一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【129】

2012-08-08 10:40:08 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【129】
Kitazawa, Masakuni  

 ヤマユリは終わり、ウグイスの鳴き交わしも間遠になり、強い日差しに蝉時雨だけがかまびすしい。サルスベリや夾竹桃の淡い紅の花叢が、樹々の濃い緑を彩っている。テッポウユリのつぼみはまだ青い。

文明の転換点としてのフクシマ  

 マス・メディアの異様なロンドン・オリンピック狂想曲がつづいている。主要新聞はスポーツ紙と化し、NHKにいたっては一時期、定時のニュースを見ようとスイッチを入れても、オリンピック・ゲームの中継という異常さである。国際的・国内的な重要ニュースもかき消され、とても正気の沙汰とは思えない。  

 それでも首相官邸周囲でまったく自発的にはじまった市民たちの脱原発・反原発のデモは、数万人の規模に脹れあがり、さすがメディアでも取りあげざるをえなくなってきた。いまや県庁所在地などの地方都市でも、それに呼応する数百人から数千人規模のデモがみられるようになった。  

 一昨年の「アラブの春」から、《ウォール街を占拠せよ!》の「アメリカの秋」にいたるまで、世界の各地で民衆のデモがくりひろげられた。強権的あるいは独裁的政治体制の打破から、人口のわずか1%が合衆国の富の20%を占めるという新自由主義経済がもたらした巨大な格差の是正要求など、テーマはさまざまであったが、そこに共通するものは政治的であれ経済的であれ体制がもたらした抑圧からの解放であり、その意味での人権の主張であった。  

 脱原発のデモも、基本的には同じである。平和利用という名の核の脅威、つまり一旦大事故が起きれば、ヒロシマ原爆何百発の量に相当する放射能が広範囲にわたってまき散らされ、何十万あるいは風向きによっては何百万・何千万のひとびとが被曝し、即死者がいなかったとしても長期にわたって癌など身体の異常を経験しなくてはならなくなる脅威に対して、自己を護る人権の主張にほかならないからである。  

 8月6日のヒロシマ・デイで、ヒロシマ・ナガサキの被曝者たちとフクシマの被害者たちが連帯したのも当然というべきであろう。いまは正常であるとしても、フクシマの被害者たちにいつ被曝の兆候があらわれても不思議ではない。  

 低線量長期被曝といえば、すでにウラニウム鉱山の例がある。ヒロシマ・ナガサキ(ナガサキはプルトニウム爆弾であるが、これもウランから精製される)に落とした原爆製造のために、1940年代、アリゾナ・ニューメキシコ州のナバホ族保有地に多くのウラニウム鉱山が開発され、ナバホ族優先雇用という美名のもとに多数のナバホのひとびとが鉱山で働いた。彼らはウラニウム鉱から発生する放射能(ラドン・ガス)の低線量長期被曝で肺・皮膚・内臓などの癌に冒され、死亡率約80%という高さで次々に死亡し、多数の未亡人をつくりだし、家族を困窮させた。それだけではない。ボタ山として山積みされたウラン鉱の残滓に含まれる放射能は水や大地を汚染し、鉱夫ではない多くの人々も長期被曝し、亡くなっている。私はすでに1980年代にこの事実をいくつかの雑誌で報告したが、最近やっと毎日新聞が取りあげている(「怪物この地から──ウラン鉱山と生きる米先住民」12年8月5日)。  

 ナバホのひとびとだけではない。あるいはアメリカだけではない。原爆実験の直後に爆心地に突入させられた兵士たち、実験場周辺の民間人、あるいはウラン精錬・濃縮工場、核兵器製造工場などの労働者、原発の下請け労働者など、世界で無数のひとびとが高線量・長期低線量被曝で亡くなり、あるいは病に苦しんでいる。兵器であれ平和利用であれ、この事実は「人類は核とは共存できない」という深刻なリアリティを物語っているのだ。  

 脱原発のデモは、先行する多くのデモと異なり、人権概念そのものを問い直し、それによる文明転換への主張を内在させているといってよい。

 人権概念の問い直しとは、人間の生存や生活の権利だけではなく、またそれを脅かす体制だけではなく、それを支えている知や文明や文化にいたるまで、人権の基盤を変えなくてはならないという主張である。

 すでにたびたび述べてきたように、あらゆる領域で利便のための合理性を追求し、軍事合理性の頂点としての核兵器、経済合理性の頂点としての原発を開発してきた近代の文明そのものを変革することが人権の究極の擁護であることを、脱原発のデモは教えている。

 運動には必ず盛衰がある。60年安保や70年安保、あるいはベトナム反戦運動など様々な運動にかかわってきたものとして、脱原発運動は共感をもってみつめているが、いつかそれが衰退するとしても、それは必ずなんらかの形で受け継がれていくであろう。袋小路に陥った近代文明は、人類の滅亡へと進むか、決定的な転換を迎えるかのいずれかの道しかないからである。