌を作詞した時点では、母は消息不明であったとのこと。そのような自己体験がこの詩に深みを与えているのでしょう。

 三番の歌詞は、一時的に「やさしいねえさん思われる」になおされたことがありました。それは戦争で母を亡くした子が多いであろうという配慮があったそうです。姉さんならお嫁に行ったと言えるからなのでしょう。その後今の歌詞になったとのことです。どちらがよいかと言えば、それは「母さん」の方でしょう。姉がいない子は珍しくありませんが、母のいない子はいないからです。多くの共感を喚ぶためには、母さんでよかったのです。

 古典的和歌の世界では、橘の花の香が歌に詠まれました。当時の橘は、現在の小蜜柑のようなものですから、花の香りはみかんと同じであったはずです。ただし『万葉集』には花の香を詠む歌は極めて少なく、奈良時代の人は花の香に関心がありませんでした。古歌の世界で香のよい花と言えば梅と橘で、『古今集』以後にはたくさん詠まれています。何しろ平安時代には着物に香をたきしめて異性の歓心をを惹き付けようという香の文化がありましたから、花の香にも敏感だったのでしょう。

 古典和歌の世界では、橘の香は、懐旧の情、特に昔の恋人を懐かしく思い出す心を刺激するものと、共通理解されていました。作詞者は自分の体験を重ねて、わずか短時間で書き上げたということですから、「懐旧の花橘」のことを意図していたかどうかはわかりません。明治期の文学的教育を受けた人にとっては常識だったのですが、さすがに昭和期にはそうではなかったでしょう。たぶん作詞者がみかんの花の香から、母を懐かしく思い出すことを連想したのではないでしょう。しかし偶然かもしれませんが、結果としては「懐旧の花橘」になっているのです。

 歌というものは、原作者はそういうつもりではなかったと思っても、作者の手を離れ、歌う人の体験も重ねられて、色々に解釈されるものです。「懐旧の花橘」を短歌に詠む現代人は極めて稀でしょうが、この童謡を知っている人は現代でも多いはずです。是非とも古典的な理解を重ねて味わいつつ歌ってみて下さい。


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