北沢方邦の伊豆高原日記【126】
Kitazawa, Masakuni
梅雨入りが近く、台風が近づいているというが、さわやかな晴天がつづいている。色とりどりのサツキが満開であり、蜜蜂たちを引き寄せている。野鳥たちも鳴き競っているが、一時姿を消していたホオジロの声が聞こえるようになった。数十年前には、他を圧するほど数が多かったのだが……
世界経済の行方
山ほど溜まっていたニューヨーク・タイムズ書評紙などをようやく読み終えたが、そこからえたさまざまな情報にもとづきながら、最近の世界の状況や知的動向などをランダムに考えてみよう。
まず前回の日記にひきつづき経済であるが、ユーロ崩壊の危機が迫っている今回は、リーマン・ショックよりはるかに深刻である。なぜならリーマン・ショック以後の世界経済の立て直し役を担った中国をはじめとする新興諸国に、大きな暗雲がひろがりはじめているからである。
ハーヴァードとオクスフォードで学んだインドのジャーナリスト、アカシュ・カープルが、高度成長を走りつづけてきたインドの恐るべき内情を報告している(Akash Kapur. India Becoming; A Portrait of Life in Modern India)。その他のインド情報とあわせながら紹介しよう。
さまざまなひとびとから指摘されているが、国内の経済格差の拡大とその深刻さは恐るべきものである。高度成長のおかげで確かに中産階級は飛躍的に増大したが、それをはさむ資産階級と貧困階級との格差は途方もないものになっている。現政権の新自由主義的経済政策は、ネルー以来のかつての社会主義志向時代の福祉政策をくつがえし、格差拡大を放置した。かつてはムンバイが典型であったが、大都市のスラムにも住民自身による秩序や相互扶助、あるいは革なめしなどの職業保障があったが、それも崩壊し、無秩序と犯罪が氾濫している。スラム再建計画の実施速度より、地方から流入するいわば経済難民の増大によるスラムの拡大の方が早い。
たしかにかつて、ある種のギルド的職業保障でもあったカースト制度は、急激な近代化とともに身分差別制度となり、独立後憲法でも禁止されたが、昔のそれを支えてきたモラル──昔の日本にもあったがそれぞれの職業に対する相互敬意など──も崩壊し、しかも近代市民社会に要求されるモラルも確立していないという状態である。いたずらに権利の要求や欲望のみが肥大し、衝突し、葛藤や暴力を生みだしている。
とりわけ置き去りにされた農村は、成長にともなう恐るべき環境破壊や農地の収奪に脅かされている。かつて豊饒であった土壌の50%は流失し、灌漑用水の70%は化学物質に汚染されている。それによって、ゆたかな農業国であったインドは、国の成立基盤さえゆるがされる事態に陥っている。
インドはもはや持続不可能な社会となり、体制となりつつあるとカープルはいう。それを転換する方策は? 彼もまたここで、たんなるノスタルジーではなく、マハートマ・ガーンディを思い起こしている。インドの心ある知識人たちのように……
おそらく中国も、また違ったかたち──政治体制と経済体制の深刻な軋轢と、知識人や中産階級に増大する民主化の要求──で持続不可能な社会となりつつある。これらの軋轢が経済の停滞や不況によって爆発する危険は刻々と迫っている。インドも中国も、国内の矛盾が極限に達しつつあり、リーマン・ショック時のように、もはや世界経済の行方にかかわりをもつ余裕はまったくないのだ。
モダニスト・フェミニズムの没落
バダンテールの『葛藤』の英訳が出版されたりして、しばらくフェミニズム論争が復活したようにみえるが、フェミニズム関係の本の女性評者たちは、バダンテールをはじめとする青木やよひのいう近代主義的フェミニズム(モダニスト・フェミニズム)にはきわめてきびしいようだ。
その論点は要するに、ひとつは妊娠・出産のアウトソーシング(人工授精や代理母出産など)の増大や産業化にみられる、女性の性や性役割の合理化が、結局女性の自己(セルフ)のアウトソース化、マルクスの古典的用語にいいかえれば「自己疎外」をもたらし、むしろ女性の真の自立を奪うこととなったというものである(Arlie R. Hochschild. The Outsourced Self; Intimate Life in Market Times)。
もうひとつは、男女の所得格差の是正などから出発し、女性の法的・経済的平等を訴えてきたモダニスト・フェミニズムは、結局新自由主義的経済体制のなかで、女性の知的労働力をもっと取り込み、活用することで企業は生き残り、勝ち残ることができるという企業文化に完全に取り込まれ、その役割を終えたとするものである。
これらの主張は、その名や概念こそ取りあげていないが、女性自身の身体性を基礎とし、それを自覚することによって自然や社会そのものとの絆を回復し、真の平等を手にすることができるとする「エコロジカル・フェミニズム」への回帰を示しているようにみえる。
青木やよひももって瞑すべし、であろう。