一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

おいしい本が読みたい③

2006-12-10 11:38:54 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第三話  作家と出会う人々

 映画『サンチャゴに雨が降る』の背景を知りたいと思い、ネルーダの自伝と一緒に図書館から借りたのが『精霊たちの家』だった。といってもアジェンデ政権を崩壊させる国内外の政治的、社会的背景ではない。社会主義政権下で近代化をめざす小国チリで、人々がどんな感覚をもち、どんな夢を描いていたのか、それが知りたかったのだ。

 望外の収穫とはこのことだろう。アジェンデ家年代記ともいえる『精霊たちの家』には無数の人物が登場するが、彼らのおかげで、学術書や旅行記や案内書のたぐいではけして知り得ない、人々の息づかいを感じることができたのだ。いうまでもなく多くは架空の人物である。しかし、さながら、文字という表現手段をもたない者たちが自己を語るべく憑依したかのように、ある種のエネルギーをみなぎらせて、生き、行動する。一瞬の無口な横顔でさえ、ふしぎな光芒を行間に残して去ってゆく。

 どうやら作者のイサベル・アジェンデは、幻視力という特異な能力の持ち主らしい。『パウラ、水泡なすもろき命』を読んで、これにはいよいよ確信をもった。難病で死につつある愛娘の病室から、現実とも虚構ともつかない過去へと、またその逆方向に、作者は自在に往還する。それは、小説的戦略より以前に、ほとんど体質的な問題だったようにみえる。

 ところで、すぐれた作品は時代を象徴し、人々の声を代弁する、としばしば言われる。典型的人物を創造することはその最たる例だろう。けれども、アジェンデの作品を読んでいてあらためて思ったのは、能力のある作家の存在だけですぐれた作品がうまれるわけでなく、そもそも人々の生きるエネルギーが凝縮し、はけ口を求めていなければならない、ということである。

 イサベル・アジェンデの幻視力と人々の生の欲望の幸運な出会い。

むさしまる