一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

おいしい本が読みたい●第二十三話

2012-08-15 22:43:42 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第二十三話  


                               

                             ある人生

 

世界の数十億のなかから、偶々つまみ上げたひとつの人生。おそらく、どこにでもある人生。ほかのどれと交換してもいい人生。少なくとも原作者は、そういうニュアンスの題名を選んだ。それが邦題では『女の一生』に化けた。いわずと知れたモーパッサンの代表作のことである。世上では名作の呼び声が高い。自然主義文学の傑作、とまで絶賛されることがある。現地フランスのポケット版では、トルストイのこんな讃辞が人目をひくようにカバー裏面に印刷されている。

   「『ある人生』は見事な小説である。それは単に、モーパッサンの最良の小説であるばかりでなく、おそらく、ユゴーの『レ・ミゼラーブル』以來、最良のフランス小説ですらある」

文豪トルストイがこうまで褒めるからには… と思いたい。しかし、モーパッサンには、もっとわたし好みの中篇、短篇がいくつもある。狂気を扱った、それこそゾクゾクするような『ル・オルラ』、老衰で今にも身罷りそうな老婆の死期を、ほんの少し早める吝嗇女を主人公にした『悪魔』、そしてなによりも『脂肪の塊』

素直に傑作として肩入れできないのには、わけがある。なにしろ『女の一生』のジャンヌは、なし崩し的に堕ちてゆく。落下したその場所で、せめて少しでも踏んばってくれたらと願うのだが、それはつねに裏切られる。女子修道院を出た当初から、ジャンヌには自分の人生を決める意思が薄弱だ。それが、十九世紀前半に生きた、北フランスの田舎貴族らしさ、なのだろうか。同じ自然主義でも、師匠格のゾラの作品の多くには、悲惨のなかにある力強さがあって、それが救いになるのだが。

 ところが、そんな主体性のない女主人公の一生を描いた作品を、意志力の横溢した女性が気に入るのだから人はわからない。しかも、自分の回想録もずばり『ある人生』と名付けた。『シモーヌ・ヴェーユ回想録』(石田久仁子訳、パド・ウィメンズ・オフィス)のことである。ヴェーユは思わず背筋を伸ばしたくなるほど誠実な知性をもち、それでいて緊張をやんわりとほぐしてくれそうな暖かさもある。その見事な融合が全編を貫いている。じつに知性的な文体だ。それを日本語的な口当たりの良さへといたずらに流さなかった訳者もさすがである。ほんとうの実力がなければこうはいかない。そのヴェーユの一節。

  「ショアに触れることを嫌がる人々がいる。別の人々は語る必要に駆られる。いずれにしても、だれもが皆ショアとともに生きているのだ」

重いことばだ。直接関係しなかったわたしたちにも、なにがしかの切実さを喚起する、重いことばだ。ただ、同じヴェーユから「あの体験を語らずにいられることが私には分からない」という不満が漏れるのは、いささか残念である。語るということは、もう一度それを生きるということである。強く生まれた人間は、語る責務を負う。しかし、弱く生まれた人間には、もう一度過酷な体験を生き直すことはむずかしい。

いずれにせよ、ショアの問題は重くて、厚い。その重さと厚さのなかに、もうひとつ謎がつけ加わる。ヴェーユに好意を寄せて、特別扱いをしてくれたアウシュヴィッツの女監督官である。別格扱いをした理由はよくわからない。立花隆は「確かにガス室ですぐに殺すには惜しい容貌だ」などとナチスばりの書評を書いてるが(なぜなら、この論理からいけば、容貌次第ではガス室ですぐ殺しても可能ということになるから)、容貌ばかりが好意の理由となるわけではない。とりわけ同性の場合、判断はむずかしい。

それこそ「語りえぬ」何かをヴェーユに感じとったのかもしれない。

小説はこの謎を書かれなければならない。ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』(新潮文庫)がまさにそれだ。刑期を終える直前に自殺する、もとアウシュヴィッツの女監督官。なぜ?

                             むさしまる