一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【65】

2009-09-02 19:29:58 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【65】
Kitazawa, Masakuni  

 9月に入り、急に秋めいてきた。3日は旧のお盆、つまり七月十五日の満月である。秋のはじまりを告げる七夕につづくお盆は、かつてはこうしたしっとりとした初秋の気配のなかで迎えた。夕闇にあちらこちらの門口で焚く迎え火の仄明かりと、苧殻(おがら)の燃える独特の香りがただようなか、大人も子どもも、彼岸あるいはあの世とはどんなものか、しばし瞑想にふけったものである。無意識の深みにアイデンティティや感性のよりどころを蓄積する、季節に応じたこれらほんとうの伝統行事は、もはやこの国から失われてしまった。

民主党の「圧勝」 

 メディアの予想どおり、民主党が「圧勝」した。高度成長時代の残滓を一掃する真の改革を実行せず、もっとも瑣末な「郵政民営化」つまり「郵政改悪化」というお粗末な「改革」を行っただけで、貧富の格差拡大や地方の切り捨て、福祉や医療の荒廃といったグローバリズムの負の遺産を残した「小泉改革」に対する審判として当然といえよう。鳩山新首相や民主党には大きな期待を抱けないが、これら負の遺産を少しでも改善できれば上出来といえる。そのためには、多くの大衆メディアが危惧している「小沢院政」を阻止し、社民党や国民新党とも対等に協力して、民主党や支持者たち全体の意思をまとめることであり、地道に真の改革を推進することである(幸いなことに、メディアのアンケートによれば、自民党と異なり、民主党当選議員の多数は憲法第九条改正に反対であるという)。 

 問題は、たとえば「官僚主導から政治主導へ」といっても、現行制度や体制の根本改革をしないかぎり、挫折するか、せいぜい半端な改革で終ることである。 

 近代民主制は、立法・行政・司法の三権分立体制といわれるが、わが国では立法が制度的・機能的にきわめて弱体である。それが行政府である官僚主導を生みだしてきた。高度成長期には、「先進諸国に追いつけ追い越せ」という国家目標や戦略がきわめて明白であり、国民にいたるまでその理念を共有していた。したがってそれに沿って官僚が描き、主導した青写真を政治は実行すれば済んでいた。 

 だがいまや、近代文明そのものが袋小路に陥り、グローバリズムは崩壊し、わが国に限らず世界全体が漂流状態にある。「政治主導」によって明確な国家目標や戦略を立てるためには、そうしたヴィジョンを生みだせるような体制や制度が必要である。 

 そのためにはまず、立法府の改革が必要である。たとえば参議院をアメリカの上院なみに改革し、議会スタッフを充実し、中・長期政策の立案と立法化を行う(今回民主党提案の「国家戦略局」設置は、現行制度のもとでは悪い案ではないが、大きく見れば政府つまり行政府に従属する一部局を作ることになり、立法府の自立を損なう)。 

 これは一例にすぎないが、わが国が近代民主主義に立脚するかぎり、三権分立の徹底化をはかり、制度の改革をはかるべきである。選挙目当ての党利党略に狂奔する現状(それは近代民主主義制度がもたらすもっとも悪い側面である)には、ほとんどの国民は飽き飽きしている。経済や社会の閉塞状況を打破する、少なくとも遠い仄明かりでも望めないとなれば、鬱積した不満や不安はどこに向かうか。歴史が教えるように、それはイデオロギーの左右を問わず強力な権力的指導者(フューラー)、または「ビッグ・ブラザー」への渇望となる。 

 民主党はそれをわきまえて欲しい。