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唱歌「夏は来ぬ」随想

2021-05-06 09:27:49 | 唱歌
 かつて「唱歌『夏は来ぬ』」の題で拙文を公表していましたが、わずかばかりですが書き直しましたので、題名を変えて再度公開します。

 夏になる日とされる立夏は、新暦5月6日頃のこと。猛暑にはまだ早いのですが、季節の区分は気温に因るのではなく、太陽高度に因りますから、5月上旬になればもう十分に夏なのです。歌の題の「夏は来ぬ」について、若い世代には「来ない」という意味に理解してしまう人もいるそうです。それよりある進学高校の若い理系科目の同僚が、「夏は絹より木綿の方がいいのに」と、真面目に話していたのには驚きました。

 ネット上の解説書には、「夏は来た」と、過去形に現代語訳しているものが多いようです。まあまちがいとまで言い切れませんが、「ぬ」は完了の助動詞であって、過去の助動詞ではありませんから、微妙に意味が違います。過去の助動詞ならば、「き」か「けり」でしょう。過去ならば、現在とは切り離された時間を指していますが、完了ならば、過去のことであっても現在と時間は続いています。ですから単に「夏は来た」と言うだけでなく、「夏が来ている」というニュアンスがあるのです。そうでないと、田植えや蛍など、立夏より1カ月も時期が遅いものも歌われていますから、おかしなことになってしまうのです。

 4番までの歌詞をよく吟味してみると、1番は初夏のことでも、2番は梅雨時のことですから、立夏をかなり過ぎています。3・4番も初夏のことでははありませんから、ますます過去形ではなく、完了形として理解しなければなりません。そういう点で、私としては一般に流布している歌詞の解釈に少々不満があります。
 
1、卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて忍び音もらす夏は来ぬ

 卯の花は『万葉集』以来多くの古歌に詠まれ、夏の到来を告げる花と理解されてきました。今でこそ生け垣にされることはありませんが、古には生け垣の植栽として、普通に見られるものでした。古歌には卯の花の垣根を詠んだ歌がたくさんあります。初夏に白い小さな花が枝もたわわに房状に咲くため、古来、雪・月光・白波・四手などに見立てられました。豆腐のおからを卯の花というのも、同じ発想です。またお釈迦様の誕生日とされる花祭には、卯の花を飾る風習があったのですが、現在ではすっかり忘れられているようです。

 「夏になると卯の花が咲く」という理解は、八代集以下の和歌集によく現れています。夏の部の歌の初めの方には、ずらりと卯の花の歌が並んでいるからです。その中の一つを御紹介しましょう。「我が宿の垣根や春を隔つらん夏来にけりと観る卯の花」(拾遺集80)。我が家と隣家の境に卯の花垣があったのでしょう。それが隣家と我が家を隔てているように、春と夏を隔てているように見えるというのです。理屈が過ぎてよい歌とは思えませんが、卯の花が咲けば夏という理解があったことを確認できます

 「卯の花は匂わないのに・・・・」と質問されることがあります。そもそも「匂ふ」という古語には香るという意味もあるのですが、色が美しく映えることが第一義です。ですから、真白い卯の花が眩しいほどに美しく咲いている様子を表しているのです。また「白」という色は、初夏をイメージさせる色でもありました。持統天皇の御製に、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」という有名な歌がありますが、「白」という色に夏の到来を感じ取っているのです。新緑の生き生きとした緑色に映えるところに卯の花の美しさがあり、その取り合わせに夏の到来を感じ取っているのです。そう言えば、今盛んに咲いているハリエンジュの真っ白い花も、私にとっては夏の到来を色で教えてくれています。去来の俳諧に「卯の花の絶間たゝかん闇の門」という句があるのですが、月明かりの中で見る白い卯の花を詠んだものでしょう。昼間の卯の花も美しいですが、『枕草子』には「夏は夜」と言われていますから、夜の卯の花も御覧になって下さい。

 蛇足ですが、卯の花の木、つまりウツギは枝がパイプ状で中空なため、曲げる力に対してはかなり丈夫に耐えてくれます。そのため昔から指物家具の木釘の材料となり、庶民や浪人の内職として作られていたものです。私は古典文学はどちらかというと苦手で、日本史が専門ですから、ついつい文学的ではないことに関心があるもので、ついつい脱線してすみません。

 また『枕草子』に、卯の花は時鳥の宿る木という理解があるように、時鳥の好む木と信じられていました。しかし生態的にはそのような事は全くなく、卯の花の咲く頃に時鳥が鳴き始めるために、相性がよいものと観念的に理解したに過ぎません。同じようなことは橘にも当てはまります。時鳥が花橘を好んで来るという理解もありますが、生態的に橘に来る理由はありません。ただし鴬なら十分あり得ることで、実際にウツギに鳴く鴬を見て詠んだ歌はあります。時鳥が鳴き始めるのは地域によって多少時間差はあるでしょうが、旧暦の4月、つまり卯月になってからです。しかし平安時代には、旧暦五月に鳴くものと、観念的に決めてかかっていたようです。閏五月には鳴くのだろうかという歌が残っているように、「郭公は(旧暦)五月の鳥」と理解されていたのです。しかし実際には卯月にやって来てしまいます。そこで山から下りてきた郭公は、(実際には南方から渡って来るのですが、古人は時鳥が渡り鳥であることを知りませんから、その時期までは山にいると理解していました。)自分の出番である五月を待ちきれず、五月になるまでこっそり忍んで鳴くものと理解したのでした。郭公の忍び音とは、旧暦4月、つまり卯月に郭公が鳴く声のことなのです。

 しかしこの「時鳥の忍び音」について、正しい解説を未だかつて見たことがありません。権威あるはずの辞書にすら、「忍び音」は「その年の最初に聞く時鳥の声、初音」とか、「夜にこっそりと鳴く声」と解説されています。中には「まだ巣立ったばかりで若いため、上手に鳴けず、こっそり鳴いている声」と解説しているものもありました。これらは全てとんでもない誤りです。そもそも初声とは、聞く人にとって「初」なのであって、時鳥にとっては初でも何でもありません。またある人にとっては初でも、前日に聞いた人にとっては、これも初ではありません。このことに関する限り、辞書などいい加減な物だと思います。忍び音については、私のブログ「ほととぎすの忍び音」に詳しく解説してありますから、そちらを御覧下さい。古語辞典の著者は、確認もせずに大家の説をそのまま写しているので、こういうことになってしまいます。そのためか、インターネットで検索すると、『夏は来ぬ』の解説がほぼ例外なしにそのようになっています。時鳥は初夏に日本にやって来て繁殖するのですから、初夏に巣立って鳴くはずがありません。みな自分で確認せず、孫引きをしているのです。そもそも時鳥が枝に止まりながら鳴くことは、まず滅多に見られません。普通は100mくらい上空を、飛びながら鳴いています。またきゃしゃな卯の花の枝は、時鳥の体重を支えることすらできませんから、時鳥が卯の花の陰で五月になるまでひっそりと鳴くというのは、あくまでも古人の観念的理解なのです。

 1番の歌詞について、一般には江戸末期の歌人である加納諸平の歌「山里は卯の花垣のひまをあらみしのび音もらす時鳥かな」のを本歌としていると説明されています。確かに「卯の花の垣根」と「しのび音もらす時鳥」がそろえば、そう説明したくなるのも無理はありません。しかし卯の花の垣根に郭公が来るという理解は、既にお話しましたように、古の共通理解であって、加納氏の発想ではありません。ただ加納氏の歌のひねった部分は、垣根の目が粗いので、そこから声が漏れてくるという趣向にしたことです。「ひまをあらみ」とは「隙間の目が粗いので」という意味で、まあ面白いと言えば面白いのですが、理屈と言えば理屈ですね。作詞者の佐佐木信綱は、明治時代に歌人・国学者として活躍した程の人物ですから、加納氏の歌を知る以前から、卯の花・郭公・忍び音などのことはとっくに理解していました。まあ「もらす」という言葉については加納氏の歌がヒントになったのかもしれません。とにかく「忍ぶ」とか「もらす」という言葉が使われたり、忍び音を忍び泣きと混同してしまうため、こっそりと鳴くなどという誤解が生じるのです。まあとにかく、旧暦五月になれば「忍び音」という言葉は使えませんから、1番は夏が立って間もない旧暦四月、つまり卯月の夏の様子を歌っていることを確認しておきましょう。
 

2、五月雨の注ぐ山田に早乙女が裳裾ぬらして玉苗植うる夏は来ぬ

 2番は、『栄華物語』御裳着(みもぎ)巻の「五月雨に裳裾濡らして植うる田を君が千歳のみまくさ(御馬草)にせむ」を本歌としたものでしょう。これは早乙女が揃いの衣装と笠を被って田植えをしながら歌っていた歌で、豊作を祈念している歌と見てよいでしょう。どこにも早乙女と詠まれているわけではありませんが、「裳」は女性の下半身用の服ですから、早乙女であるとわかります。

 五月雨は梅雨のことで、昔は田植えをするに適した時季でした。現在は品種改良により台風が来る前に収穫してしまうような早生種があったり、灌漑設備が発達しているので、自然の天候に依存しなくても、田植えをできるように田に水を引き入れることができるため、入梅前に田植えを終えることが多くなりました。我が家の近くの水田では、新暦4月下旬から田植えが始まっています。しかし古には旧暦の5月、つまり新暦の6月の梅雨時に五月雨を待って田植えをせざるを得ず、それに伴って収穫も現在よりかなり遅かったのです。とにかく稲作の農作業は、現在よりも全般に遅かったことを確認しておきましょう。

 現在は機械で田植えをしてしまいますが、古には田植えは最も重要な農耕儀礼の一つでした。神に豊作を祈るわけですから、田植えは神に奉仕する女性の仕事でもあったのです。早乙女が田植え作業をしている間、男達は面を被り、鼓を打ち、笛を吹き、ささらをならして田楽を舞っていたことが、前掲の歌とともに記されています。室町時代の田植えを描いた月次図屏風にも、同じような場面が描かれています。揃いの衣装で、歌に合わせながら同じ動作をしています。この日はハレの日ですから、それに相応しい衣装を身に着けるものとされたのです。一般には紺の単衣に赤い襷をきりりと締めて、真新しい菅笠を被ります。そして早乙女たちが雁行して斜めに少しずれながら、苗を植えてゆきます。田の外では、田楽の伴奏があり、男たちが面を被って踊ったりしました。田楽は平安時代には田植えの神事から独立して、芸能として発達し始めますが、農耕儀礼として特別の衣装を着て田植えをするという習俗は、その後も長く継承されて来ました。ですから、早乙女たちが着物の裾を濡らしながら田植えをしている場面を歌っていますが、単なる日常的な野良着を着ているわけではないのです。晴れ着姿ですので、絵になるのです。

 玉苗の「玉」は、この場合は美しいこと・神聖なことを表す接頭語でして、「玉串」と同じことです。田植えは神事でもありますから、このような表現も生まれるわけですが、稲を大切にした日本人の心をも表しています。

 2番は田植えの場面ですから、夏も半ばの水無月、旧暦五月、新暦ならば6月のことです。


3、橘の香る軒端の窓近く螢飛び交い怠り諫むる夏は来ぬ

 橘は柑橘類の古い総称です。柑橘類の花は、卯月から五月にかけて咲き、爽やかに香ります。橘は好んで庭に植える木と理解されていました。ですから「橘香る軒端」という表現ができるわけです。同じようなことは梅にも当てはまりますが、桜は野生のものを見に行く木でしたから、「軒端の桜」は歌にはなりません。橘は万葉の時代から、好んで庭に植えられていたらしく、「我が宿の花橘」は慣用句となっています。また『徒然草』でも、「家にありたき木」に数えられています。ですから「軒端に香」っているわけです。ただし現在のミカン類の花は新暦5月には咲き始めます。ただし小ミカンや金柑の仲間はすこし開花が遅れますから、橘の花は新暦ならば6月でもよいのかもしれません。ゲンジボタルならば新暦の5~7月、ヘイケホタルならば6~8月に見られますから、花橘と蛍が同時に見られるとすると、やはり旧暦の五月、新暦の6月くらいがよいのでしょうか。どちらにしても立夏から1カ月以上後のことです。

 蛍が飛び交うというのですから、これは夏の夜の情景でしょう。夜は花の色が見えませんが、香りは暗くてもよくわかります。否、見えないからこそ香りが強調されるのです。爽やかな花橘の香りが漂って来れば、鬱陶しく感じる五月闇もまた一興なのです。蛍については、『枕草子』の冒頭で、「夏は夜。・・・・・蛍のおほく飛びちがひたる」と述べられ、夏の夜の風情として賞されています。「怠り諫むる」が「蛍雪の功」を踏まえていることはすぐにわかります。


4、楝散る川辺の宿の門遠く水鶏声して夕月涼しき夏は来ぬ

 楝(おうち・旧仮名ではあふち)は初夏に薄紫色の小さな花を密集して咲かせ、卯の花と共に夏の到来を告げる花です。別名「栴檀」とも言いますが、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀とは別物です。その諺を誤解してなのか、別物を承知の上なのか、小学校の校庭に好んで植えられていたものでした。しかし花には芳香があり、万葉時代には、端午の節句に飾る薬玉の材料として不可欠でした。薬玉の材料は菖蒲・橘・楝などですが、いずれも芳香があることが共通しています。この芳香が邪気を除くと信じられたのです。『枕草子』には、「木のさまにくげなれども、楝の花いとをかし。・・・・必ず五月五日にあふもをかし」と記されています。薄紫色の小さな花が群がって咲くので、藤の花と同様に、遠景が阿弥陀如来が来迎するときにたなびく紫色の瑞雲に見立てられることもありました。

 「宿」とは、現在では宿泊するところという意味に理解されていますが、古語では自分の家を指しています。「我が宿」「埴生の宿」の「宿」は明らかに自宅のことです。決して旅の宿ではありません。よくそのような解説を見ることがあるので、少々残念です。

 水鶏は現在のヒクイナという鳥で、水辺に生息しています。夏に南方から渡ってきて、夕方によく鳴きます。その鳴き声が戸を叩くように聞こえ、水鶏が鳴くことを、「叩く」と特別な表現をします。また「来(く)」という音を含むため、古人は誰かが尋ねてくることを連想したものです。それでわざわざ「門」という言葉が意図して選ばれているわけです。夜に活発に行動しますから、夏の夜の景物と理解されていました。ただし和歌の世界では恋人の来訪などに見立てる擬人的に詠み方が主流で、写実的な歌は多くはありません。

 月の美しさは四季それぞれでしょうが、夏の月は、昼間が暑いだけに、涼しげであることが喜ばれました。前掲の『枕草子』でも、「夏は夜」と述べられ、涼しい夜が夏の風情のあるところと理解されているのです。


5、五月闇螢飛び交い水鶏鳴き卯の花咲きて早苗植えわたす夏は来ぬ

 五番の歌詞は、それまでの歌詞の要点を並べただけで、特に解説も要らないでしょう。



追記
 今日(令和3年5月14日)の授業で、卯の花を一枝持って行き、生徒に見せました。「夏は来ぬ」の歌を知っていた生徒は40人中たった一人、卯の花であることがわかった生徒も同じ生徒で一人だけ。まさかここまで少ないとは思いませんでした。ついでのことに卯の花和えについて話し、豆腐のおからを知っているか聞いたところ、数人だけしかいませんでした。埼玉県でも有数の男子進学校でこの有様です。勉強はそこそこできるのでしょうが、生活体験が怖ろしいまでに希薄なのです。試しに地歴科の先生に卯の花を見せてもわかりませんでした。


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