一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【89】

2010-11-16 21:32:53 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【89】
Kitazawa,Masakuni  

 秋が深まってきた。雑木類も、すでに散りかけた黄葉やら、くすんではいるがまだ緑の葉をつけた樹やら、多様な色合いをみせ、裏の森では、ハゼの木があざやかな鮮紅色でたたずむ。枯れはじめた芝生の片隅に、サフランが10個ほど群れて咲いている。細く鋭い緑の葉を押し分けて、透きとおるほどに淡い紫の花が開き、長く濃い黄色の花の芯をのばしている。いつかこの花の色が好きだった青木が球根を植え、毎年咲いてきたものだが、今年はとくにみごとだ。この芯を集め、よく鶏肉や羊肉を使った中東風の本格的なピラフを作り、みごとな黄金色に輝くご飯を味わったものだが、いまやそれを喜んでくれたひとはいない。

文字の歴史の面白さ 

 人間の言語そのものは、われわれホモ・サピエンス・サピエンスが出現して以来、何十万年もの歴史があるが、文字の出現はそう遠い昔ではない。せいぜい新石器革命(約1万年以前)以後のことである。メソポタミアの楔形文字、エジプトや中国の象形文字、あるいはローマ字の起源である原シナイ文字など文字の歴史そのものも興味深い(歴史ではないがアジアの文字については、杉浦康平さんの『アジアの本・文字・デザイン』をぜひ読んでほしいし、漢字の歴史的系統については白川静の『字統』が興味深い)。

 たとえばローマ字のAを逆さにしてみよう。動物の三角の顔に2本の角が生えているのがわかる。遡るとそれは、原シナイ文字(シナイ半島で発掘された粘土板に書かれていたもので、古代セム語――のちにアラビア語やヘブライ語に枝分かれする――の文字)のアレフ、つまり「雄牛」であり、その語頭のアという表音文字に由来する。フェニキア経由でギリシアに入り、訛ってアルファ(ギリシア語としてはなんの意味もない)となるとともに、どういうわけか90度回転し、2本の角は右手に廻り、αとなった。ローマ字はさらに角を下に廻した、つまり180度回転させたものである。Bはおなじく2階建ての家をあらわすベートゥという語の表音ブの文字に由来していて、ギリシア語のベータβ、ローマ字のBとなった。

 スペインの征服者、とりわけマヤ語のすべての図書を焼き払った司祭ディエゴ・デ・ランダの暴挙のおかげで、長年にわたり学者たちを苦しめてきたマヤ文字も、古典期以後のそれはほぼ完全に解読されるにいたった。漢字という表意文字と仮名という表音文字を併用する日本語と同じく、マヤ文字は両者を併用するが、たとえば円のなかに抽象化された顔をあらわす「太陽」という表意文字は、同時に太陽の語のK’inという表音文字でもあり、また頻出する母音には何種類もの異なった表音文字が存在するなど、日本語よりはるかに複雑である(興味のある方はWikipaediaのMayan lettersを参照)。

脳と文字の不思議な関係 

 文字の歴史のごく一部を書いてきたのは、スタニスラス・ドゥエーヌというフランスの学者が英語で書いた『脳のなかの読むこと;人間創意の科学と進化(Stanislas Dehaene. Reading in the Brain;The science and Evolution of a Human Invention.2009)』を読み、大いに刺激されたからである。 

 かつて言語学者のノーム・チョムスキーは、母語の習得はたしかに出生後であるが、人間の言語能力そのものは生得的に存在し、それがあらゆる言語の習得を可能にすると説き、たとえ脳であっても獲得形質の遺伝を全否定するネオ・ダーウィニストたちの猛攻撃を受けた。だがいまや、人間の言語能力や「読む能力」は遺伝的なものであることは、この本を読んでも明かである。 

 言語を処理する脳の領野は、主として耳の上に当たる左半球のシルヴィウス裂溝とよばれる周辺であるが、読む領野は、それよりもかなり後ろの側頭葉にある。なぜなら視覚を統御する領野は左の後頭葉にあり、両者は密接に関連するからである。ドゥエーヌはそこを「文字箱」と名づけているが、それはすべての人間にとって普遍的である。 

 だが興味深いのは、文字箱の機能は文化や性別によって異なることである。つまりアルファベットやハングルなどの表音文字のみを使う文化では、文字の判読と意味の解読は左半球の特定の直接的な神経回路を経由するが、表意文字を使う文化、あるいはわれわれのように両者を併用する文化では、脳は視覚形態を判別する右半球の神経回路を迂回することになる(もちろん数10ミリ・セコンド(ミリ・セコンドは千分の1秒)という一瞬であるが)。著者は扱っていないが、マヤ文字ではもっと複雑な回路が要求されるだろう。ただ幸いにしてマヤ文字は神官や書記の独占物であり、大衆には関係なかったが。 

 このことは、表音文字のみを使用する言語文化のひとびとより、表意文字あるいは両者を併用するひとびとのほうが、いい意味で脳をトータルに酷使することで恩恵をうけているのではないか、という私の推測をもたらす。つまりわれわれは読むために、頻繁に脳梁(コルプス・カロッスム)を往復させる神経回路を使うがゆえに、脳梁の容積が大きいのではないか、ということである。脳梁の容積が大きいということは、言語脳・知性脳である左半球を、感性を含む全体的な認識やパターン認識を行う右半球とつねに交流させていることを示し、部分的な認識の鋭さよりも全体的な判断を先行させていることを物語っている。 

 性差に触れている余裕はなくなったが、男性よりも女性の方が脳や言語領野の保護機能にすぐれ、失語症や失読症(ディスレクシア)がはるかに少ないこと、あるいはこの本では触れられていないが、脳梁の容積が男性より大きく、総合的判断にすぐれていることを指摘するにとどめておく。 

 脳の損傷や癌の検査など医学的に広く使用されているMRI(磁気共鳴映像装置)が、人間や動物の脳の活動を詳細に追求できることが明らかとなり、脳神経科学の展開に絶大な威力を発揮することとなった。脳神経科学の今後の発展がさらに楽しみである。