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うたことば歳時記

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童謡『月の沙漠』随想

2017-01-27 14:09:56 | 唱歌
 大学を7年もかかって卒業した後、聖書の舞台を見てみたいと、しばらくイスラエルで生活していました。イスラエルと言っても春には緑の草原があるところもあれば、夏には草一本もない岩沙漠のようなところもあります。出エジプト記の背景も見たいと、シナイ半島の沙漠もあちこち放浪しました。

 気温は何度あったのか、温度計を持っていなかったのでわかりません。そもそも気温は直射日光のもとでは正確に測れませんが、影らしいものは何しろ自分の影しかないのですから、測りようもありません。感覚的に40度以上になることもあったと思います。ただ湿度が極めて低いので、日陰なら耐えられないことはありませんでした。山裾のワジの日陰で野生の西瓜を発見した時は感動しましたね。迷わずかぶりつきましたが、余り甘くありませんでした。それでも「西の瓜」と書くことを納得したものです。

 シナイ沙漠といっても、日本人が思い描くような砂丘はありません。どこまでも果てしなく広がる岩山だらけの岩沙漠です。そこでふと童謡『月の沙漠』を思い出しました。「こんな甘っちょろい歌なのは、本当の沙漠を知らない人が作詞したからだ」と、つくづく思ったことでした。

 事実、帰国してから知ったことですが、作詞者の加藤まさを氏は、外国旅行はおろか、国内旅行もあまりしたことはないそうです。そしてその歌の舞台となったのは、千葉県の御宿の浜辺だということでした。そこで「ああ、やっぱりね」と一人で納得していました。別に歌の歌詞にケチをつけるのではありません。当時は沙漠でそう感じただけです。

 以下、少々童謡「月の沙漠」について書きますが、あくまでも歌の考証ではなく、歌に触発されたとりとめもない沙漠の随想に過ぎません。脱線話が多くなりますが、お許し下さい。

 まずは歌詞を載せておきましょう。

月の沙漠をはるばると 旅のラクダがゆきました 金と銀とのくら置いて 二つならんでゆきました

金のくらには銀のかめ 銀のくらには金のかめ  二つのかめにはそれぞれに  ひもで結んでありました

先のくらには王子様  後のくらにはお姫様    乗ったふたりはおそろいの 白い上着を着てました

ひろい沙漠をひとすじに  ふたりはどこへゆくのでしょう 

おぼろにけぶる月の夜を 対のラクダはとぼとぼと 砂丘を越えてゆきました  だまって越えてゆきました


 まずは沙漠の月ですが、昼間の灼熱の太陽に比べ、穏やかな光は心を和ませることもありました。乾燥地帯の国で太陽をモチーフにした国旗がないのも、現地で納得したことです。それに対して月や星をモチーフにした国旗は大変に多く、三日月がイスラム教のシンボルと理解され、イスラム圏の救急車には、赤十字ではなく赤新月の社章がついています。もっともコーランに根拠があるわけではなく、オスマン帝国が北アフリカから東ヨーロッパ・中近東にまたがる大帝国となり、その国旗であった赤地に三日月と星の国旗が、そのままイスラム教のシンボルに横滑りしただけのことです。

 歌詞には「おぼろにけぶる月」ということばがありますが、湿度が極端に低い沙漠では朧月はありえません。それこそ天球に孔が空いていて、そこから光が注いでいるかのように、煌々として輝く月ばかりでした。月の見えない時期には、天の河がくっきりと見え、それこそ宝石を砂の如くに散りばめたような夜空でした。作詞者は空想してイメージを膨らませたのでしょう。

 童謡の挿絵を見ると、満月や欠けた月もありました。まあどちらでもよいでしょうが、右側が欠けた細い月は少々違和感を覚えました。そのような月は明け方に東の空低くみえますから、イメージがあわないのです。

 次は駱駝について。西アジアにいる駱駝はヒトコブラクダです。それに対して中国やモンゴルなどの駱駝はフタコブラクダです。私が住んでいたところにいたのは、ヒトコブラクダでした。作詞者はアラブ圏の沙漠をイメージしたそうですから、ヒトコブラクダなのでしょう。挿絵を見ると明らかに二瘤というものはありませんので、それでよいと思います。沙漠では馬に代わる乗り物でしたが、一瘤の先端にまたがるので、乗る人の目の位置はかなり高いものでした。駱駝の四つ足を曲げて坐らせ、またがってから立たせるのですが、後ろ足を先に延ばすので、前のめりになります。つかまる物もなく、うっかりすると転げ落ちてしまいそうでした。

 歌詞では駱駝には金銀の鞍が載せられ、これまた金銀の甕がくくりつけられているという設定です。まあ空想の世界ですから、これでよいのでしょう。もし実際であれば、あっという間に略奪されてしまいます。ただ金銀については現地で思うことがありました。エルサレムの旧市街の市場を歩くと、金銀の装飾品を扱う店が軒を連ねているのです。また沙漠の遊牧民の女性が、そのような装飾品を身に付けているのをたくさん見ました。貧乏暮らしの外国人留学生である私は、ただ冷やかしに覗くだけでしたが、余りの多さに圧倒されたものです。なぜこれ程までに沙漠の民は金銀宝飾にこだわりがあるのでしょうか。

 沙漠の民にとっては、不動産は財産ではありません。水と草を求めて移動しますから、いざというときには全財産を身に付けたり抱えたりして、すぐにでも移動できなければなりません。そんなわけで、金銀宝飾が常に身近なところにあるのではないかと思いました。いつ迫害で追い立てられるかもしれなかったユダヤ人が、ダイヤモンド産業のネットワークをいまだに掌握しているのも、同じような理由でしょう。ユダヤ人にとって歴史的に財産となり得るものは、ポケットに入る金銀宝飾と、頭の中に入る教育だったのです。ユダヤ系の人にノーベル賞受賞者や世界的学者が多いのは、その様なことを背景に理解できます。

 それに対してよくよく日本の歴史を思い返してみると、権力者と雖も金銀宝飾をジャラジャラと身に付けることはありませんでした。秀吉が金ぴかの茶室を作ったり、義満が金閣を作った程度でしょう。天皇陛下が外国の貴賓をお迎えになる部屋には、それらしき物は全くありません。あまりの簡素さに、これが「エンペラー」の部屋なのかと、驚くことでしょう。金銀宝飾に対する理解が、沙漠の遊牧民とは根本的に異なっていることを現地で痛感したものです。

 それにしても金銀の鞍は理解できますが、金銀の甕はあり得ません。金箔や銀箔を貼った鞍はあり得ることです。しかし焼き物の甕に金箔を貼ることはあり得ません。貼ったら蒸散作用がなくなり、水温が上がってしまいます。まして本物の金銀なら重くなりますし、昼間は熱射で水が熱くなってしまいます。私が沙漠を旅した時はアルミの水筒を使っていましたが、遊牧民は羊の革袋を使っていました。

 旅をしているのは「王子様とお姫様」ですが、これは空想の世界ですから、ロマンチックな設定としたのでしょう。要するに若い夫婦が二人きりで旅をしているわけです。実際には危険極まりない行為なのですが、そこは子供の世界のことですし、作詞者自身も考証をして作詞しているわけではありませんから、けちを付けることではありません。

 最後に「沙漠」の表記ですが、現在では一般に「砂漠」と表記されます。本来は沙漠なのですが、砂を意味する「沙」の字が当用漢字ではないために、現代では「砂漠」と表記されています。童謡の題も本来の「沙漠」となっていますから、歌詞が「砂漠」となっているものは誤りです。また「沙」という字は「水が少ない」という文字構造なので、乾燥地帯を表すというネット情報がありましたが、そのような意味はありません。「沙」にも「砂」にも共通して「砂」という意味がありますが、「沙」には「砂原」というニュアンスを含んでいますので、本来の「沙漠」の方がぴったりくるように思います。童謡ゆかりの御宿の浜が海辺にあるので、氵のある「沙」にしたというネット情報もありましたが、これもどうかと思います。「漠は「漠然」と言う言葉があるように、砂原が広がり荒涼としている様子を表していますから、「沙漠」にはぴったりの言葉です。」 古代中国の文字構造事典である『説文』巻十一には、「水に従ひ少に従ふ。水に少しく沙見ゆる」と記されていますから、水と少の会意文字で、水が少ないために砂が見えると説明されています。古代中国の諸文献から「沙」の用例を探し出してみると、元の意味からさらに発展して、細かい砂とか砂地を意味するように用いられています。

 この歌に触発されて、私も一首詠んでみました。「胡の姫も髪挿したるか金銀の鞍つなぎたる唐草の花」。ちょっと説明しないとわけがわからない、自己満足的な歌ですみません。これは初夏に白と黄色のらっぱ状の花をつけるスイカズラという花を詠んだものです。スイカズラは忍冬唐草(にんとうからくさ)とも呼ばれ、唐草模様のモチーフのもとになった蔓草とされています。咲き始めは白いのですが、何日か経つと次第に黄色く色づいて来ます。そのため「金銀花」という異名もあります。甘い香りが心地よく、子供の頃には花を採って蜜を吸って遊んだものです。スイカズラという名前も、そのことに拠っています。「胡」とはペルシアのことで、「胡の姫」は童謡『月の沙漠』の「お姫様」にイメージを重ねたもの。ペルシアの姫君も、きっとこのスイカズラの花を髪に挿したことでしょう。金と銀の鞍をつなげているように見える唐草(スイカズラ)であるなあ、という意味です。スイカズラは初夏には日当たりのよい里山でどこにでも見られますから、ネットで検索して探してみてください。私は花を乾燥させて、お茶に入れて楽しむこともあります。



「とおりゃんせ」の天神様

2016-10-27 16:22:05 | 唱歌
 近々、私の主催する生涯学習の会の行事として、川越歴史散歩に行くことになっています。そこで大変に困ったことが一つあるのです。それは旧川越城の一画に三芳野神社という神社があり、童謡『とおりゃんせ』の発祥の地と言われていることなのです。神社には発祥の地を示す大きな石碑があり、全ての川越観光案内書にそう書かれており、観光客は「へえ、そうだったのか」と感心して帰ります。しかし私にはどうしても信じられないのです。どうのように説明したものかと、頭を悩ませているのです。

 御存知とは思いますが、まずは歌詞を御紹介しましょう。

通りゃんせ 通りゃんせ  ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ  ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ  この子の七つの お祝いに  お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい  こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

 ネット情報では、「江戸時代に歌詞が成立したと見られるわらべうた。作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられる(1920年頃収録レコード[要説明]に作者として記載されている)。」と記されていました。私にはこれを確認する方法がないので、取り敢えず、ネット情報の引用であると断ってそのまま載せておきます。

 歌詞の意味するところは、表面的には理解できるのですが、なぜ「こわい」のか、それについて、一般に以下のように説明されています。わかったかのように書くのは嫌なので、これもネット情報のそのままの引用です。

 「一説によれば、『とおりゃんせ』の舞台は、埼玉県川越市の三芳野神社(みよしのじんじゃ)とされている。三芳野神社では菅原道真が祭られている。三芳野神社は昔、川越城の城郭内に移されたため、「お城の天神さま」と呼ばれていたそうだ。お城の中なので、一般庶民は気軽に参拝できなくなり、時間も限られ、見張りの兵士も付けられた。特に、他国の密偵(スパイ)が城内に紛れ込むことを防ぐため、帰っていく参拝客に対して見張りの兵士が厳しく監視をしたという。これが「行きはよいよい 帰りはこわい」の由来となっているとのことだ。」

 中には間引きの子殺しの歌であるとして、まことしやかに恐ろしげな解説をしているものもありました。

 しかし実際、本当のことなのでしょうか。もし事実であると言うならば、それを証明する文献などの史料がなければなりません。ところがその様なものは皆無なのです。そう言うと必ず「そういう伝承がある」と反論されるのですが、伝承にせよ、伝承があったという史料もないのです。伝承などと言うものは、誰かが言い始め、世代が変われば伝承として流布し、さも以前からあったように語り伝えられ、既成事実化してしまうものです。事実、既に観光案内レベルでは既成事実化しているではありませんか。

 それならなぜこのような伝承が出来てしまったのでしょうか。それは歌の内容の設定に符合する場所探しが行われ、川越城内にあった天神社ならば矛盾なく説明できるため、誰かが発祥の地ではないかと言い始めたことによると思われます。しかしこれも「思われます」というのであって、確証があるわけではありません。伝承というものは、所詮その程度のものなのです。もし史料があれば、これ幸いと、「○○という書物にによれば、・・・・」と大手を振って書かれることでしょう。しかし実際にはそのようなものはなく、「・・・・と言われています」以上のことは書けないのです。

 そもそも「○○発祥の地」というものは、眉唾物が多いものです。何とか観光の目玉にしようとして、確実な根拠もないのに、既成事実化してしまいます。これは特に有名な唱歌や童謡のゆかりの地に関して、顕著に見られます。ここが歌に歌われている場所であるとして記念碑を立て、さも事実化のようにして宣伝し、土産物まで出来てしまう。ですから一つの歌のゆかりの地が、全国各地に複数出来てしまうことさえあるのです。 

 とにかくそういうわけで、歴史学的には三芳野神社が「とおりゃんせ」ゆかりの地であるという確実な証拠は皆無であることを確認しておきます。川越城跡にある歴史博物館も、学術的には何の根拠もないことを正直に認めています。歴史学的には根拠がなければ絶対に認められません。その辺りのことを博物館の学芸員の方に率直にうかがったところ、苦笑しながら歴史的には認められないということでした。がっかりさせてすみません。

 もし百歩、否、万歩譲って川越城内の天神社であったとしても、三芳野神社の本殿は無理でしょう。何しろ三芳野神社の本殿は、本丸の中にあったのですから。大手門を潜り、いくつもの曲輪を通り抜け、ようやく本丸に到達します。いくらなんでも庶民が参拝だけの理由で本丸まで入らせてもらえるはずがありません。考えられるのは、最も外側に位置していた田曲輪に設けられていた遙拝所となっていた外宮でしょうか。田曲輪には天神社の外宮がありましから、特例中の特例として庶民が入れるとしても、せいぜいこのあたりまでのはずです。

 そんなことより、この天神社の外宮にはもっと重要な歴史的意味があります。もともとは寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたのですが、明暦2 年(1856)川越城内三芳野神社の外宮として江戸城から移築され、さらに明治5年(1872)川越城廃城により、川越氷川神社に移築され、八坂神社と称されています。江戸城内にあった東照宮が残っているのですから、ぜひともこちらを見学していただきたいものです。

故郷の空

2016-09-29 15:42:58 | 唱歌
 『枕草子』に「秋は夕暮」とあるように、秋の唱歌には夕暮れ時の情緒を歌うものが多いものです。唱歌『故郷の空』はその代表格でしょう。この歌は明治21年に『明治唱歌 第一集』に発表されたとのことです。メロディーを聞けば、かつてドリフターズが「誰かさんと誰かさんが麦畑で、・・・・」と面白おかしく歌った曲を思い起こす人が多いでしょうから、『故郷の空』の歌詞を初めて見る人は驚くかもしれませんね。

もっとも作詞家のなかにし礼によるドリフターズの歌にはもとになる歌詞があって、詩人の大木惇夫と声楽家の伊藤武雄がスコットランドの『ライ麦畑で出会うとき』というユーモラスな歌を、『麦畑(誰かが誰かと)』と題して和訳し、昭和初期に発表したものだそうです。

 ネット情報ですが、スコットランドの原曲の歌詞の直訳と、大木惇夫と伊藤武雄による日本語版の歌詞を並べてみましょう。

直訳
ライ麦畑で女が男と出会ったら   抱きしめられても叫んだりはしません
ライ麦畑で女が男と出会ったら   どんなことがおこるでしょうか
ライ麦畑で女が男と出会ったら   二人だけのお楽しみ

日本語版
たれかがたれかと むぎばたけで こっそりキッスした いいじゃないか
わたしにはいいひと いないけれど たれにもすかれる、ネ、むぎばたけで

 ライ麦の背丈は2m前後はありますから、背の高い西洋人でも完全に隠れてしまいます。それでこのような歌詞が考え出されたのでしょう。日本の麦しか知らなかったので、はじめは何のことかよくわからなかったのですが、ヨーロッパ各地でライ麦を見て、納得したものでした。

「ライ麦畑」はともかくとして、私のような古い世代の人には、『故郷の空』のほうがピンときます。まずは歌詞を読んでみましょう。

1、夕空はれて 秋風ふき つきかげ落ちて 鈴虫鳴く
  思えば遠し 故郷の空 ああわが父母 いかにおわす

2、すみゆく水に 秋萩たれ 玉なす露は すすきにみつ
  おもえば似たり 故郷の野辺 ああわが兄弟 たれと遊ぶ

 歌詞の意味はそれ程難しくはありません。ただ「つきかげおちて」は少々問題がありそうです。「つきかげ」は漢字では「月影」と表記され、本来は月の光という意味、転じて月そのものをさすこともあります。この場合の月はどのような形をしているのでしょうか。月齢が気になりました。「月影が落ちる」とは、どのようなことを意味しているのか、今一つわかりません。日が沈んで暗くなれば、月の光が増して月がよく見えるはずです。それなのに「つきかげおちて」という。月の光が落ちるということは、月の光が弱くなると理解すれば、矛盾することとなります。また月が山の端などに落ちる、つまり沈むことと理解できなくもないですが、晴れた夕空に沈む月は、太陽に最接近しているわけですから、肉眼ではほとんど見えないはず。見えたとしても三日月の一日前の二日月程度の、いとのような月のはずです。「つきかげおちて」を月の光が弱くなると理解しても、月が沈むと理解しても、実際にはほとんどあり得ないことなのです。歌は理屈ではないことはよくわかるのですが、情景を思い浮かべたいと思うのは許されることではないでしょうか。どなたか御存知でしたら教えて下さい。

 鈴虫は現代のスズムシと理解してよいでしょう。我が家の周辺には、スズムシが毎晩たくさん鳴いています。虫の音を聞くと懐旧の心がかき立てられるという情趣は、古歌に特に見られるものではありません。外国人の中には騒音と感じる人がいるらしいのですが、日本人にとっては「鳴く」は「泣く」を連想させ、寂寥感を覚えさせる重要な秋の景物でした。

 澄みきった水辺には、萩が枝垂れるようにして咲いているのでしょう。夕暮れ時に早くも白露が萩やすすきに宿っているというのですから、気温は急激に低下しているはずです。夜露や朝露なら普通ですが、夕方の露はふつうはありません。雨の後ならば別ですが。どうも私は理屈っぽくなりますね。

 萩に白露が宿ってしなだれている景色は風情のある物として、『枕草子』でも「草の花は・・・・萩は、いと色深く枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよと広ごり伏したる」と述べられています。またすすきの穂の糸一本一本にも、白露が糸に貫(ぬ)かれた白玉のように連なっているのでしょう。これも同じく『枕草子』に、「草の花は・・・・秋の野おしなべたるをかしさは、薄(すすき)にこそあれ。穂先の蘇芳(すおう)にいと濃きが、朝露に濡れて打ち靡きたるは、さばかりのものやある。」と褒めちぎっています。

このような秋の野の景色は、故郷の景色と似ていて、父母や兄弟を思い出すというのです。現代ならともかく、明治時代なら東京でも普通に見られる景色でしたから、日本中共通であったことでしょう。

我は海の子

2016-07-27 13:40:56 | 唱歌
いよいよ梅雨が明け、猛暑本番となりそうです。でも、間もなく立秋ですから、「夏本番」と言うわけにはいきません。先日、私の主催する生涯学習のための研修会で、「夏の唱歌を歌う」と題して、懐かしい歌を皆で歌いました。その中に『我は海の子』があり、いろいろ話が発展したので、その時の様子を一寸お話しをしてみましょう。わが埼玉県には海がないこともあって、「海」への憧れが人一倍強く、私にとっては大好きな歌となっています。

 ネット情報ですが、明治43年、文部省『尋常小学読本唱歌』に初出し、作詞者・作曲者ともに不詳でしたが、宮原晃一郎(1882~1945年)の作詞という説が有力だそうです。

 まずは歌詞を載せておきましょう。

1、我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に 
煙たなびくとまやこそ  我がなつかしき住家なれ。

2、生まれてしほに浴して 浪を子守の歌と聞き 
千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり。

3、高く鼻つくいその香に 不断の花のかおりあり。
なぎさの松に吹く風を  いみじき楽と我は聞く。

4、丈余のろかい操りて  行手定めぬ浪まくら 
百尋千尋海の底  遊びなれたる庭広し。

5、幾年ここにきたえたる 鉄より堅きかいなあり。
  吹く塩風に黒みたる  はだは赤銅さながらに。

6、浪にただよう氷山も  来らば来れ恐れんや。
海まき上ぐるたつまきも  起らば起れ驚かじ。

7、いで大船を乗出して  我は拾わん海の富。
 いで軍艦に乗組みて  我は護らん海の国。 

 一通り読んでみて、難解なことはなさそうです。1番の「とまや」は「苫屋」で、草葺きの粗末な家のこと。3番の「不断の花のかおり」とは、磯の独特の匂いを、絶えることのない花の香りに喩えたのでしょうが、ネット上には、不断草の花のことという説もありました。しかしいくら何でもこの説は頂けません。「松風の音」と対句になっているのですから、それにつり合うような風情のある内容でなければなりません。確かに「フダンソウ」という植物はあるのですが、その様な特定の花の名前をでは、到底つり合いません。松風の音を美しい音楽と聞くというのですが、古来、松風の音は琴の音に喩えられるのが常套でした。またその逆に、琴の音は松風に喩えられるのも古歌の常套でした。作詞者は古来の歌言葉は熟知していましたから、このような表現となったのでしょぅ。しかしまだ腕白盛りの子供達が、琴の音の風情に関心を持つことなどないでしょうから、そこまで踏み込んで理解する必要はないでしょう。しかしこの歌とは関係なく、古人は松風を琴の音と聞いたということは、知っておいてもよいでしょう。海辺で松風を聞くこともあるでしょう。そのとき、いろいろ想像を膨らませて、昔を偲ぶことができるでしょうから。

 4番の「丈」について、1丈は10尺ですから、約3mということになります。「浪まくら」とは舟の中で寝ることですが、この場合は実際に船中泊ということではなく、あてもなくあちこち舟を漕いだということでしょう。「尋」について、1尋は両手を左右に伸ばした長さですから、まあ身長とほぼ同じということです。「百尋千尋」は実際の長さではなく、深い海にも潜ったということでしょう。海の底も、自分の庭のように熟知しているというのです。5番では、日焼けした逞しい少年の様子が浮かびます。6番では氷山や竜巻に触れられていますが、氷山が日本に来るはずはありませんから、困難や危険をも畏れないことの比喩としているのか、あるいは少年が成長して、世界の海に乗り出す覚悟を歌っているともとれます。7番の「いで」は「いざ」とか「さあ」という意味で、思い切って事に当たらんとするときの感動を表す言葉です。大船や軍艦に乗って、海の富を探ったり、護国の使命を果たそうというのです。

 歌ができたのが日露戦争後のことですから、当時の小学生がこの歌を歌う際には、日本海海戦のことなどが脳裏をかすめたことでしょう。その戦時色の故に、戦後は音楽の教科書から姿を消してしまいましたが、その後は1番から3番までが復活され、平成元年に文部省が発表した新学習指導要領で共通教材となったということです。

 まあそれは、現代のご時世にはやむを得ないことでしょう。しかし日本が「海の国」であるという認識まで削除してはなりません。日本の国土の面積は約38万平方㎞で、世界第61位に過ぎません。しかし領土の沿岸から200海里(1海里は1852m)の排他的経済水域の面積では、アメリカ・オーストラリア・インド・ニュージーランド・カナダに次いで、第6位なのです。

 「軍艦」ではありませんが、海上保安庁の「巡視船」や海上自衛隊の「護衛艦」は、現在も海国日本の利益を守るために、日夜活躍をしていることを忘れてはいけないと思います。都知事選挙に立候補している鳥越俊太郎氏が、かつて「尖閣諸島など中国にくれてしまえばよい」と公言したことがあります。私は鳥越氏全てを否定するつもりはありませんが、いくら何でもこの発言は頂けません。島自体は小さくとも、その政治的・経済的価値は余りにも大きく、「くれてしまえ」で済む問題ではありません。もし尖閣を獲られれば、次は沖縄が狙われることは明白です。中国は日清戦争で沖縄が日本に奪われたと思っているのですから。

 小学校で7番まで歌わせる必要はないでしょうが、海に憧れていた少年少女が成長し、船乗りや海上保安官・海上自衛隊員となって、誇らしげに歌うのは、大いに結構なことだと思います。私自身は男子高校で学び、臨海学校でこの歌を7番まで歌った記憶があります。先生が指導したのか、自分たちで自主的に歌ったのか、半世紀以上も前のことなので思い出せません。全員が赤褌姿で沖の島を一回りして戻ってくる遠泳に先立ち、景気付けのためだったようですが、記憶が曖昧です。

でんでんむし

2016-07-23 21:39:49 | 唱歌
 関東ではまだ梅雨が明けません。梅雨時にはかたつむりが印象的ですので、童謡の『かたつむり』について、思いつくままに書いてみます。

 明治44年の『尋常小學唱歌』第一学年用に初めて掲載された文部省唱歌ということです。作詞者・作曲者は共に不詳ということですが、文部省唱歌の場合、わかっていてもそのように不詳とされてしまいます。その辺の詮索については、私のような素人の手に負えるものではないので、それを専門にしている研究者に任せましょう。その後、削除されたり再び掲載されたりを繰り返しているそうです。

 まずは題の「かたつむり」のことですが、10世紀初めに成立した『和名類聚抄』という国語辞典には、「かたつぶり」という訓が記されていますから、古くからの呼称であることがわかります。「つぶ」や「つぶり」は巻貝総称でもありますから、問題は「かた」が何を指しているかということなのですが、ネット上では「かた」は「笠」に由来するとしたものが多く見られます。また昔の笠は縫い糸を螺旋状に縫ったので、巻き貝の姿に似ていたためという説明も見られました。しかし外見がはっきりと螺旋状に見える笠がかつて存在したという確実な根拠があるのでしょうか。笠は菅や藺草などの草を放射状に編んだり、薄く剥いだ竹を網代編みにして作られるものです。またそのような視覚的史料はたくさん伝えられています。しかし螺旋状に見えるほどに渦巻きが強調された笠は、私は史料で見たことがありません。私の見落としの可能性もあるので断定はできませんが、私は絵巻物の研究には相当な時間を割いてきたつもりです。材料の草を螺旋状に糸で縫うことはあっても、材料の草が螺旋状に巻いているわけではありません。そもそも巻き貝はみな渦巻き状なのですから、なぜにかたつむりだけが螺旋状の笠による呼称であるのか、説明が付かないではありませんか。昔の螺旋状の笠が語源であるというなら、その根拠や確実な証拠史料を知りたいものです。私としては「かた」については不詳としか言うことができません。

1、でんでん虫々かたつむり   お前の頭はどこにある   角だせ槍だせ頭だせ

2、でんでん虫々かたつむり お前の目玉はどこにある 角だせ槍だせ目玉出せ
 
 歌詞の「でんでんむし」については、江戸時代に「出出虫」と呼ばれていた確実な史料がありますので、「ででむし」が訛ったものとみて間違いはないでしょう。「出出」については、殻の中に引っ込んでしまったかたつむりに「出てこい、出てこい」と子供が呼びかけることによる呼称であるとの説がありますが、私もそれに同意します。

 「角・槍」が何を指しているかについて、ネット上にはいろいろ説があるようです。4本の触角があり、長い方の先端には目が付いています。これが角であることは問題ないでしょう。槍とは何か、ということですが、槍は左右一対で用いるものではなく、一本のはずです。すると残りの短い触角ではなく、交尾の際に出てくる生殖器とする説があるのです。しかし交尾する姿は余程運がよくないと見ることはできませんし、そもそもこの歌は、子供が目の前でかたつむりを眺めて囃し立てている場面です。槍はもう一対の触角と理解するのが自然ではないでしょうか。あくまでも童謡なのですから。

 『夫木和歌抄』という類題歌集に寂蓮法師のつぎのような歌が収められています。
○牛の子に踏ますな庭のかたつむり角のあるとて身をなたのみそ
かたつむりを牛の子に蹴らせて潰してしまうなよ。かたつむりよ、お前は角を持っているからと強がっているが、(踏みつぶされてしまうぞ)、という意味でしょう。寂蓮は平安末期から鎌倉初期に活躍した僧侶ですから、その当時からかたつむりには角があると共通理解されていたことがわかります。

 実はこの歌には本歌があります。後白河法皇が編纂された流行歌の歌詞集とも言うべき『梁塵秘抄』の巻二に、 次のような歌があるのです。「舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏破せてん まことに美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん」。大意は、かたつむりよ舞いなさい、舞いなさい。舞わないのなら、馬の子や牛の子に蹴らせようか。踏み割らせようか。ちゃんと可愛らしく舞ったなら、きれいな花の庭に連れていって遊ばせてあげるよ。これは子供がかたつむりと遊んでいる場面で、かたつむりがゆっくりと動く様子を「舞う」と見ています。実際によくよく観察してみると、触角をゆったりと上下左右に振るように動かしています。その様子を舞っていると理解しているのでしょう。そして上手に舞ったならば、お花の上に乗せてあげるよ、とはやしている場面です。なかなか可愛らしいですね。寂蓮法師の歌の「牛の子に蹴らせる」というのは、明らかにこの歌に拠っています。『梁塵秘抄』は流行歌を収録したものですから、かたつむりが舞を舞っているという共通理解があったことがわかります。

 すると思い当たる節があります。かたつむりのことを「まいまい」とか「まいまいつぶり」とも言うということです。ネット情報では「まいまい」は巻いていることに拠るという説明が多いのですが、それなら他の巻き貝もみな「まいまい」になってしまいますから、説得力がありません。平安末期にはかたつむりは舞を舞うものという共通理解があったことは確実な根拠がありますから、「まいまい」は「舞い舞い」に拠るものと言う方が納得できると思います。

追記
先日、江戸時代初期の京都の歳時記である『日次紀事』を読んでいたところ、四月の末尾に、子供達が集まって、かたつむりに「出出虫虫、出てこないと殻をわっ破ってしまうぞ」とはやし立てるという記述を見つけました。童謡の歌詞にも「でんでん虫々」と、虫を重ねています。つまりそのような言い方が江戸時代にあり、それが童謡に採り入れられていることがわかりました。小さな事ですが、新発見をしたような気分です。(平成30年3月30日)