一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その37

2011-04-05 21:22:46 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その37


          科学と政治の相克――
                         原爆をめぐるオペラ『ドクター・アトミック』

 

 東日本大震災は、マグニチュード9.0という稀にみる激震、それに続く大津波、さらに福島第1原発の想定外の大事故と、その被害は止まるところ知らない。東京も電力不足による計画停電が実施され、経済活動も日常生活も不安定な状態が続いている。とりわけ原発事故は、3機の原子炉で炉心が損傷し、いまだに収束の道が見えない。チェルノブイリを超える大惨事の可能性も否定することはできない。人間の力を超えた巨大な怪獣が暴れまわっている印象である。  

 その怪獣の最初の出現が、1945年の夏、広島・長崎であったことはいうまでもない。ここに取り上げるオペラ、アメリカの作曲家ジョン・アダムスの『ドクター・アトミック』は、原子爆弾製造の最終段階、ニューメキシコ州ロスアラモスでの数日間を内容としている。主役はマンハッタン計画(原子爆弾開発計画)を成功に導いたJ.ロバート・オッペンハイマーであるが、有能な科学者たちが政治の網の目に否応なく絡みとられていくさまがリアルに描かれている。このようなオペラがアメリカで作られたこと、しかも保守的なメトロポリタン歌劇場で上演されたことはやはり驚きである。  

 原子力の科学的発見は、1895年のレントゲンによるX線の発見に端を発するといわれている。それから40数年、1939年になると、核分裂によって生じるエネルギー利用の可能性が世界各地で議論の対象となっていた。ナチス・ドイツもその一角を占めており、ドイツからの亡命科学者たちは強い危機感を抱いていた。ドイツに先んじて原爆を開発しなければならない、そう彼らはルーズベルト大統領に勧告する(アインシュタイン書簡)。1942年8月に発足したマンハッタン計画の端緒である。翌43年にはロスアラモス研究所が開設され、原爆開発の核心的な技術研究が始められた。傑出した理論物理学者J.ロバート・オッペンハイマーが所長に就任する。  

 舞台は1945年6月のロスアラモス。原爆開発の完成が急がれている。横列に14、それが3層に積み上げられたボックスのなかで、研究者が仕事に没頭している。それぞれのボードには化学式が乱雑に書き込まれる。全米から多くの物理学者が動員されたこと、そのそれぞれが互いの連絡を絶たれて独自に研究を進めたことが暗示される。想定外の出来事が頻発する。タバコを手に、オッペンハイマーが舞台を動き回る。開発の最終段階に入り、苛立ちを隠せない。  

 最上層の1つのボックスから、オッペンハイマーに問いかけがある。原爆実験には日本の使節を立ち合わせるべきではないか。爆発の威力を認識させた上で、降伏の機会を与えるべきではないか。疑問を投げかけたのは若手のグループリーダー、ロバート・ウィルソン。のちにアメリカ物理学会の会長をつとめる男である。「水爆の父」の名を残したエドワード・テラーでさえ、良心の痛みを訴える。政治のことはワシントンに任せよう、我々は与えられた任務を尽くすだけだ、倫理が入り込む余地などない、とオッペンハイマーは答える。

 科学と政治、あるいは科学と倫理の相克を追究して見応えのある場面であるが、このような議論が原爆開発の技術者のなかで行われていたという事実は新しい発見であった。アメリカの原爆開発を強力に主張したドイツからの亡命物理学者L.シラードも、ドイツが原爆開発をしていないという確証を得られると、対日戦での原爆使用に反対する活動を展開することになる。このオペラでは、彼の書簡も読み上げられる。

 台本はアメリカの人気演出家ピーター・セラーズで、書簡、日記、手紙、証言など生の資料、ジョン・ダン(16~17世紀のイギリスの詩人)とボードレールの詩、『バガヴァッド・ギーター』からの一節など、多様な素材を駆使している。歴史上の登場人物が歌いかつ語る言葉は、すべてその人物が発した言葉あるいは思想の一端であるという。オッペンハイマーは『バガヴァット・ギーター』をサンスクリット語の原典で読んだというし、ジョン・ダンやボードレールの詩は愛読書であったらしい。第1幕の幕切れに歌われるオッペンハイマーの長大なアリアは、ジョン・ダンの詩〈聖なるソネット・神に捧げる瞑想〉の一節である。

 「私の心を叩き割って下さい、三位一体の神よ。これまで軽く打ち、息をかけ、照らして、私を直そうとされたが、今度は起き上がって立っていられるように、私を倒して、力一杯、壊し、吹き飛ばし、焼いて、造り変えて下さい。……」(湯浅信之訳)。

 タイトル・ロールのバリトン、ジェラルド・フィンリーは、張りのある艶やか声で、オッペンハイマーの苦悩を歌い上げる。まさしく、音楽の力を実感させてくれるアリアである。オペラは、セリフのみの芝居では伝え得ない、人間感情の内奥を表現することができる。加えて、現代音楽を特徴づける不協和音がいたるところで炸裂し、悪魔の兵器原子爆弾を象徴する。母親が日本人であるアラン・ギルバートの指揮は、人類初の核実験(1945年7月16日)にいたる3時間の舞台を、ただならぬ緊迫感で満たすことに成功した。セリフに難解な部分があるものの、この作品は、現代オペラの可能性を強く信じさせてくれるものとなった。 

《ドクター・アトミック》
2008年11月8日 メトロポリタン歌劇場(2011年2月2日 NHKBS hi 放映)
J.ロバート・オッペンハイマー:ジェラルド・フィンリー
キティ・オッペンハイマー:サーシャ・クック
グローヴズ将軍:エリック・オーウェンズ
エドワード・テラー:リチャード・ポール・フィンク
ロバート・ウィルソン:トーマス・グレン
メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団
指揮:アラン・ギルバート
作曲:ジョン・アダムス
台本:ピーター・セラーズ
演出:ペニー・ウールコック
初演は2005年、サンフランシスコ・オペラにて

2011年4月4日 j-mosa