一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【81】

2010-07-10 21:09:01 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【81】
Kitazawa, Masakuni  

 日蔭のためいつも遅いわが家のアジサイが満開となり、紫や青のこんもりとした花々が、梅雨の雨に打たれている。他方ではすでにヤマユリの季節となり、ヴィラ・マーヤの庭ではふくらんだつぼみが、あちらこちらに点在する。もう一週間もすると咲きはじめるだろう。雨なのに、ウグイスたちが元気に鳴き交わしている。 

 カラス科の鳥は好奇心旺盛である。まえにもそういうことがあり、青木が「あの鳥たちなにをしているのかしら」と首をかしげたが、その謎が氷解した。夕食づくりの時間帯、台所の窓の外でヒヨドリが2羽、空中でホヴァリングしながら楽しげにサーカスを繰り広げている。しばらく観察しているとそれは、換気扇から流れ出す強い気流に乗って遊び戯れていることがわかった。青木に報告できなくて残念である。

吉村七重主宰の現代筝のコンサート 

 この季節、豪雨といわずしてもかなりの雨だと、伊豆急線や伊東線がすぐ不通となり、伊豆高原は陸の孤島となる。雨の日は東京まで出かけるのに、空模様を眺めながら躊躇することが多い。だが7月8日(旧五月二十七日)に、美しい五月晴れ(梅雨の晴れ間)に誘われたうえ、日頃、現代筝の第一人者(古典ももちろん名手である)として敬愛する吉村七重さんの主宰する邦楽展22「二重の色彩(ふたえのいろどり)」があるため、墨田トリフォニー小ホールにでかけた。期待にたがわず新鮮で楽しいコンサートであった。 

 このコンサートのための委嘱初演の木下正道『宮沢賢治の短歌による「石をつむ」』(二十絃筝と筝歌のための)と、久留智之『移りの美学』(二面の二十絃筝のための)の二曲を含むプログラムで、この二曲もなかなかの意欲作で楽しめた。旧作ではあるが、新実徳英の『プレリュード』(十七絃筝と二十絃筝のための)や西村朗の『覡(かむなぎ)』(二十絃筝と打楽器のための)と同じく『秘水変幻』(横笛と二十絃筝のための)も演奏された。 

 新実の『プレリュード』は一見西欧風ではあるが、二面の筝が調律を変えながら繊細な音型を微細なリズムで絡み合わせながら展開し、循環していくもので、そのなかに世阿弥のいう「花」が音として仄かに浮かびあがってくる。何度聴いても堪能する曲である。西村の『覡』は、二十絃筝と西欧打楽器類の異色の組み合わせで、深く神秘な導入部とゆるやかな三拍子の祭祀舞曲からなる。これははじめて聴いたが、古代韓国風(あとで西村氏自身の解説を読むと、やはりカヤグム[伽耶琴]散調によるとのこと)の、大太鼓やシンバルと筝の奏でる三拍子の循環するリズムに、聴く者自身が憑依状態に陥っていく感覚を覚え、まさに異界を体験できる。単調なリズムと旋律によって神への階梯を昇っていく、イスラーム神秘主義スーフィーのデルヴィーシュ(旋回舞踏僧)の音楽とまったく同じ役割を担うものだ。 

 篠笛・竜笛・能管と持ち変えられていく横笛と二十絃筝のための『秘水変幻』は、それぞれの笛の特質を最大限に発揮させる楽想で、たとえば能管の裂帛(れっぱく)の気合のいわば滝に打たれることで、これもまた突如眼前に開かれる異界に参入できる。 

 たまたま行きの新幹線の車内で、『ナショナル・ジオグラフィック』の、アルディピテクス・ラミダスと命名された約4百万年以前のヒト科最古の骨の化石の記事(July 2010)を読み、人類の悠久の歴史(それでも地球の歴史からすればごく最近だ)に思いを馳せていたところで、これらの幽玄な音楽は、いまなぜ伝統か、という問いを鋭くつきつけてくれた。

いまなぜ伝統か 

 十七絃筝や二十絃筝などの技術的開発によって、筝の表現領域が飛躍的に拡大し、またさまざまな調絃が可能ということで、それらはわが国の現代作曲家たちの創作意欲を強く刺激し、これらの名作を生みだしてきた。 

 伝統は、だが、その種族の社会で生きたものでなくなるとき、たんなる文化遺産、あるいは文化財保護の対象にすぎなくなる。そのときはもはや伝統は、伝統ではない。明治近代化以後、長子相続という家元制度のゆがみ(明治以前では、優秀な弟子を養子として継承させてきた)もあり、わが国の伝統芸術や芸能のかなりの部分は、こうした遺産の伝承にすぎなくなり、かなり形骸化している。むしろ民間の伝承のほうに伝統は残っているといえよう。 

 古典芸術のなかでのこの筝の世界の在り方は、生きた伝統とはなにかを示すひとつのモデルである。

 そのうえ現代社会では、真の伝統がもつ深い意味がある。なぜならいわゆる理性あるいは合理性のうえにのみ築かれてきた近代文明は、ひたすら現世あるいは目にみえる世界での幸福や利便のみを追求し、かつて神々や異界という名であらわしてきた宇宙や大自然への畏敬の念をまったく喪失してしまったからである。 

 神々の世界あるいは異界との幽暗な境界を、直観や感性でとらえてきたこれら古典芸術は、いまこそみずからの担うメッセージをひとびとに伝達すべきなのだ。 

 コンサート「二重の色彩」はこうしたメッセージを伝えてくれた。だがいままでもそうだが、西欧近代志向のマスメディアは、文化や伝統の本質にかかわるこうした貴重な試みを今後も黙殺しつづけるだろう。